2

 翌日になり、少しだけ学校を休もうかなんて考えたけれども、結局登校した。休んだら、二度と登校することが無くなりそうだったからだ。

 別に、二人に迷惑をかけないのなら、二度と登校しないという選択もあったんだけれども、結局は学校に足を運んでいた。

 普段は変に斜に構えているくせに、日常が完全に終わってしまうのが怖いのだ。そのくらい自分でも分かる。

 足の痛みは少し残っていたが、あまり気になるほどでもない。

「おい、モテの貴公子」

「なにそれ……」

「なんか悩んでいるって顔してるから、どうせ女がらみだろうかと思ったら、腹が立ってきたから仕方がないだろ」

「えぇ……、悩んでいる顔をしているだけでそんな扱いを……」

「で、どんな悩みなんだなんでも聞いてやるけど、あの二人の、女がらみだったら、ラーメンの話題をふれ」

「……とんこつラーメンおいしいよね」

「そうだな、俺は醤油派だけどな。モテの貴公子死ね」

「いや、あの二人の悩みではあるけど、想像してるのとは違うよ」

「俺の想像は、お前が思っているより、もっと具体的だからな、それだけは覚悟しとけよ」

「いやだよ、そんな覚悟……」

 僕がため息をついた、夕部が笑った。

「でもさあ、僕もモテる秘訣くらいは知りたいよ、なんかないの?」

「知らないけど……」

 なんだか二人のまなざしが熱い、もしかして本当に、モテる秘訣を聞いてきているのだろうか。

「そ、そういえば、道を聞かれる人はモテるって聞いたことあるよ」

「道聞かれてる時点でモテてるだろうが」

 言われると思った。

「いや、道を聞かれるってことはほら……なんか地図をもってあるくとか……」

「今時携帯のほうが良いだろ。それに、お、あの人、地図持ってる、ちょっと道聞こうかななんてあるわけねーだろ」

「無茶ぶりに答えたらこれだよ……」

「いや少し待って」

 夕部が、重大なヒントを得たかのように僕たちを制止した。コートの裏を地図にするのはどうだろう……

「お前、それってまさか……」

「そう、道に迷っている女性に向かって……コートを……」

「全裸でってことか……」

「つまり、目的地の場所が地図でいうあんな場所こんな場所になる可能性が……」

 いまいち二人の言っていることは分からなかったが、僕はともかく彼らがモテることは永遠にないということだけは分かった。

 放課後になると、すぐに帰った。

 部活には顔を出せなかった。理由は、リクと鈴子さんに顔を合わすのが怖かったのだ。

 おそらく変な奴だと思われただろう。

 向こうも会いたくないに違いない。

 異端者と思われるのが怖い。

 臆病者と蔑まれるのが怖い。

 近寄るなと罵られるのが怖い。

 何もかもが怖かった。

 彼女達が今なにを考えているのだろうか、何を喋っているのだろうか、考えたくもないのに、彼女達のことが、セキュリティソフトの広告のように、嫌でも出てきてしまうのだった。

