いきつまる日々には空白を
不可逆性FIG
いきつまる日々には空白を
身体が傾いてしまうほどの急停車だった。
座っていた藍色の座席ごと不意に引きずられた慣性に重い目蓋をこすりながら、私は小さなあくびをひとつ。
何事かと周りを確認すると、線路の途中でのぼり方面の景色は止まっていた。電車が他線との調整などで止まることはそれほど珍しいことではない。──珍しくはないが、今日のブレーキはいつもより乱暴だった。スマホで時刻を確認する。今は午前10時の少し前。
イヤホンから薄く流している音楽の隙間から乗客のざわめきが耳に届いた。どうやら何かアナウンスされているらしい。イヤホンを外し、その内容を聞く。
「──ただ今××駅にはおきまして発生いたしました人身事故による影響で、本線も緊急停車いたしました。お急ぎの皆様にはご迷惑をお掛けしてしまい、大変申し訳ございません。なお、次の停車駅まで徐行運転での走行と致します。もうしばらく――」
イヤホンを付け直す。
どうやら今日の私は運が無いらしい。軽く寝坊して、わりと急ぎ目に準備をして電車に乗ったらこれだ。
タタンと、ゆっくりと電車は動き出す。タタン、タタン……いつもの何倍もたっぷりと時間をかけて次の駅に到着した。直後、再度アナウンスが流れる。
「ただ今、警察による立ち入り調査のため、全線で運転見合わせしております。なお、運転再開まで2時間前後を予定しております。お急ぎの皆様にはご迷惑を――」
乗客の不満とどよめきが一層大きくなって車内を嫌な空気で満たしてしまった。
所在なさ気に控えめな開閉音を立てて、ドアが開いた瞬間、堰を切ったように人々が外へどっと溢れだす。私はというと、相変わらず座席に座ったまま徐々に寂しくなっていく車内をぼうっと眺めていた。こういう空気はなかなかに好きだ。終点に着いて、詰め込まれた人間が駅に吐き出されていく中で自分だけが空間に取り残されいく感覚。居心地の悪い居心地の良さ。普段ならすぐに乗車してくる人がいて、寂しい世界は5秒と持たない。誰も乗りたがらないこの電車には、そんな刹那がずっと続いてるようだった。
等間隔に降り注いでいる窓の形に切り取られた穏やかな陽だまりがじわりと暖かくて、私はまたあくびを漏らす。どう頑張っても、もう遅刻は確定している。だったら、もう焦ることは放棄してしまおう。こんなにも静かな電車だ。ランダム再生で流れたこの曲の間だけ、もう少し目を閉じていよう……。
──おそらく人が死んだのだろう。もはや動く気配すら失くし、鉄塊と化した電車にはしんとした静寂が足元に沈殿していた。
この線路が続く直線上のどこかで誰かが死んでいる。非日常な現実が私に実体を持って忍び寄ってくる気配。1本か2本か、早い電車に乗っていたら、私の目の前でもしかしたら。
「そんなの望んでないって」
ひとりごと。
私は大きく伸びをする。腕も脚も突き出して。朗らかな陽光が手の甲に当たる。よく晴れた秋の日はじんわりと暖かった。
寂しい世界も慣れるとただの何もない車内である。変わらない風景に飽きてきた。このまま走り出して、私だけの風景を窓の外に映してくれればいいのに。つまらないな。
独り占めしていた席を立ち、開きっぱなしのドアをまたぐ。振り返ると、誰もいなくなった電車がぽっかりと口を開けて佇んでいた。さっきまでいた藍色の座席に埃の粒と私の幻を見る。……さて、これからどうしようかな。
*****
プラットホームを降りて、改札に向かうと大勢の人が駅員一人に詰め寄っているのが見えた。何やら怒号と罵声が聞こえる。ああそうか。忘れかけていたけど、電車に乗る人は急いでいるほうが多いんだった。作業着の人を先頭にスーツ姿の人が周りを取り囲んでいる。落ち着いてください、と駅員が人々と対話をしようとしてた。
どうしたって電車は動かないのだ。無駄なエネルギーを消費をしないほうがいいのでは、と不安と苛立ちで声を荒げる人たちに向かってぼんやりと思う。私だって駅員に怒鳴れば電車が動くのなら、苦労はしない。そんな苦労などしたくはないけれど。
