吊り橋は、愛と奈落に落ちる場所

神﨑らい

私と私、と――



 私の妻君は良くできた女だ――。

 気丈で奥ゆかしく、大抵のことはそつなくこなす。なんと言っても口下手な私を愛し、上手に立ててくれる。

 職業上、私は出張が多い。国内ならず海外へ出向くこともしばしばだ。それでも献身的に支えてくれる妻には、感謝してもしきれない。

 仕事を終えた私は、妻に帰宅すると一報を入れ、帰国の旅客機に搭乗した。





 それは唐突な知らせだった――海外へ出張した夫から、昨日に帰国するとの連絡をもらっていた。夫は今、空の上にいる――そう、上空にいてくれなければ困るのだ。

 なのに『○○便航空旅客機失踪』なんて不吉な一報が、つい今し方、夫の会社より届いた。お気を確かに――と、そんなことを言われたって、私にはどうすることもできない。

 その日から私は塞ぎ込んだ。探しても探しても夫の搭乗した航空機は見つからない。毎日、寝ていたって胸を締め付けられる不安に苛まれ、呼吸の一つもままならない。腑抜けた私を義母は激しく叱責した。なにを言われても私は無力だ。無事を祈るしかできない。

「私は守られた環境で平和に過ごしているのに。あの人は今にも死んでしまうような、絶望の世界にいる――! これがどうして、落ち着いてなどいられましょう!」

 私は義母に掴み掛かり泣き叫んだ。久しぶりに声を張り上げたせいか、酷く喉が痛い。義母はあやすように私の背をさすってくれた。その優しさのために、私は涙の止め方をすっかり忘れてしまったらしい。

 十日が過ぎた。待つ苦しみとはこれほどか――自身でも、日々やつれていく様が手に取るようにわかった。昼夜問わず泣き腫らし、眠れない夜を孤独に過ごす。心にのし掛かる重圧に、近々この身がひしゃげてしまうだろう、そんな馬鹿げた妄想まで繰り広げるようになっていた。

 そしてついに、私は過労に倒れた。夫の乗った飛行機は、まだ見つかっていない。あんなに巨大な機体も、広大な海では小さな鉄屑に成り果てる。針の穴を、弓矢で射るようなものなのだろう――私は夫の生還を諦めるように眠りについた。





 なんと幸運な――旅客機の墜落と言う壮絶な状況下で、私は生きていた。突如制御不能に陥った航空機は、このままでは墜落するからと操縦士は海面着陸を申し出た。乗客は半ばパニックに陥り、機内は騒然としていた。頭上から酸素マスクが降り、首にクッションを巻かれブランケットを配られた。私はここで死ぬのだと腹をくくっていたのだ。

 投機はパイロットの手腕により、機体の大半が崩壊しものの不時着に成功した。半数以上の乗客が行方不明、もしくは死に至ったため、大っぴらには語れないが、半数を生かしたのだから成功と言ってもいいだろう。航空機事故はほぼ生還などできないのだから。

 生存者は手当たり次第浮くものにしがみつき、大海原を泳いだ。不幸中の幸い、九死に一生――幸運にも島が見えていたのだ。体力の限り私たちは泳いだ。見ず知らずの乗員乗客が助け合い、手を取り合った。島へたどり着けずに命を落とした者もいる。けれど、私は島へたどり着き生還したのだ。




 セイコ、今帰ったよ――待ち焦がれた夫の姿に、私はすがり付き泣いた。

「よく――、よく帰ってきてくださいました、忠臣さん」

 そう泣き咽ぶ私を、忠臣さんは優しく抱き締め「心配掛けてすまなかったね」ただいま――と、変わらない暖かさで慰めてくれる。この瞬間をどんなに待ちわびたことか。私は幸福の絶頂にいる。こんなにも幸運で幸福なことが、他にないと断言できるほどだ。本当に夢のようだ。

 そして、夢とはちゃんと覚めるものでもある――私が目覚めたのは夕刻だった。静寂が耳に痛い。羨望した夢の後に訪れる虚無と絶望は、酷く耐え難い痛みを私に与える。明かりの射す扉を閉ざされ、暗黒の深淵に突き落とされたように。私は堪らずしばしの眠りに落ち、幸福の扉にすがった。

 希望はいつしか暗転し、惨く侘しいものを見せるようになった。忠臣さんが私に手を伸ばす。私は無論、彼の手を取る。その手は異様に熱く、私は思わず手を離す。だが、彼はそれを許さない。私の手を掴み、助けを求めてくる。糜爛した肌、判別できない歪な顔、首も腕も胴も脚もあらぬ方を向いている。そして私に泣きすがるのだ。セイコ、痛い、痛いよお。熱い、焼けてしまう、苦しい。助けてくれえ――と。

 すがった幸福の夢は、いつしか文字通りの悪夢と化していた。




 別な女ができたからと、あれやこれやと面倒が付きまとう。まさか自身が体現するとは夢にも思わない。さあ、正念場だ。泣かせ傷つけても、私は彼女への愛を証明せねばならないのだから。

 無事に帰国した私は、帰ったよと声を掛けて自宅へ上がる。セイコを探し中居の襖を開いて、込み上げる狂喜にほくそ笑んだ。

 天井を横断する、黒光りした立派な榛が軋んでいる。電気コードが巻かれ、畳には水溜まりができているではないか。私は異臭に身が震えた。

 本当に、よくできた女だ――私を見下ろす妻だったモノを見上げ、妻と迎える女の手を強く取った。



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