 そんな、月曜日をコピーして張り付けたような日々が五日間続いた。

 金曜日の夜になってやっと心に平穏が顔を出した気がした。土日は学校に行かなくていいという、卑屈な開放感からくるものだ。

 なんとか落ち着きつつある心を、これ以上乱れないよう取り扱うことにした。パソコンを起動すると、レジがオンラインになっていた。

『ちゅんちゅん』

『夜だよ』

『あー先輩! 久しぶりじゃないですか!』

『久しぶりでもないと思うけど。なんか嫌なことでもあったの?』

『なんで嫌なことを優先して聞いてくるんですか?』

 レジは相変わらずだ。

『いや、そういうつもりじゃなかったけど』

『先輩こそ何かあったんじゃないですか? 私と言うものがありながら、一週間も放置してたなんて!』

 今回の件について聞いてもらうべきか聞いてもらわないべきか。だが、愚痴を聞いてもらえるのはやはりレジしか居ないのだ。

『そういえばあったな』

『ほらー、一体どうしたんです?』

『友達が変態ばっかりなんだ』

『先輩も十分変態だから大丈夫です。はい、続いて次のお悩みですー!』

『かわし方うまいなー』

『でしょう? で、本当の悩みってなんなんですか?』

『ごめん』

『謝られても! というか、もしかして先輩、謝る相手間違えてるんじゃないですか?』

『相手を間違う?』少し間を置いて、続けて入力した。『ああ、うん。そうかもしれない』

『素直ですね。よかったら聞きましょうか?』

『ごめん、聞いてほしい』

 一部始終を話し終えると、レジは黙り込んでしまった。

 黙りこんだかというのはチャットが止まったという意味で、本当はディスプレイの前で叫びながら開脚前転をしているのかもしれないが、僕には何も伝わってこなかった。

 チャットというのは入力しなければなにも出力されない、それが最大のメリットであり最大のデメリットでもある。

『その女の子の部屋、どうでした?』

 話しを聞き終えたレジは、想像とは大分異なる反応だった。

『そこなんだ』

『だって! 先輩は女の子の家なんて行ったことないでしょ?』

『うんまあ、そうだけど』

『どうでした? はじめての女の子の部屋なんで、ちょっと変な気持ちになったりしなかったでしょうね?』

『正直に言うと、ちょっと怖かった』

『怖かったって?』

『なんか黒ずくめで怖かった』

『あら、それはなんと言えばいいんでしょうか、黒ずくめ?』

『うん。あと、やっぱりちょっと良い匂いがしたかも』

『変態ー!』レジのアバターが頭から煙をあげる。『やっぱり、お友達のこといえないじゃないですかー!』

『そんな話だっけ?』

『そんな話ですよ! 先輩、女の子の部屋に呼ばれたんでしょ? それって結構特別なことですよ!』

『そうかな? 最近の女の子は部屋に呼んだ男の人数が経験値になるとか聞いたことあるけど』

『どこの情報なんですかそれー!』

『さっきみた雑誌』

『そんな雑誌捨てなさい! なんだか、今更になって話をはぐらかそうとしてません?』

『あ、そういえばそうだね。ごめん』

 そっちも随分的外れだったのに、と思いながらも謝った。

『正直者ー! もういいですよ。怒りましたよ』

『ごめんでちゅ』

『謝る気ないじゃないですかー! 別にちゃんと謝っても私の怒りは収まらないけど、その二人ならきっと許してくれますよ、ちゃんと部活に行って謝ってください!』

『あ、そうかな? でも』

『でも?』

『何て謝れば』

『自分で考えてください!』

 またアバターが怒り出した。

 逃げるようにメッセを閉じ、パソコンの電源を切った。

 謝る、って言われてもな。




 部室に現れるのは九日ぶりになる。

 なんて謝ろう。全部言うべきか、それともなんとか適当にごまかすべきか、そもそも話を聞いて貰えるのだろうか、もしかしたら誰も居ないかもしれない、といろいろ考えてみても、結論なんて出てくるはずもなかった。

 二人が何を考えているかすら、理解できていないのだから。

『その二人ならきっと許してくれますよ』

 レジの言葉を思い出す。

 そう言われるとポジティブな気持ちが少しばかり芽生えるが、レジが彼女らを知って発言していたわけでもない。そう考えると、ポジティブな気持ちは一瞬で枯れてしまう。

 ドアノブをゆっくりと回す。

 彼女達はいた。

 二人は、いつもどおりの配置で本を読んでいた。リクも鈴子さんもこちらを見た。

 リクは何も変わらなかった。

 一週間そこらで変わっていたら怖いのだが、それでも、変わりないリクを見ると安心した。

 鈴子さんは髪を切っていた。元々セミショートだった髪を、さらに短くしていた。

 リクは本を置いて僕を指差してきた。

「遅かったわね」指差した右手をそのまま髪にもっていって、髪をくるくると巻いた。まるで、指を出したのは髪を巻くためと言わんばかりだった。「文化部だからって理由の無い欠席は駄目よ」

 言いたいことは言い終えたとばかりに、本に視線を戻した。

「う、うん……」

 鈴子さんはこっちを、メスシリンダーの正しい測り方のようにまっすぐと見つめていた。とりあえず謝らないと。そう思って彼女に近づくと、読んでいた本が手から滑り落ちた。

「うぅ……」彼女の口からうめき声を漏らしながら僕を見上げてくる。

瞳が濡れているのに気がついて、時間経過とともに軽減されていたはずの罪悪感が戻ってきた。

「そのさ……」

 とっとと謝ればいいのに、なかなか口から一言が出てこない。

 鈴子さんの瞳からはどんどんと涙が溢れてくる。なのに彼女はそれを拭くこともしなかった。

「ごめんなさい……私は……ごめんなさい……」

 鈴子さんは何度も謝った。

 謝らないといけないのは僕なのに、彼女は何度も謝った。

 涙も拭かずに。

 ずっと。

「違うよ鈴子さん。ごめん。僕が悪いんだ」

 鈴子さんは首を大きく振ると、抱きついてきた。制服が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった。

「大胆ね」

 リクは僕らのほうを見て呟いた。安堵したように笑っていた。




 鈴子さんが泣き止むまで、少し時間がかかった。

「ちーん」

 彼女の綿菓子のような声とは異なり、鼻をかむ音声は豪快だった。

 リクが持ってきたティッシュは、見るからに高級で、鼻のかみ甲斐がありそうだった。僕も一組だけもらって鼻をかんだ。鼻全体を包み込むような保湿感が、なんとも心地よかった。

「これいいね、どこで売ってるの?」

「良いでしょ?」

 まるで自分が作ったかのように自慢げにしていたのは、当然ながらリクだった。

「リクのなの?」

「違うわよ、どう考えても鈴子のでしょ。なに言ってんのよ」

 そっちがなにを言ってんだよ。一通り落ち着いたので今日は帰ろうとしたのだが、「一週間の遅れを取り戻すつもりはあるの?」と、よく分からない理不尽をリクに押し付けられてしまった為、本を読むことにした。

 読書の遅れって一体なんだろう。

 本日の読書は、初めは頭に内容が全然入ってこなかったが、文字を追い始めたら、徐々に文字の意味が頭の中に入ってくるようになり、いつもどおり読書できるようになった。

 その読書も一段落したので、目の前にいるいつもと変わらない女に質問して見ることにした。

「あのさ、気になってないの?」

「主語が無いわね、私がなにに対して気になってると思うの?」

「主語が無いのは日本語の美徳だからね」

「前の日曜日のことだよ」

「でしょうね」

 リクは読書していた本から顔を上げた。

 読んでいた本は、前とは別の恋愛小説だった。

「分かってるなら聞いてよ」

「そうね」リクは一瞬だけ瞳だけを下に向けたが、すぐに瞳はこちらを戻した。「当然、気になるわね」

「そうだよね」

 質問が間違えていた、気になっているはずだ。それをリクは敢えて言わなかっただけだった。無粋な質問をしてしまったなと後悔する。

「説明しようか?」

「説明したいの?」

 僕は黙った。

「したくなかったら、別に良いわ。話したい時にどうぞ」

 彼女は見かけどおり、強い人間だなと思った。

 気になると言いつつも、それでも僕に気を遣ってくれている。彼女のほうを見る。僕は言ったはずだ。キスをさせたと。

「いつでも説明するから、聞きたくなったらいつでも言ってよ。鈴子さんも」

 それが僕の言える精一杯だった。

 鈴子さんは「ちーん」と豪快に鼻をかんだあと、こっちを向いて大きく頷いた。

「そうね。じゃあ聞くけど、これなんて読むの?」

「かんじちょう」

 