定期券でピッと改札を抜けて、普段は通り過ぎるだけの駅に降り立つ。改札付近はやかましいので、少し離れてみよう。
知っているような知らない街というのは少しわくわくするのだ。いつも見かけるコンビニの看板があると、とりあえずどうしてか安心したりして。同じ飲み物が売ってて、よく飲んでる味だとそれにも安心したりして。
「ぷはー」
駅のロータリーに刺さっている車の進入禁止柵に座って、カフェラテを味わう。ベンチにでも座って時間を潰したかったけど、あいにくどこもかしこも先客で埋まっていたのでここしか無かったというわけだ。それにしても年季が入っている。オレンジ色のペンキ塗装がところどころ剥がれていた。こりゃスカートに汚れが付くかな、また洗濯かな、と良く晴れた青空に問いかける私。
相変わらずごった返す駅の改札付近。しばらく動かない電車。何も知らずに向かってくる人。少し肌寒くて陽は暖かい、そんなのどかな街並み。
「あのう、お嬢さん」
ぼうっとしていると横から誰かに話しかけられた。振り向くと人の良さそうなお婆さんが小さい子供を連れていた。
「はい?」
「駅に人が多いから何かあったのかしら、と思って」
「ああ、どうやら人身事故みたいです。なんか2時間くらい動かないらしいですよ」
意味もなく誰かから聞いた風に演技してしまった。
「あらまあ、あらまあ……どうしましょう。お父さんに迎えに来てもらおうかしら……」
おばあちゃんどうしたの、と手を引っ張って尋ねる子供。
孫と祖母なのだろう。よく見れば、孫がいてもおかしくないぐらいの見た目だな。私は心の中で失礼なことを考える。
今からどこかへ出かけるのだろうか。かわいそうに。まあ、他人事なのでそこまで同情はしてあげられないけれど。
「教えてくれてありがとうね。お嬢さんも学校まで気を付けるのよ? それじゃあね」
おばさんは焦ったような口調で一方的に感謝とお節介を告げて、駅から離れていく。
電話をしていたが、その先の誰か──おそらくお婆さんの旦那だろう──と会話が生まれなかったことから、相手は電話に出なかったのだ。こんな時間だ。お仕事中なんだろう。
なんとなく気になってお婆さんと孫の背中を目で追いかけていると、案の定というか当然というかタクシー乗り場の行列の最後尾で止まる。それは果てしない行列だった。巡回バスも無い街なので仕方ないといえば仕方ないのだけども。それでも自分が並んでるわけでも無いのに、あのお婆さんと孫が並んだのを見ただけで吐き気を催しそうになりそうだ。おえー。
並ぶのは好きじゃない。一度、定期券の更新を忘れていて新学期直前の駅に行ったら、途方も無い学生の行列に巻き込まれたことがある。言わば流れ作業だったので、そこまで時間をかけたわけではない。けれど、体感的にはひどく疲れた。常に動いてるわけでもなく、かと言ってまったく動かないわけでもない。そんな亀の歩みみたいなものが嫌いなのだ。余談だが、某夢の王国に遊びに行ったときでさえも譲歩して2時間以上の待ち時間は論外と決めている。
行列に並ぶくらいなら、私はこうやってそれを眺めていたい。人の移ろいの外側に居る感覚が寂しくて好きとも言えるかもしれない。
空は青いし、人は多い。だけど、カフェラテは美味しい。ほろ苦い甘さが私を満たしてゆく。
未だ電車は運転再開のメドが立たずに沈黙したまま。駅員を囲んでいたやかましい喧騒も幾らか収まったらしい。イヤホンから溢れる音楽もアルバムの折り返し地点だ。
座るようにできていない進入禁止柵の鉄の棒がお尻にダメージを蓄積していた。そろそろ痛くなってきたなあ。血の巡りが悪くなってジンジンと波打つような痛みが感覚を奪ってゆく。
「よっ、と」
スカートを払いつつ、今まで座っていた柵に寄りかかる。
今頃は4限目かな。たしか世界史だったような。教科書もノートもほとんど学校に置きっぱなしなので、授業のスケジュールが把握できていない体たらく。ま、私が当てられそうな日にちでもないし、居なくても問題なしだ。何も滞り無く今日が過ぎてゆく、そんな毎日。私の後ろの席の人が黒板見やすくなって少しは役に立っていたりして。なんてね。
