「第3章 二人の家族の対応の差」(4-3)
「前にも話したけど、“心読み”は本当に他人に知られたくないの。家族以外で知ってるのは、佐伯くんだけ」
「そ、そう」
「うん。だからこれ以上、人を増やすのはいや」
「分かった……」
直哉が美結に同意する。だが、同意して決着が付いてもすぐに空気が一変する事はない。こういうのは、時間が必要だった。ゆっくりと重たくなった空気が溶けて、元の空気になるまで待つ。
そして八割方戻ったところで、直哉は頭を下げた。
「ゴメン。新藤さんの気持ちも考えずに無神経だった」
「ううん。私の方こそ、一生懸命考えてくれてるのにワガママでゴメンなさい」
互いに謝罪を交換しあって、空気は元と似た形になった。似ているだけで完璧に前と同じになった訳ではない。何か、話題を変えよう。そう考えていた直哉より先に美結が「あっ、」と何かを思い出したような声を上げた。
「どうしたの?」
「考えたら“心読み”が出来なくなった前と後で変わってる事があった」
「えっ! 本当!?」
不意に現れた光明に直哉が大声を出す。彼の言葉に美結は「うん」とハッキリと頷いた。
「でも大した事じゃないから。正解かは分からないよ?」
「大丈夫。どんな事?」
正直、変化の大小は大した問題じゃない。それよりも美結本人が思い付いてくれた事が大きいのだ。他ならぬ本人が思い付いた変化。当たりでも外れでも前進している。
美結が次に発する言葉を一言も聞き逃すまいと耳に神経を集中していると、彼女がエアコンに飛ばされてしまいそうな程、小さな声で「小説」と呟く。
「え?」
直哉が聞き返す。すると美結はどこか諦めにも似たため息を吐いた。
「小説を書いてない。“心読み”が出来なくなってか前にグリーンドアで書いてなかった?」
確かに待ち合わせの時に広げていたルーズリーフがあった。その事を思い出して美結に指摘する。
「あの時は、広げていただけで書いてないの。書こうとしてペンを持ったんだけどね」
「そうだったんだ」
あの時、直哉の目に映ったルーズリーフに書かれた文字は、過去に書かれていたものだったようだ。でも原因が分かったのなら、解決に向けて動き出せる。
「って事は、また今日から書き始めればいいって事?」
「うん……」
直哉の質問に美結は困ったような笑い顔を浮かべて、口をへの字にした。その感じで書かないのではなく、書けないのだと知る。
「何か書けない理由があるの?」
「書きたい。その気持ちは凄く強いよ? でも、強すぎて空回りしてる」
「空回り?」
「なんて言えばいいのかなぁ。話の大筋は出来ているから、問題なく書けるよ。だけど、何か臆病になっているのかも知れない。小説を完成させてしまう事を」
「完成させてしまう事が臆病になっている?」
直哉の問いにコクンと頷く美結。彼にしたら、彼女が何を悩んでいるのか分からない。話を完成させるのを臆病になってしまうのなら、この世にいる数多くの作家は皆、臆病になっているという事になる。そんな事、あるのだろうか。
しかし、直哉は自分で小説を書いた経験がない。もしかしたら、書く側からしたら、当たり前の事かも知れない。浮かんだ疑問は置いて、分かる範囲で美結を励ます。
「例えば一行だけでも書いてみるとかはどう? 一行なら気楽に出来るしすぐに止められる。それに書いてる内に案外、二行三行と続くかも知れない」
自分で自覚出来るくらい、中途半端な励ましだった。書いた事ない人間の能天気なアドバイス。どこまで届くだろうか。
直哉が緊張しながら相手の反応を窺うと美結は「そうだね」と同意してくれた。
「確かに。佐伯くんの言う通りかも知れない。臆病になってばかりでは、何も前に進まないもんね。少しずつでもやらないと。やれる内には……」
美結のそれは直哉にと言うよりも自分自身に向けて言っているように思えた。
「よし。今日からまた、小説を書くのを再開してみる」
「良かった。何か俺に手伝える事あれば、言ってよ」
「ありがとう。でももう、佐伯くんにはかなりお世話になってるから。私が出来る範囲で頑張ってみる」
「そう? 分かった。頑張って」
“心読み”の問題で初めて前進した気がした。この結果がどうなっていくのかは不明だが、何も成果がなかったそれまでと比べると大きな一歩だ。
直哉がそう考えていると、コンコンっとドアがノックされた。
「はーい」
美結が返事をしながら、ローテーブルに放置されていたシャーペンを手に取る。直哉もすぐに彼女に合わせた。ガチャリとドアが開く。開かれたドアの向こうから、一人の女性が現れた。彼女が言っていた叔母だとすぐに理解した。
年齢は直哉より十歳ぐらい年上で肩までの茶髪にパーマが掛かっている。オフィススーツを着ている事から、これから出掛ける事が分かった。
「美結、ゴメンね。勉強の邪魔して。私、そろそろ事務所に行くから。あ、リビングにお金置いといたから、夕食は何か適当に済ませて」
「うん」
二人の会話が終わると、美結の叔母は直哉の方を向いた。
「君が美結のお友達?」
「あ、はい。佐伯です」
「佐伯くんね、覚えた。叔母の石原杏です。いつも美結がお世話になっております。今日は全然、お構いが出来なくてゴメンなさいね。ゆっくりしていって」
「はい。ありがとうございます」
直哉の言葉に杏が微笑むと、二人に向かって手を振る。
「それじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。頑張ってね」
「行ってらっしゃい」
美結と直哉がそれぞれそう言って、ドアが静かに閉められた。パタンという音がしてドアが閉まると、少ししてから玄関からガチャリという音も聞こえた。少しの間、沈黙してから、二人は顔を見合わせる。
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