 

 

 日中は山田の汚らしい発言を聞き、放課後になると文芸部で読書。家ではたまにレジとチャットするという日々が続き、五月中旬になった。

 基本的にレジとチャットをしない日は、インターネットをしたり、やり終えたゲームのレベル上げをしたり、読書したりと、有意義とは程遠い日々を送っていた。

 学生の本分で有名な勉学に関しては、まだ二年になってから手をつけていないのが現状だった。

 リクと鈴子さんを避けることはやめた。

 ただ、他の女性に対しては今まで通り避けて続けた。と言っても、僕に話しかける人なんてまずいないし、廊下でぶつかったりすることも無かったし、ましてやキスなんてされるはずも無い。

 ここ一ヶ月で変わった事と言えば、気温が上がったこと、リクが単語の読み方を聞いてくる回数が減ったことくらいだろうか。

 一ヶ月前と間違え探しをしても、たぶんその二つくらいしか見つけられないのではないだろうか。あと一つだけ強いてあげるとしたら、リクが恋愛小説だけではなくミステリー小説も読むようになったことだろうか。

 そして、どんなワトソン役よりも突拍子もない推理を、言い聞かせてくる。

「つまり、犯人は全員の髪の毛をそってロープにしたのね。だから鏡が壊れていたのよ、みんな自分自身の髪の毛が無いのが分からない為にね」

「じゃあ鏡が無かったから、誰も自分の髪の毛が無いことに気がつかなかったってこと?」

「自分の髪の毛が無くなってるなんて、結構盲点ね、叙述的だわ」

「どこが叙述的なの? 誰も他の人が髪の毛が無くなってることを指摘しなかったの?」

「ほら、ある日突然友達の髪の毛がなくなってたら、ちょっと遠慮しちゃうじゃない。聞いて良いのかしら? ってなるでしょ」

「合ってるといいね」

 彼女は誇らしげに鼻息を出して、読書を進めた。

 その後、その本に関して話題にすることが無かったことから、その奇跡の推理は、案の定間違えていたようだった。

 いつものように部室に向かうと、部室の前に、女子生徒が何やら立ち話をしていた。一人はリクだったが、もう一人は鈴子さんではなかった。一体何者だろうか?

 とにかく、あまり関わりたく無いと思い、引き返そうと方向転換を試みた。また、時間を置いて来るか、それとも諦めて家に帰るか、そんな選択肢を思い浮かべたところで、リクに呼ばれた。

「あ、やっと来たわ!」

 残念ながら気が付かれてしまった。逃げる訳にもいかない。

「こんにちは」

「はいさーい!」

 もう一人は随分と元気そうだった、はいさーいって何だろう。

「あ、はいさいって言うのは沖縄の挨拶ですよ先輩。って言っても私は沖縄行ったことないんですけどね!」彼女は僕の周りをぐるっと回った。

 僕はダンスユニットのボーカルではないので、周りを回られるのに慣れていない。

「先輩が噂の先輩なんですね! なるほど! 近くで見るとさほどイケメンでもないですね!? 前、先輩を見たときは遠景だったからかな、かっこよく見えたんですけど」

 案外失礼なやつだ。

「かっこよくないよ」

「あ、もしかして気を悪くしちゃいました? ごめんあそばせって感じですよね、毎回こうなんですよ。前に見たって言うのは、一ヶ月くらい前に三人で帰ってたときに、二人が教えてくれたんですよ、やけにリズミカルな先輩がいるって」