スマホを見ると友達の数人から連絡が来ていた。文面に差異はあれど、私不在の理由が知りたいということだった。安穏を邪魔されたくないので、短い返事をそれぞれにコピー&ペーストで送り返す。文面、人身事故が起きて電車が止まった。絵文字も添えて。
要するに話のネタが欲しいだけなのだ。日々が停滞して閉塞した教室では外からもたらされる情報が何よりのご馳走だったりする。そう、それがチンケな欠席理由だったとしても。
要するに、日常に変化を望んでいる。ただそれだけ。なんとなく眠い授業を受けて、よく晴れた空に浮かぶ飛行機雲を眺めて、友達と互いに気を使いながら詰まらない会話を繰り返したりして。楽しいフリ、充実したフリが上手くなればなるほど、少しずつ心が死んでいく。そんな実態の無い予感で焦燥に駆られたりするのだ。おそらく誰もが、きっと。
「ふー」
断続的に振動が止まないスマホをポケットに無理やり突っ込んだ。これ以上の返信は無意味だ。
ずぶずぶと沈み込んでいきそうな気持ちが自然とアスファルトへと視線を向かわせる。皆が一様に日々の中で停滞しているのなら、独りでいるほうが閉塞感で窒息せずに済むというものだ。教室では酸素が薄い。その分、街中は酸素が多い。私の歩みが学校へと進まない理由のひとつ。電車が動かないのを口実にしたいだけなのだ。
嫌いじゃないけど、好きではない場所。私に意味を与え、意義を奪っていく場所。必要ではあるけど、特別にはなり得ない場所。まあ、そういうところ。私は結構難しいお年頃なのだ。
*****
こんな街には珍しいほどの喧騒はいつの間にか消えていた。
人身事故で電車が止まっていることを除けば、普段通りの日常が戻ってきたという感じがする。
「あれ、もう居ないや」
タクシー乗り場の最後尾にいたはずの人。お婆さんとその孫。もう乗れたのだろうか。それは良かった。ちゃんと確認したわけではないけども。
相変わらずタクシーにはそれなりの行列が出来ているのだが、先ほどよりも回転率が良い気がする。
「あ、そっか」
なんてことはない。
続々とタクシーがこのロータリーに乗り入れてきているだけだ。色んなデザインのタクシーが大都市を思わせるほど、行列を形成していた。そもそも大都市なんて数えるほどしか行ったことないけど、たぶんこんな感じだろう。その証拠に最後尾だった人がもう前の方まで進んでいる。
よくもまあ、こんなにもタクシーが集まるものだ。情報網が発達しているのだろうか。それとも、いわゆる嗅覚というやつなのかもしれない。電車が止まれば、こっちの需要が増える。そんな因果関係。このくらいでは社会における大きな流れは変えられない。ほんの少しすら感情の介在する余地も無く。だけども、そうだと理解しながらも私の脳裏にひとつの言葉が思い浮かんだ。
ハイエナ。
不謹慎にもそんなことを考えてしまう。別に薄汚い職業だと蔑もうとは思っていない。ただ客観的な事実として、人身事故に溢れた人々に群がり貪る様にはこの比喩がぴったり当てはまってしまう。そんな気がしてしまったのだ。
名も顔も知らない誰か一人の死によって、悲しむ者もいれば、また誰かの『生』が明日へと繋がっていく。まるで食物連鎖だ。それはどこまでも捻じくれていて、狂っていて、いびつで、恐ろしいほどにどうしようもなく正常な社会の食物連鎖。かくいう私もある意味では小さな自由を手に入れたので、この連鎖の恩恵を受けているとも解釈できよう。
何故か宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」が聴きたい気分になった。あれは悲しいだけの歌じゃない、ありのままの現実を曝け出し突き放して、大きな愛に気付かせる歌だと思う。
「入ってないかあ……」
あいにくと私の音楽プレーヤーには宇多田は無かった。家にはアルバムあったはずなんだけどな。帰ったら探してみるかあ。諦めて私はため息を静かに吐きながら、空を仰ぐ。そこにはくすんだ白雲がまばらに浮かんでいるだけの、眩しくて穏やかな青空が広がっていた。
