第34話 萌の伝言
華が声の方に振り返るよりも早く、キクコの腕が伸びた。
伸びていく先は、萌だ──
キクコの顔は90度に傾いたまま、口らしい場所が釣りあがる。
萌に、笑ったのだ。
「どもだぢ」
リズムも音程もおかしい音色が聞こえだす。
それはキクコの関節が生まれる音で奏でられる音楽だ。
肉が伸びてちぎれ、軟骨が外れて組み立てられた8本の腕。それらは20もの関節を作りながら、萌へと向かう。
このとき、華はすでに走りだしていた。
呼び止めるコンルの声も無視して、だ。
なぜなら、執拗な攻撃は止まっていない。
捕まえようと伸びる腕を華はがむしゃらに刀で弾く。
紫炎の火花を散らしながら、弾く方向も何も読まずに斬り叩いた結果、キクコの手首が頬かすめ、太ももをちぎり、首筋を抜る。まるで勢いがとまらないホースのよう。
不規則な動きで華を翻弄しようとするが、華には無意味だ。
目的の場所にとにかく行ければいい。
前の前にあれば、斬ればいい!
「……邪魔だぁっ!」
ロンダートに入る。
美しい姿勢で刀を握ったまま床に手をつき、地面を高く蹴り上げたあと、3回バック転をするが、着地と同時に、萌の前で刀が弧を描く。
華は、ピタリと萌の前で止まった。
背中の後ろに萌の気配を感じながら、華は言う。
「……キクコぉ、斬られる覚悟、できてっかー?」
半頬が、はらりと落ちた。
水溜りがぴしゃんと跳ねる。
顎から滴る血が、あとを追って落ちていく。
萌は、すでに腰が抜けていた。
雨で濡れる公民館のタイルが、赤に染まりだしている。
だが華は、痛みすら感じないのか、顎を伝う血を、黒い袖で拭った。
すぐに顎先に伝って、血が乾かない。傷が深いのだ。
その事実に舌打ちする華に、萌はどうしてか声をかけられない。
目の前の姉が、姉じゃないように見えてしまう。
あまりに、現実離れしているのだ。
まるで、本当に、魔法少女の世界の人みたいに、異次元の人に見えてくる。
こんなに近くにいるのに、とても遠い────
「萌、大丈夫?」
華の声に、いつもの声に、萌はすがるように返事をする。
うわずった「うん」という声だが、華はそれに満足したのか、振り向かずに頷いた。
おもむろに肩を突き抜けた手を華は引っこ抜くと、さらに脇腹で押さえつけていた暴れる腕ともども斬り捨てた。
地面に転がったキクコの手は、墨汁でも撒き散らしたように公民館の白いタイルに広がっていく。
思わず立ち上がった萌だが、さらに息を飲む。
太ももはところどろこ肉をちぎられ、ヘドロがこびりついているが、ふくらはぎを伝っていたのは、血だったのだ。さらに、黒のスカートから滴るのは、雨に押しだされた鮮血だ。
黒と赤の水溜りが、華の足元にじわじわと広がっていく。
「どもだじぃいいいいほじいいいい」
「黙れ! あたしの妹に、手ぇ、出したこと、後悔させっからな!」
キクコの顔が歪む。
まるで見たくないものを見たような、そんな顔だ。
赤い眼が細まり、口がへの字に傾いた。
カクンと顔が元の位置に戻るが、殺気が増している。
当てられる恐怖に、膝が震える。
華は鼻で笑った。笑うしかない。
倒すしかない相手を恐れる暇などないのだ。
再びのびる手をコンルが叩き落としてくれるが、数が増えていく。
「萌、伝言、あんだろ?」
「……桜の木に、猫がいるのが聞こえたんだ……キクコを止めてって……ごめ……、ねーちゃ……ごめん……」
「泣き虫さんだなぁ。中に入ってろよ?」
華は腹に力を込める。
踏み出した体から、熱が漏れる。
「コンル、縄が巻かれてる、あの、でっかい桜の樹を粉砕しろ! キクコは、あたしが、やる!」
華はつま先に力をこめ、飛び上がった。
上体ひねりを加えながらの宙返りは、キクコの腕をうまくかいくぐっていく。
はじめて間合いに入れた。
首をめがけて突きを放つが、後方へとうまくかわされる。
ぐわりと包み込むような腕の波に、華は刀を8の字に精一杯振り抜いた。
振り上がった刀は、地面に黒い線を引く。
刀といっしょに舞い上がったヘドロが、勢いよく地面に落ちたからだ。
一瞬の間をおいて、キクコが悲鳴をあげた。
両腕が消えている──!