「僕ってリズミカルなの?」

 リクのほうを見る。

「言ってないわよそんなこと」リクは溜息をつき、右手を振って否定した。

「リクを呆れさせるとは……」

 リクを呆れさせるとは、この人できると思った。何ができるのかは自分でも分からない。

なんとか話を切り上げる方向に持っていこうとした。

「あのさ、今日は……」

 適当な理由をつけて帰ろうとしたが、その必要は無さそうだった。

「ああ! ごめんなさい! あんまりそう言うの好きじゃないんですよね知ってますよー! そろそろ私は若いふたりに任せて、どろんでござる!」

 彼女はくるっと回った。方向転換のオーバーアクションかと思ったが、三百六十度回転したので、ただの無意味な回転だったようだ。

「リク、私行くねー!」

「あら、もしかして、今日も運動部の勧誘?」

「うん、運動部なら何でもいいのに、意外に人集まらないのよねー」

「運動部ならなんでもなんて、アバウトなこと言ってるから、人が集まらないんじゃないの?」

「アハハ、そうかもねー」

 彼女は長く結んだ髪を、ポリポリと掻いた。痒かったのだろうか。

「運動部ならなんでもいいって、どういうこと?」

「変わってるのでしょ? 運動部ならなんでもいいから作りたいらしいのよ」

「体動かさないよりマシだと思ってね!」

「何かやりたいこと決めてから勧誘したら?」僕が提案する。

「むー」彼女は唸った。

「それは無理ね。だって」リクは楽しそうに言った。「中学校の頃、女子ポートボール部だったのよ」

「女子ポートボール部?」

 女子ポートボール部、どこかで聞いた気がする。

 思え返す間もなく、すぐにレジのアバターが脳内をカットインした。確変かお前は。と脳内のレジに突っ込む。

「ほらね、マイナーなのよ」リクが言う。

「分かってるし、そんなことー! じゃあね!」

 彼女が立ち去ろうとするところを引きとめる。

 自分でも珍しいことをしたものだと思ったが、女子ポートボール部と聞いて、気になったのだ。

「あら?」彼女は振り返った。「私?」

 珍しそうにこちらを見る。

「あ、えっと、せっかくだから名前でも聞いておこうかと思って」

「ふーん」彼女は、シンデレラをいじめる悪い姉のような、露骨に蔑むような顔を作った。「もしかして、私狙われちゃったりしてますか? 駄目ですよ先輩! いやーん!」

「何が?」

「あれ? 私の勘違いですか? まあ良いです冗談です。怖い人がにらんでくるんで冗談にしておきますね!」

「にらんで無いわよ」

「私は香苗です! 香る苗って書いて香苗です。両方とも左右対称っぽいところが良いと思いますよ!」

 頭の中で漢字を思い浮かべた。

 聞いたことあるなと思ったが、それはリクが話題にしたことがあったから名前だけ聞いたことがあっただけだった。

「確かに、左右対称、っぽいね」

「っぽいだけで左右対称じゃないところもポイント高いでしょう」

「そうだね」

 適当に返事をした。

「それでは、はいさーい! お二人ともさようなら!」

 それから、自分から名前を聞いておきながら自分は名乗らなかったな、ということに気がついた。

「変わった奴でしょ」

「そうかも」

 僕も文人だから左右対称だよ。と伝えたかったような気もした。

 

 

 

 リクは部室に入ると、窓際まで歩いた。窓を開ける。窓を開けても埃は少しも舞い上がらなかった。ずいぶんと衛生的な部屋になったもんだ。

「今日、鈴子来ないから」リクの髪が揺れた。

「あ、そうなんだ」

「そう、ちょっと急用があるって言ってたわ」

「急用?」

 一人暮らしの高校生とあらば、暇はあれど急用なんてものは滅多に無い。一人暮らしの高校生である僕が言うのだから間違いない。

「ああ、だから香苗さんをつれてきたの?」

「香苗がどうしたの?」リクが髪を押えて振り返る。「ああ、言いたいことは分かったわ」

 リクはしばらくの間、本棚の本を選んでいた。珍しくその間黙っていた

「そう、ね。そうよね、きっとそう」彼女は、首を縦に揺らした。「二人になるのが怖かったのね。だから香苗を連れてきたのよ。自分でも分からなかったわ」

 リクはこちらを向いた。少しだけ自虐的に笑っていて、それがリクのいつもと笑顔と違っていた。似合わないなと思った。

「でも失敗に終わったわね」

「ごめん」

 一ヶ月前のこと、彼女は何も言わなくなったし鈴子さんも何も言わなかった。しかし忘れているはずがない。

 結局は怖いのだ。

 ふたりっきりになるとまたキスをしてしまうかもしれない。フォークで突き刺してしまうかもしれない。自分の意図しない行動をとってしまうかもしれない。

「違うわ」彼女は否定した。僕は何も言ってないのに。「あなたが思っているようなことで、二人になるのが怖かったんじゃないの。もしあなたと二人になると、多分聞いてしまうんじゃないかなって思ってたの。それがきっと怖かったのよ」

 聞いてしまう、というのは、あのことに関して聞くということだろう。

 なぜ、したくもない行動を、僕に対して行使してしまうのか。

「いいよ、言うよ」

「それでいいの?」

「怖いよ」

「怖くないわ」彼女はやっと、表情から自虐的なものが消えた。「でも私はあなたを嫌ったりはしないと思う。思うっていうのも変ね、断定できるわ」

 

 

 

 五月だというのに寒い。

 なのに、僕らはなぜか校舎の屋上に来ていた。

「寒いよ」

「仕方ないでしょ。こういうときは屋上って相場が決まってるんだから」

 リクは一体この一ヶ月の間に、どんな本を読んだか具体的には知らないが、きっと本から身につけた知識なんだろうなと思った。

 どんな本なのか、少しに気になったが、それよりももっと気になることのほうを質問した。

「どうして、屋上の鍵を持ってるの?」

「別に良いじゃない」

 適当な返答が返ってきた。

「さて、なにから話せばいいかな」

「なんか、変な能力があるんじゃなかったっけ?」

「信じてる?」

「大抵ね。そのほうが自分の意思でキスしたよりも説明がつくわ」

 彼女は立っていた。

 屋上にはベンチが設置されていたが、リクは座らなかった。

 彼女と僕との距離は一メートル以上二メートル未満というところだろうか、ただ彼女は先程からこちらに体を向けようとせずに、二人を接点とした接線から九十度の方向へと体を向けて空を見上げていた。

 髪がなびいて、バラードのプロモーションビデオを見ているようだった。

 彼女が綺麗だったせいだろうか、胸が大きく高鳴るのが分かる。

 僕は結論を急いだ。

 彼女の気が変わる前に。

 屋上は本来、進入禁止の場所だ。

 その為、あまり綺麗とは言えない空間で、ゴミも多く落ちている。なんで進入禁止の場所にゴミが落ちるのか、そのメカニズムは想像もつかない。

「これ、あげる」

 僕は足元に落ちていたものを拾うと、リクに渡した。

「これって、石じゃないの。何のつもり?」

「いらなかった?」

「いらないわよこんなの」

 僕は唾を飲んだ。

 不思議そうな表情をしている。彼女の性格からして、普段ならこんな理不尽なことを言うと嫌な顔をするのに、今だけはそんな顔をしなかった。そんな優しいリクのことを僕は……

