思わぬ収穫 3

 長い平日が終わり、漸く週末がやって来た。すり減った革靴がある玄関先を、ベッドに潜り込んだまま眺める。この位置からだとどのくらい踵が擦り減っているのか解らないけれど、直しておいた方がいいだろう。毎日あれだけの距離を歩き続けていたんだ、踵が減っていないはずがない。ときわ商店街に、リペアショップはあっただろうか。頭の中で通りを思い浮かべてみたけれど、記憶に上ってこない。健さんに訊いたらわかるかもしれないな。


 何かにつけて健さんに頼る僕は、もう彼なしではこの町で暮らしていけないかもしれない。


「恋人かよっ」


 自分で自分に突っ込みを入れて、ベッドから起き上がる。シャワーを浴びてからタオルを頭に被り玄関へ行った。脱ぎ散らかした革靴を持ち上げて踵を確認すれば、思いの外軽傷で済んでいることが分かった。それでも、行ける時に直した方がいいだろうと、紙袋に革靴を突っ込む。軽く朝食を済ませてから、革靴の収まる紙袋を片手に健さんのところへ向かった。


 ときわ商店街のアーチを潜って間もなくのところには、健さんの金物屋がある。自分の頭で何も考えることなく、リペアショップの場所を健さんに訊きに行こうとしてから思いとどまった。すぐに何でもかんでも頼るんじゃなくて、時には自分で行動しようと店の前を通り過ぎる。


 越してきて以来、僕はほぼ毎日のようにこの商店街に足を運んでいた。平日に寄るのは仕事帰りばかりだけれど、週末の商店街には昼間もよく訪れる。この辺りでは一番人気のある商店街だからか、とても賑やかだ。


 源太さんのところは、店舗の横に小さいながらも甘味処の席が設けてあるのだけれど、午前中からすでに満席だった。源太さんのところのお祖母ちゃんは、茶道の師範だったらしく。茶の点て方を教わったお嫁さんが、美味しい抹茶を淹れるのだとお茶屋のおキクさんが話していた。僕はまだ甘味処に行ったことはないけれど、源太さんの繊細で美味しい和菓子は、おキクさんの出してくれた緑茶と一緒に食べたことがあるから知っている。


 お茶屋のおキクさんは、話好きだ。長年住み続けたこのときわ商店街を、お店の中からずっと見続けてきている。沢山の人がおキクさんと話をし、源太さんの和菓子とおキクさんの淹れた緑茶を店先でご馳走になったんじゃないだろうか。その仲間に入れて貰えたことは、とても光栄だ。


 幸代さんのところからは、パンの香ばしくバターの効いたいい匂いが漂っていて、朝食を食べたばかりだというのに誘われてしまいそうになる。


 肉屋の増田さんの店からは、油で揚げた香ばしい香りが漂っていた。歩きながら食べられるようにと、小売りのコロッケやメンチカツを揚げているのだろう。つい先日買ったばかりだけれど、また食べたくなるのだから魅惑の商品だ。僕は、匂いにつられるようにして増田さんの店に足を向けた。


「こんにちは」


 声をかけると、増田さんが店番をしていた。奥さんは、中で惣菜を揚げているのかもしれない。


「この前は、ありがとうございました」


 僕は、メンチとコロッケ以外に入っていた唐揚げのお礼をした。


「ああ。そんな大したことじゃねぇよ。唐揚げの一つや二つ。気にすんなって。それより、よく寝たかい? この前よりは、少し顔色がいいんじゃないか?」

「はい。昨日は、早いうちから寝てしまいました」


 木曜日や金曜日辺りになると、疲れもピークで。帰りに飲みに行くかと結城に誘われたが、それを断り帰宅した。付き合いが悪くて申し訳ないけれど、本当に疲れてクタクタだったんだ。晩飯の時、箸を持ったまま舟をこいでしまうくらいだった。


「まっ。また元気出したくなったら、うちの肉を食いなよ。なっ」

「はい。ありがとうございます」


 軽く会釈をして、そのまま先へと進む。途中の角で立ち止まり、未練がましくペットショップに視線をやった。大切にしてくださいね、と笑顔で送りだしてくれた店員の顔を思い出せばあわす顔がない。背を丸め、並ぶほかの店を通り過ぎ、商店街の端までやって来たがリペアショップはなかった。