すぐに背中から腕をはやしたキクコだが、本来の腕は消失している。
もしかすると、腕の数にも限界があるのかもしれない。
今まで溜めこんできた『おともだち』の腕の本数の可能性、である。
だが、数などどうでもいい。
もう、増えることはない。
減るだけのはずだ──
その可能性があるなら、攻撃は止めない!
間合いも詰めて、詰めて、詰めまくる!
今が、押すとき───!!!
華の猛攻にあわせ、コンルは桜の木を懸命に探していた。
「……縄がある……縄……あれですね!」
公民館の南側、少し奥に見つけた。
コンルは桜の木がなにかはわかっていなかったのだが、縄を目印に見つけられた。
本当に見事に大きな木である。近くに『エドヒガン』と褪せた看板が添えてあり、この木の名前なのは間違いない。だが、サクラと書いていないため不安になるが、確認する暇もなければ、この木以外、縄がついている木はないのも事実だ。
コンルは、この巨木に打ち込むための氷の生成を開始した。
呪文を呟く足元には、黄金色の魔法陣が浮き上がる。
すぐに小さな欠片がみるみる大きな杭へと変化していく。
裏山を凍らせたときは、杖は使わなかった。
大雑把に凍らせるのであれば、杖は不必要なのだ。
力を解放するだけでいい。
だが、強度と正確さをもって扱うためには、魔法陣を用い、創っていくの方が間違いない。
多少時間を使っても、確実に凍らせ、粉砕させるためには必要なのだ。
この状況に、キクコはただ振り回される。
黒い皮膚の奥の目で、華、萌、コンルをとらえるものの、どれも確実に仕留められない!
華の猛攻を止められない……
萌を取り込めない……
コンルを足止めできない……
一瞬にして後手に回ったキクコは、咆哮を上げた。
あの泣いた日と同じ声がキクコには聞こえる。
もう、泣く日はいらないのに。
せっかく集めた友だちは消され、新たな力の猫も奪われ、成すすべがない。
だが、まだよしこがいる。
よしこがいれば、友だちを増やせる───
髪を逆立てたキクコは、黒い液を雨ににじませながら、コンルに手を伸ばしていく。
それはキクコの本当の手だ。
隠していた、大事な大事な自分の手。
青白く、小さな手が、不規則な旋律を奏でながら関節を作り、伸びていく。
「危ない、コンル!」
華の声は届かない。
過集中といってもいい。
コンルは全くまわりに気づけない。
華はその白い手を斬ろうと腕を伸ばすが、背中からの手に足を取られた。
真逆の方向に投げ飛ばされ、着地で精一杯だ。
叫ぶ声も出ない。
コンルの首に、手がかかる。
大人よりも数倍も大きな手に変化する。
コンルの首を握りつぶす気だ。
華は叫ぼうと息を吸う。
だが、華もまた、肩を抑えられ、首を締め上げられた。
もがくだけ無駄だ。
ぎりぎりと閉まる手が、首に食い込む。
「……こ、んる……」
諦めず、手を伸ばした華だが、コンルの首は握りつぶされなかった。
不意に切り落とされたのだ。
「コロス! 神、イジメタ! コロス!」
アンゴーだ。
アンゴーは、体の5倍はあるだろうナタで、蜘蛛のように指が伸びた手を叩き斬ったのだ。
キクコからけたたましい悲鳴が上がる。
華の首を絞めていた手も、ゴムがちぎれたようにキクコへ戻っていく。
不意打ちをかましたアンゴーは、意気揚々と渦に入ると同時に、コンルの詠唱が終わった。
コンルの頭上で浮いた杭は、特大だ。
透明度も高く、雨の滴りすら凍らせる。
「……せいっ!」
コンルは浮いた体全部を使って、杖を振りぬいた。
やはり勇者だ。
振り抜いたあとの体勢はクラウチングスタート。乱れたツインテールをかきあげる様は、まさしく男だ。
さらに破壊力も凄まじい。
御神木を指す縄をちぎり、幹を抉るように潜っていく。
深く深く刺さりこんだ瞬間、砕ける音とともに、氷の花が咲いた。
幹を割りながら、咲き誇る氷花。
太い幹を内側から壊していく──
刺さった箇所から削れたせいか、木のバランスが崩れたようだ。
雨で緩んだ地盤を持ち上げて、根っこから大きくひっくり返る。
その根の深くに絡んでいたものが、鳴いた。
「……雨……あめ……雨……」
この猫もまた、神の予言を持った猫だったのだ──
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