「じゃあ、返してよ」

 手を差し出す。

「何よそれ」

 リクは僕に石を渡そうとするはず。

 予想通り、彼女は僕に石を渡そうとした。

 彼女はまだその動作を取っていない、だけど僕にはそれが分かった。

 そして、彼女が僕にどういう行動を取るのかも分かった。

 石が彼女の手元を離れる。

 予想よりもスピードが早かった。

 覚悟していたとは言え、少し痛かった。

 幸い目にも鼻にも当たらなかったが、もう少し小さな石にしておけば良かったかもしれない。

 額から血が流れる。

 リクは石を投げつけたのだ。僕の額に向かって。

「何これ……」

 リクは驚いている。というよりは気持ち悪いものを見てしまったかのように、怯えている。

 当たり前だ。

 自分が想像していた行動がいきなり別の行動になったのだから。リクはこれで二回目のはずだ。

 しかし、リクには想定外だったはずだ。こうしたほうがリクには伝わりやすいと思ったし、説明の手間が省ける。信じてもらえる。そう思ったのだ。

「なにこれ……」

 リクは僕を見て、その後、彼女は自身の手を見た。自分が投げたことを理解しているのだろう。

 キスの時もこんな感じだったはずだ。

 彼女は僕をまた見た。泣いていた。

「ああ……」リクが声を漏らす。

 もしかしたら何か言おうとしたのかもしれなかったが、僕には届かなかった。

 彼女は振り返ると、走り去ってしまった。

 開きっぱなしの扉をしばらく眺めていた。

 いろいろな考えが交差する。彼女は怖くないと言ってくれた、けど本当は僕のことをどこかで気持ち悪がっていたのだろう。

 彼女は優しい。

 だから本人ですら気がついていなかったのだろう。

「駄目だったか」

 扉を眺めるにも飽きて、僕は屋上から室内に入った。

「あ、鍵が無いや」

 呟いて見たものの、別に鍵なんてどうでも良かったので、そのまま帰宅した。

 

 

 

 その日の夜、レジとチャットをした。

『僕が馬鹿だったんだ』

『そうなんですか?』

『僕のことを他人に理解してもらおうなんて考え、その考え自体が馬鹿げていたんだ』

『そうなんですか?』

『そうに決まってるよ、僕は本当に馬鹿なんだ』

『先輩は、馬鹿なんかじゃないですよ。ただ、ちょっとだけ周りが見えてないだけです』

 レジが呆れているのが手に取るように分かった。

 だけど、僕は止められなかった。

 僕は最低だ、そう気がついていながらもレジとは関係の無い愚痴を、延々と打ち込み続けた。

『なんで僕だけがこんな目に遭うんだろう』

『知りません』

『あいつだってそうだ』

『あいつ?』

『あいつは言ったんだ、嫌いになったりしないって』

『言ったんですか。先輩の能力のこと』

『うん。その言葉を信じたんだ、リクは僕のことを裏切ったりしない、そう信じてたんだ、なのに……』

『なのに?』

『嘘だったんだよ』

『嘘?』

『彼女は僕から逃げたんだ! なら最初から、優しい言葉なんていらなかったのに!』

『先輩』

『期待なんてさせるから!』

 レジの返事はついに無くなった。

『最初から一人で生きていけたのに。なのに、彼女がいたから僕は。甘えてしまったんだよ』

 レジはまた返事をしなかった。

『ごめん』

 わざかな時間だったが、それでも冷静さを少しだけ取り戻した。少なくとも、レジに悪かったなと思える程度には。

『ねえ、先輩?』

『ごめん』

『なんで、謝るんですか?』

『いや、愚痴ばっかり言っちゃったから』

『あら、先輩。少しは冷静になったみたいですね』

『多分』

 自分の頭を抑えた。

 すこしだけ自分が戻ってきたような気がした。気のせいかもしれないが、少なくとも今のようにチャットで喚き散らすようなことは無さそうだと自己分析する。

『楽しかったんでしょ? せっかくだし、取り返せば良いじゃないですか?』

『取り戻す?』

 変な表現だなと思った。

『そうですよ、じゃないと勿体無いですよ』

『でも』

『先輩、ここ最近、ずっとチャットで楽しそうに話してたじゃないですか、今更何言ってるんですか、レッツ楽しかった日々取り戻し!』

『駄目だと思うけど……』

『あーもー! 駄目ってやってみなきゃ分からないでしょー!』

 レジのアバターが怒り出す。

『でも、どうやって?』

『本人に聞いてくださいよ』

『怒ってるかもしれないし』

『じゃあ、謝ればいいでしょうー!』

『許してもらえないと思う』

『もー!』彼女のアバターがまた怒る。なおかつ、アバターが細かく震えている。怒るボタンを連打しているのだろう。『そんなこと、謝ってみれば分かるでしょー!』

 画面ごしにも、怒りというか熱気のようなものが伝わってきた。

『分かったよ、聞いてみる』

『それでこそ先輩です!』

 僕ってそんなキャラだったかな、と自分で思い返してみたが、とくに思い当たる節は無かった。

『どのへんが?』

『こんな時ですら、向上心が無いあたりでしょうか』

 褒められるかとおもったら、逆に罵倒されてしまった。

『ああ、そこなのね』

『どういたしましてー!』

『え、ありがとう。あれ? 順番、逆じゃない?』

 今日も結局いつもと変わらず、すっかりレジのペースになっていた。思い返してみれば、いつだってそうなのだ。レジのペースに誘導されている。

 彼女がいなかったら僕は、今以上に駄目になっていただろう。

『先輩、泣きやみましたかー!』

『泣きやむ?』目元を抑えてみると、涙が手についた。驚いたことに、いつの間にか涙を流していたらしい。『そうだね、泣いてたみたいだね恥ずかしい』

『泣きやんだんですねー!』

『そうだね、ありがとう』

『どうしたしまして、あ、今度は順番正しかったみたいですね』

 レジのアバターが楽しそうに笑った。

『じゃあ、そろそろ落ちるね』

『ブブー! 駄目でーす!』

『どうかしたの?』

『決まってるじゃないですか』

 彼女のアバターが今日はじめて笑った。

『まだ私が泣き止んでないからですよ』

 