「意外とないもんなんだな」


 これだけたくさんの店が軒を連ねているけれど、目的のリペアショップは見つからなかった。仕方なく踵を返し戻って行く途中、おキクさんが店の奥から僕を手招きしてきた。


「おはようございます」


 挨拶をして招かれるままに奥へ行くと、いつものように丸椅子を勧められた。


「仕事はどうだい」


 おキクさんは、トントンと小気味いい音を立てて急須に茶葉を入れた。近くに置かれたポットから湯を注ぐと、置かれていた湯飲み茶碗にも湯を注いで器を温める。茶碗の湯を捨てると、優しく丁寧に急須からお茶を注ぐ。


「これは源太のところの新作だ。綺麗な羊羹だろう」


 盆の上には、おキクさんの淹れてくれたお茶と、源太さんの新作羊羹が皿に乗せられていた。


「ありがとうございます。いただきます」


 革靴を足元に置いて盆を受け取り、まずはお茶を口にした。熱すぎない温度と優しい茶葉の香り。口の中に広がるまろやかさと、ほんのりする甘味。尖った感じが少しもなくて、いつ飲んでもおキクさんの淹れてくれたお茶は美味しい。


「今日も美味しいです」


 笑みを返すと、おキクさんはにこやかに頬を緩めたあと、自分もお茶を口にした。皿に乗っている源太さんの新作は、ほんのり色づいた透明な羊羹の中に、すみれ色をしたあやめが咲いていた。


「今回のも、とても綺麗ですね。水中花みたいです」

「樹は繊細な心を持っていて、私は好きだよ」


 僕の感想に満足をしたようで、おキクさんはニコニコとご機嫌だ。


「今日はどこかへ出かけるのかい」


 おキクさんは湯飲み茶碗を皴皴の手で包み込むように持ちながら訊ねる。


「靴底が減っているので、直しに行こうと思っています」

「そうかい。物を大事にするっていうのは、自分を大事にすることにも繋がるからね」


 いいことだよ。と付け加えると、おキクさんは賑やかな休日の通りに目をやりながら僕の名前を呼んだ。


「いつき」

「はい」


 長い年月をかけて沢山のことを見てきたおキクさんの目に視線を合わせる。


「足元を見て歩くのも大事なことだ。石に躓いて、転んじまうかもしれないからね。でも、たまには上を見なさい。空を見て深呼吸するんだ」


 普段からうしろ向きになってしまう僕の感情を読み取ったかのように、おキクさんが頷きを見せる。お茶を持っている両手はそのままに、深く息を吸い吐き出した。その仕種に倣い、僕も深く息を吸い吐き出す。


「自分を大切にするためにも、上を見ることを忘れちゃいけないよ」


 何もかもを心得ているようなその言葉は、おキクさんの手と同じくらい温かくて、油断していた僕の涙腺が緩みそうになる。僕の心に巣食う黒く悲しいものを見透かしながらも、全てを優しく受け止めてくれるような目をしていたからだ。


 おキクさんとは何度もこうやって会話をしてきたけれど、僕の過去について話したことはない。なのに、全部見えているみたいに、僕の心をそっと包み込むような話し方をしてくれる。


 おキクさんの広い心を前にして、今ここで自分が犯してきた過ちを洗いざらい話してしまいたい衝動に駆られた。おキクさんなら、全てを受け止めてくれると甘い考えに心が傾いていく。けれど、僕の口はなかなか開くことがなくて。心の中に蟠る思いを言葉にすることが難しくて、ただただおキクさんを見ていることしかできなかった。


