第3章 必要十分条件
第26話 年越し珈琲
「本当に行っちゃうのね」
「これも仕事ですから」
いつもの喫茶店。いつも通り頼んだ、アイスミルクコーヒー。しかし、いつもと違って加奈さんの表情があまり良くなかった。
説得とまではいかないが、それを解消するために話しているはずなのに、どんどん顔が険しくなっていっているのは気のせいだろうか。正直なところ、それが気になって話どころではなくなってきている。
「最後の
旧特飲街。
これから俺が向かおうとしている旧特別区域。国から黙認され続けた場所が、消えようとしている。それならば、消える前にこの目で見て、書き残さなければいけない。そんな使命感に駆られて、俺は明日向かうことにした。
奈々さんに見送られたあの日。あれから、五年近くの月日が経った。
いろいろなことがあった。俺は会社を辞めて、独立した。今ではフリーライターのような仕事を主な生業としている。加奈さんは仕事面での評価が上がり続けたが、今は別の会社へ転職して秘書をしているらしい。
会社を辞めたあと、奈々さんとの接点は完全になくなってしまい、連絡もとっていない。もっとも、とる気がないといったほうが適切な気もするけれど。
紫織さんは、どこへ行ったのかすらも分からない。音信不通状態だ。
俺自身どこかに所属しているわけではないので、届いた仕事はすべてを受け入れるスタンスだった。グルメ、都市伝説、旅行などなど。書いてくださいといわれたものは、すべて書いてきた。それが変わったのは二年ほど前。
俺は以前より、旧特飲街に関することを調べるのが趣味だった。今でも特別区域として指定されているところが数カ所があるが、それは表面上の話。実際のところは、残り一ヶ所となっていた。
その消えていった歴史を書いたところ、予想以上のあたりとなり、第二弾をつくることとなったのだ。驚きというよりも、意外とみんな興味があるんだなと思った。
そして、その取材のために俺は残り一つとなった旧特飲街まで行くことにしたのだ。
「その…なんだっけ。法律が変わるんだよね?」
「うん。それで消えてしまうんですよ」
「でも、きっかけが紫織ってのはなんか気に食わないよね」
「……否定はできないです」
「ちょっとは誤魔化しなさいよ。むかつくから」
「嘘はつけないから。紫織さんが働いていた、鮎川のスナックがなければ、多分今のわたしはいないですから」
「はいはい。何回も聞きましたよー」
昭和の終わりとともに消えていったはずの場所。なぜか惹かれてしまう最後の街に、俺は……。
『まもなく
『そんな、急に言われても困りますけど! ……えっと、みなさん大晦日の夜ももうすぐ終わります。今年はどんな一年でしたか? 来年も良い年になりますように……』
喫茶店で流れているのは、ラジオだ。年末年始に限っては、マスターの意向により音楽ではなくラジオ放送が店内を流れている。そもそも、年越しで開いている喫茶店が珍しいという話なのだけれど。
「あれ、来年って正化二十年だっけ」
「そうですね。西暦だと、二〇〇八年かあ」
「早いねえ。ついこのあいだまで世紀末だって叫んでたのに」
「それはいくらなんでも引きずり過ぎじゃないですか?」
『みなさま。新年あけましておめでとうございます。本年も……』
ラジオから流れる合図で、店内にいる人たちが一斉にあいさつを始めた。これを見ると、ああ今年も年を越したなという気分に浸れる。
「あけましておめでとう、飛鳥」
「あけましておめでとうございます、加奈さん」
「今年も飛鳥に振り回される気がするわ」
「…それどっちかと言えば、わたしのほうのセリフじゃないですか?」
明日……というか今日になってしまったが、俺はこの地を離れて取材に出かける。どうなるのかが不安ではあるけれど、売れるネタを集めるために頑張らないといけないな。
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