 

 

 翌日の放課後になると、部室に向かった。

 リクはいなかった。鈴子さんがひとりで、いつもの席に座って本を読んでいたようだが、こっちの存在に気がつくと、こちらを向いた。目が合う。

 いつもと違って見えた。その理由は多分髪を切ったせいだろう。髪を切って以降、彼女の表情がよく見えるようになった。

 どちらも彼女には似合っていたが、こっちのほうが明るく見えるなと思った。

「こ、こんにちは」

「こんにちは、その、今日は休み?」

「あら」彼女はクスっと笑った。彼女らしくない余裕ある笑みだった。「私はここに居ますよ。見えませんか?」

 彼女の冗談は珍しいなと思った。リクからまだ何も聞かされていないのかもしれない。

「勘違いしないでよ」

 鈴子さんにしては口調はきつかったが、小学生の朗読のような棒読みなのも気になった。

「って、リクが言ってました」

「リクが?」

「そうです、リクが言ってたんですよ。勘違いしないでね。今日部活を休んだのはただの偶然だから、変に勘ぐったりしないように。明日ちゃんと続き聞かせて。だそうですよ」

「そうなんだ」

「安心しました?」

「うん」

 今日の鈴子さんは、いつもより機嫌が良さそうだ。

「私も、いつか聞かせてくださいね」

「何を?」

「昨日、リクが瀬村さんに聞いたことですよ」

「ああ」鈴子さんはリクから昨日の話を聞いたのだろうか。それとも流れから気がついただけだろうか。

「でも、リクは多分、聞いて後悔したと思う。実演だったんだけど、だから」

 鈴子さんは僕の発言を、途中で遮った。

「それは違いますよ。リクは勘違いしないでって言ってました。それに、私にはリクが逃げた理由が分かります」

「リクは後悔してない?」

「はい、そうです」鈴子さんは断言した。

「逃げたのに?」

「はい」

「そうか、鈴子さんがそう言うなら、そうかもしれないね」

 鈴子は頷いた。

 その後、一時間あまり読書をした。

 それが本日の集中力の限界だったのか、あるいはその本が面白くなかったのか分からないが、一時間が限界だった。

 本を閉じて思い返してみると、本の内容があまり思い出せなかった。こんな時はいくら読書しても時間の無駄だ。

「そろそろ、帰るね」

 本を閉じると、鈴子さんも閉じた。

「あの、私も帰ります」

 校舎を出ると彼女のアパートの方向に歩き出した。

 別に遠回りになるわけでもないのに、一緒に帰宅することは無かった。

 この道よりも、もっと人の少ない道のほうを通ることが多かったからだ。リクの家は真逆に位置するので、リクは一緒には帰れない。

 ふたりっきりで帰るのが気まずかったのも、一緒に帰らなかった理由の一つにあげられる。

「こうやって二人で帰るのって初めてですね」

「うん、そうだね」

 並んで歩いていた彼女は、小さかった。

 女性を真横にして歩くという機会がほとんど無かった。その為、彼女の小ささがいつも以上に際立った。

「あ」

 横を向いても、彼女はすこしばかり目線を下げないと彼女を見ることができない。

 文芸部は三人がそれぞれ、リク、僕、鈴子さんの順番で高い。それぞれが、十センチ以上離れているのだから、なんとも統一感が無い。

「なんですか」

「いやその、小さいなって思って」

「ひどいですね。ちょっと気にしてるんです」

 彼女は小走りで僕の目の前に出て、胸元をみた。

「大きい人が好きですか?」

「そこじゃないよ、身長のことだよ」

「じゃあどっちでも適応できるお得な質問しますね」彼女が僕を見て笑った。「先輩はリクのことが好きですか?」

 彼女の質問の意味を理解するのには時間はそこまでは掛からなかったと思う。質問に対する返答はそうはいかなかった。

 僕は立ち止まった。

 目の前には彼女がいる、まだ返事を待っていた。笑顔だけれども、誤魔化させはしない、という意思が伝わってくる。

 僕が答えなかったら、彼女はいつまでもそこから動かないだろう。

 とても好きな友人だ、という返答を思いついた。

 しかし、彼女がそんな言葉を望んでいないのは分かっていたし、そんな言葉の逃げ道をつくような解答を口に出すのも馬鹿らしかった。しかし。

「嫌いじゃない」

 残念ながら僕の口から出てきた言葉は、想像していた言葉よりも輪をかけて馬鹿らしかった。

「瀬村さん……」

 彼女は呆れただろう。しかし僕にとってはそれが精一杯の返答だった。

「じゃあ瀬村さんの代わりに、私が、私の質問に答えましょうか?」

 僕が優柔不断なのも悪いが、彼女もずいぶんと意地悪なもんだ。

「いや、いい、分かってる。ごめん」

「そうですか」

 彼女は納得してない様子だったが、静かに百八十度方向転換するとそのまま進みだした。

「これも、ちゃんとリクには言ってあげてくださいね」

 

 

 

 朝下駄箱を見ると紙が入っていた。

 紙は付箋で、その付箋に見覚えがあった。以前、リクが部活を休むときに使ったものだった。

 ”放課後、屋上に来なさい”

 命令文。一応僕のほうが先輩なのに。なんてことを一瞬だけ思ったが、今更だった。

 放課後のことを考えると複雑な気分になる。

 胃が痛くなるような感覚もあるのに、どこか楽しみでもいる。実に不思議な気持ちだった。この矛盾は何なんだろう?