何やら大きな声が聞こえる。
声のする方に意識を向けると、駅から駅員さんが小走りでロータリーまで出てきていた。
「──大変長らくお待たせ致しました! 警察による立ち入り調査および復旧作業が完了いたしましたので、これより運転再開いたします。ご乗車して発車までお待ち下さい」
そっか、やっとか。
スマホで時刻を確認する。もう12時半を回っていた。大量に来てるメールは無視。残り僅かなカフェラテをゆったりと味わう。
空虚で贅沢な今この瞬間。この先も今日と同じような時間は訪れるのだろうか。私が高校生という枠に囚われている間に。
大学生になってからでは、大人になってからでは遅いのだ。今、目に映る景色は今の自分にしか感じることができないのだ。この降って湧いた退屈さも、まだ新鮮なうちにもう一度経験しておきたい。誰かが企画したイベントも特別な日になり得るけど、こうした何気ない日常にふっと生まれた特別な日も大事にしていこうと思う。それが誰かの不幸の上に成り立っていたとしても。
とりあえず駅とロータリーとタクシーがひとつの構図に収まるように写真を撮っておこうか。古ぼけた加工なんかしたりして。どうってことない風景、だけど私にしかわからない風景。そういうのがあってもいい。ふとした時にアルバムを見返して、何か思い出したりできればいいな。パシャリ、と。これでいい。
電車はもうすぐで動いてしまうから。せめて特別な日を特別なまま鮮やかに残しておくのだ。
世界から切り取られていた私が少しずつ繋がりを取り戻してゆく。幾度も繰り返されている毎日が、また私を包み込んでしまう。じわじわと、実体の無い焦燥感が足元から忍び寄ってくる。──その前に。
「あーぁ」
アルバムに閉じ込めた今日の風景がもう恋しくなってきた。
タクシーの利用客は加速度的に減っていき、学校の友達も私のことから違う話題へと既に変わっていて、静寂を湛えていた鉄塊も電車として息を吹き返し始めている。ギシリと鈍い音を軋ませながら巨大なカラクリは再び可動していくのだ。そう何事もなかったかのような涼しい顔のままで。
私はというと、いつも通り停滞しながら日々は進んでいくのだろう。もはや相棒となっていた進入禁止の柵ともお別れ。飲み終わって軽くなったカフェラテを駅前に設置してあるゴミ箱へと押し込んだ。通学バッグから定期券を取り出して2時間ほど前に通り抜けた改札を再度ピッとタッチしてくぐり抜ける。
「まあ、特別な日だしね」
言い訳は誰でもない自分のために。
スマホの画面越しに繋がっている学校には、今から向かっても午後の授業から途中参加だろう。それに急いで出発したので、いつもより髪もよれよれ、あまり見せたくない私の姿。それに良い天気でもある。
私は階段を上り、プラットホームへと向かう。
くだり方面に。
腹いっぱいに人を詰め込んで重たくなったのぼり方面の電車は、対岸でのそりと発車していった。頑張ってねー、と言葉だけのエールを送る。流れていく車窓のひとつに満員の中、おっさんとガラスに押しつぶされてぶさいくになった私が映った。そんな気がした。
「──まもなく2番線にくだり方面行き電車が到着いたします。白線の内側まで――」
私は知っている。いつもと変わらないありふれた日常のひとつ。
退屈で窒息しそうな毎日を少しだけ逃避するための呪文を。いや、私だけじゃない、いつの時代も全国の学生はこの呪文をいずれ習得してしまうのだ。
線路の先に電車が見えてきた。人身事故が原因で立ち寄ったこの街ともこれで最後。何も無かったけど、僅かな間だけ世界と切り離されていた特別な時間。
とりとめもない薄まった日々を誰もが特別なものに変えたくて、唱える。遅すぎるくらいだけど、私も呪文を口にすることにしよう。これは宣言することに意味があるのだ。
今日という日よ、特別なものと成れ。なんちって。
「がっこー、サボっちゃおーっと!」
〈了〉
いきつまる日々には空白を 不可逆性FIG @FigmentR
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