「大丈夫。いつきは、大丈夫」


 何度も頷き、言葉にできず泣きそうな顔をする僕を見て、おキクさんは優しく見守るようにしてくれた。

 源太さんの綺麗な羊羹とおキクさんの淹れてくれたお茶をしっかりと頂き、お辞儀をして店を出た。


「またおいで、いつき」


 店先に出て見送るおキクさんに、もう一度頭を下げる。滴が一粒だけ、店先の地面を濡らした。


 革靴の収まる紙袋を再び手にし、さっきおキクさんの店でしたように深呼吸をする。見上げたところには、ときわ商店街の透明な屋根が連なっていて、その向こうには青い空が窺えた。濃い青になりきれない空の色を見て、夏が来るにはまだ早いのだと気がついた。涙のあとを拭い、心を落ち着かせながら健さんの店まで戻った。


「リペアショップ? なんだ、女に合鍵でも作んのか?」


 訊ねる僕に、健さんはからかうようにして笑う。残念だけれど、合鍵など作って渡す相手などいない。


「確か、あれだな。商店街から外れた少し先にあった気がするぞ。あっ、あれだ。さっちゃんに訊いたら知ってんじゃないか」


 さっちゃんというのは、パン屋の幸代さんのことだ。


「そこの店主が、さっちゃんの旦那の同級生だって聞いたことがあるぞ」

「わかりました。ちょっと訊きに行ってみます」

「本ばっかり読んでないで、合鍵渡せる女を作れよ~」


 健さんのちょっとばかり大きくからかう声が通りを歩く人にも聞こえてしまったようで、数人が僕を見るから恥ずかしくなってしまった。


 恋活応援で見送られる中、もう一度踵を返して幸代さんのパン屋へと向かった。店に近づくにつれ、あの香ばしいバターの香りが鼻腔をくすぐる。帰りに買おうかな。


「こんにちは」


 申し訳程度の音量で挨拶をして中に入ると、幸代さんが焼き立てのクロワッサンを並べているところだった。めちゃくちゃいい匂いだ。


「あら、いっ君。いらっしゃい」


 クロワッサンの美味しそうな姿と匂いに気を取られていたが、手にぶら下げている紙袋で本題を思い出した。


「幸代さん。この辺りにリペアショップがあるって聞いたんですけど。ご存知ですか?」

「うん。あるよ。商店街の通りを健ちゃんのところまで戻って、ほんの少し手前の角を曲がって二本目の路地を右に曲がったところに「リペア川口」っていうお店があるの。二軒隣がたこ焼き屋さんだからすぐに解ると思う。うちの旦那の同級生がやってるのよ」


 健さんが言っていた通りだ。よかった、これで靴を直せる。


「ありがとうございます」

「彼女に合鍵でも作るの?」


 どうやらここの商店街の人たちは、考えることが一緒のようだ。


「いえ。彼女なんていませんから」


 控えめに訂正すると、ちょっとだけ驚いたような顔をされた。


「そうなの? いっ君、モテそうなのに」


 そう言ってくれるのは嬉しいけれど、本当にいないのだ。


「健さんみたいに、もっと社交的だったらいいと思うんですけど」

「健ちゃんね。あそこまでいくと、社交的以上だけどね」


 幸代さんは、クスクスと可笑しそうだ。


「じゃあ。今のところ、いっ君の恋人はということかな」


 僕が本好きだという情報は、多分健さんから伝わっているのだろう。


「そうですね。本を読むことが、今の僕には幸せな時間です」

「あっ。知ってる? 今話したリペアショップの先に行くと図書館があるのよ。どんな恋人が棚に並んでいるのか、覗いてきたら?」


 近所に図書館があればいいなと思っていたから朗報だ。


「知らなかったです。そっちにも行ってみます。ありがとうございました」


 思わぬ収穫だ。越してきたばかりで、この商店街以外は他に何があるのかよく分からなかったから嬉しい。


 図書館のことを知り、弾む足取りで幸代さんに教えてもらったリペアショップへ向かった。


 リペア川口は、一坪ほどのとても小さな店で、店主は真面目そうな人だった。


「あとでまた来ますので、預けて行ってもいいですか?」

「いいですよ。夜九時までやっているので、それまでにいらしていただければ大丈夫です」


 リペアショップの川口さんは、目元に深い笑い皴を浮かべ丁寧な物腰で対応してくれた。

 靴を預けて身軽になった僕は、図書館に向かった。


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