 彼女らと会ってから、僕は成長したのかもしれない。

 変な能力。それに反比例するような向上心の欠落。

 なにをするにも僕は女性を避けることばかり考えていた。

 こんな僕も、彼女らと居れば変わっていける気がした。いや、少なくと、彼女らの前では変われた。

 放課後、屋上に行くとすでに鍵は開いていた。

「遅かったわね」

 彼女は相変わらず髪をなびかせて、こちら向いて立っていた。細分化された太陽光が、彼女を照らしていた。それが、彼女をいつもより輝かせて、美しく見えた。

「前から言おうと思ってたけど、ホームルームは二年生のほうが長引くもんだよ」

「知ってるわよ、そのくらい」

 リクはそこにいた。

 彼女が本を閉じた。

「昨日暇だったから、おかげで大分読書が進んじゃったわ。おかげで犯人に目星がついたわ」

「犯人、当たったことあったっけ?」

「私は過去を気にしないのよ」そういって、髪をかきあげた。「犯人は、赤と青のセロハンを使ってできた立体に見える眼鏡をつかったのよ」

「凶器がセロハンでできた眼鏡なの……?」

「馬鹿ね」

 彼女はクスっと笑った。

 馬鹿はどっちだよ、とは言わなかった。

「これを使って、平面なものを立体に見せることで、相手に操作を惑わせたのよ。それで工場長は、リフトに当たって……」

「赤と青のセロハンを使っても、平面が全部立体に見えるわけじゃないよ」

「だから、赤と青のしましまの服を着ていた人が犯人なわけよ」

 リクの読んでいた人物にそんな奴いたっけ、考えてみても思い出せない。おそらく居ないだろう。

「ガバガバな推理じゃん……」

「でも、前読んだ本なんて、首を刀で二人同時に切ったら、一つの首が、偶然、別の胴体の神経につながって逃げていったっていうすごいトリックだったわよ」

「まあ……そういうのもあるよね……」

 実はあの小説、僕は好きだということは言わなかった。

「この前、登場人物について話をしたの覚えてるかしら?」彼女は僕との距離を詰めた。もう一メートルも離れていない。

「好きな人死んだ登場人物の話だっけ?」

「そう、あの時の話、やっぱり無しにして」

「言われなければ思い出さなかったから、無しなんていちいち言わなくても……」

「そう、あなたらしいわね」彼女は囁いた。「やっぱりきっと、好きな人が居なくなるのは、離ればなれになるのは寂しいわ。多分だけどね」

 その声は、風にかき消されそうに小さかったにも関わらず、耳に届いた。それが、彼女が近くにいるという実感を得た。

「自分のことを置換って呼んでる」

「ええ!」彼女はさっきまでの囁き声とは異なり、突発的な音声を発した。「痴漢ってそんな、いきなりそんなカミングアウトされても、私困るわ」彼女の頬が赤くなる。「こんな場所に呼び出して……」

「ち、違うって! 置換だよ、水上置換とかの、それにここに呼び出したのはリクのほうだし」

「そう言えばそうだったわね。水上置換?」彼女は少し考えた。「あの水に溶けにくい気体を置換する時の?」

「そうそうそう、その水上置換だよ。水に溶けさえしなければ、大抵の気体が水より重たいから、便利だよね」

「さあ、あんまり私、空気の重たさについて考えたことがないけど」

「ああ、だから……」

 空気読めないのか……とは言わなかった。僕も空気を読むことに関しては自信がない。しかし、そんな彼女だからこそ、一瞬でいつもどおりのリクに戻り。こっちまで楽しくなってしまう。ここで言ういつも通りとは、アホみたいな、の意味だ。

「雰囲気ぶちこわしだね」

「元々ないわよ、そんな雰囲気」彼女がくるりと髪を巻いて放した。「置換は分かったわ。想像してたのと漢字が違ったみたい」

「よかったね」

「わーい」

 彼女らしくなく、体を揺らして喜びを表現した。

「僕はね、生まれつきというか、物心がついた時から、その置換って能力に悩まされてたんだ。たまにね、僕に対して変な行動を取ることあったよね」

「あったわよ」

 彼女はまた頬を赤く染めた。

 キスのことを思い出したのだろう。こっちまで恥ずかしくなってしまう。

「それが女性だけなんだ。女性が僕を対象として行動は、別の行動になることがあるんだ」

「どういうこと?」

「つまり、僕にビンタしようとすると、キスすることになる。女性なら誰でも」

「それは、その、すごいわね。確かに、私はあなたにビンタをしようとしたわね。でもそれって随分と局地的じゃないかしら?」

「ビンタだけじゃないよ、例えば僕に石を渡そうとすると石をぶつけてしまうし、フォークで何かを食べさせようとすると、フォークで足を刺してしまう」

「ああ、そうなの、そういうことなのね」彼女は納得したらしい。「だから置換なのね」

「そう、行動が置き換わるから、置換って名付けてみたんだよ」

「あんたもネーミングセンスが無いわね」

「えぇ……」

 少しショックだった。

「でも本当に局地的なのね。限定されているっていうのかしら」

「うん。だから、なんとか生きていけてるんだと思う」

「それって、その置換っていうの? それが、例えばそのキスしたときってあなたは分かるの? そうね、あくまでもしもの話よ、あの時、私があなたに急にキスがしたくなったのかもしれないわよ?」

「それはちゃんと分かる。ちゃんと、ビンタがキスに変換されたってその直前に理解できるんだ」

「ふーん」彼女は頭を整理したかったのか、少しだけ目を瞑った。「壮大なのか小規模なのか、いまいち分からない能力ね」

「うん」

「いつ頃からそんなことになったの?」

「小学校の頃かな、始めて置換したのは、小学校の帰り道だったと思う」

 当時の情景を思い返す。全て鮮明に思い浮かべることができた。あの日だけは多分一生忘れることは無いだろう。

「友達と一緒に帰ってた。寄り道して、この石見てって言ったんだ、それで友達のほうを見ると、石が顔に直撃して、彼女は怯えるように逃げて、でもなぜか、何が起こったのか不思議と理解できて」

「その友人とはどうなったの?」

「分からない。でも口も利いてもらえなくなったし、でもその友達は前より暗くなった。今は明るくやってるかもしれないけど」

「そうなの」

 リクは悲しそうな表情を一瞬だけ見せたが、すぐに笑顔を作った。

「うん」

「キスは、私で、初めてだったの?」

「それも小学校のとき」

「あらまあ」彼女は口を押さえて驚いた。「おませさんね」

「二年生の頃、おばあちゃんの先生にビンタされそうになって」

 思い出しただけで先生の口臭がよみがえる。それを誤魔化すように口を動かした。

「なにそれ!」

 リク笑い出した。よっぽど面白かったらしく笑いながら涙を拭いている。

「いや、笑うけど、入れ歯は外れるわ、おばあちゃん先生は泣き出すわ、大変だったんだからね」

「ほろ苦い青春ね」

「苦すぎるよ」

「他にも何か、置換したことってないの?」

「フォークは、あの時が初めてだったかな」

「あら、そうなの、自分でも全部分かってるってわけでも無いのね」

 リクが、悲しそうに呟いた。

「うん、他にもいろいろある。でもあんまり言いたくないかも」

「いいのよ、言いたくないことは言わなくていいって。前から言ってるでしょ」

「うん」僕は彼女を瞳に写した。「僕は、ずっと女性を避けてきたんだ。この能力のせいでと思った。だから劣等感もずっと抱いていた。だけど女性だけを避けるなんていう器用なことはできなくて、コミュニケーション自体が徐々に下手になって……」

「だから女性恐怖症って言ったのね」

「覚えてたんだ」

「そのくらいは覚えてるわよ、馬鹿にしてる?」

 リクが、僕の言った何気ない一言を覚えてくれていた。そのことがうれしかった。

「そんなつもりは無いけど」

「ねえ、その置換ってのは、やっぱり不幸?」

「うん」

「でもさ」彼女は微笑んだ。「私とキスできたよね?」

「それは」

 彼女の唇の感触を思い出した。忘れていない。あの時の香りさえ覚えている。何度も思い出している。

 そして、同じ感触が僕の唇に触れた。

「ん」

 目の前には彼女の顔があって、目を閉じていた。頬には初めて会ったときのように、顔を固定している手があった。

 僕も目を閉じる。

 前と香りは変わっていた。記憶が上書きされた気がした。なんど想像したところで、今触れている唇のほうが魅力的で、新しい香りの記憶のほうを優先させたのだ。

 一分くらい経ったかもしれないし一秒も経っていないかもしれない。

 彼女はそっと唇を離した。

 手は離していない。

「本当ね。変なの」

 彼女は僕にビンタをしようとしたのだ。試す為に。

「今でも、その置換って言うのは全部不幸だと思ってる?」

 さきほどの置換のせいで、それは肯定できなくなってしまっていた。

「全部ではないかもね」

「ふふーん」

 彼女は自慢げな顔をした。

「さーて、あなたの話も終わりね。じゃあ私からも良いかしら」

「良いけど、ここじゃないと駄目なの?」

「駄目よ」彼女は少しだけ距離を置いて、髪をかき上げた。それでも彼女は手の届く位置にいた。「じゃないとここに呼んだ意味が無いじゃないの」

「あれ? さっきの僕の会話の為じゃ?」

「さっきのは私の話の前菜みたいなものよ」

 人のトラウマ発表を、まさかの前菜扱いである。

「これだからリクは」

 僕は自虐的に笑った。

「なにかしら?」

「別になんでもないよ」

「そう、なんか気になるけど。まあいいわ、言うわよ?」

「うん」

 心臓が高鳴る。なにを言うつもりなのだろうか。分かっている。でもそれは僕から言わなきゃいけないことだったかもしれない。

「いざ、言うとなると恥ずかしいわね」

 彼女の唇を見つめた。

 何も考えていなかった、ただぼんやりと口が動くのを待っていたのだ。

「私ね、高校に入ってから、楽しいことばかりだったの。最初は嫌だった、自分でもなんであんなやつにキスしたのかも分からないし、でもあなたと過ごして徐々に分かった。あなたは優しいって。でもどこか自虐的で、優しさもどこか卑屈だったの」

「リク」

「瀬村文人」

 彼女は僕の名を呼んだ。彼女が名前で僕のことを呼ぶのは、初めてだったのではないだろうか。

 僕は彼女が好きだ。

 特に好きな部分なんて考えたことは無かったが、あえてハード的な部分を一つ挙げるとしたら、それは唇だろう。

 彼女の唇は魅力的だ。

「わたしね、あなたのことが」

 恋の告白だということが分かった。

 しかし、その告白は置換されてしまった。

 唇が赤く染る。

 彼女は舌を噛み切って、死んだ。

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