2017.12.8 ドロップアウト



 ウェルテル効果という言葉は知っていたけれど、それを実際目の当たりにするとは思っていなくて、つまるところ昨日の夜、雅火さんが手首を切った。幸い命に別状はないらしい。でも、身体の命さえ助かればいいというものでも、人はない。


 直接、現場を見たわけじゃない。


 俺は昨夜、すでに書いた通り、ずーっと病室で日記を書いていた。そして昨日の分を書いている途中、ふと喉の渇きを感じて、部屋を出た。

 すると、先生と親友が廊下でどたばたやっているのに出くわしたのだ。


「慌てるなって。気を失ってるだけだよ、こりゃ」


 まずそんな声が聞こえてきて、先生の方の声は、あまりよく聞こえなかった。小声で、憔悴しきった感じの声だったからだ。俺はとっさに壁に隠れて、様子を伺った。間に割って入る気力はなかったし、迷惑がられるような気がしたのだ。

 先生たちがいなくなったあとで、二人がいた廊下のあたりを見たら、水滴と血がたくさん垂れていた。窓からの月光を反射して、きらきら光っていたそれを、俺は雑巾を探して、静かに拭いた。



 音原先生は手当てを終えたきり、ずっと、彼女のベッドのそばに座って、ぐったりした様子で頭を垂れていた。



 ドアを開けてその疲弊しきった背中を見ると、声をかけることもやはり躊躇われて、それでやむなく、裏玄関でタバコを吸っていた男に声をかけた。

「よくあるんですか? ああいうこと」

「俺が知るかよ。まあ、でも、他に古傷とかはなかったから、今回が初めてじゃねーの」

 さみぃな。この街。

 そんな独り言を溢す男に、俺はまた聞いた。

「あの二人って、どういう関係なんですかね」

「どうもこうも。できてんだろ」

「でも雅火さんは違うって言ってました」

「あー……あいつは昔から、愛だの恋だの言うタイプでもねーからな。それにもう、いい歳だろ。元々見かけだってそんなに良かない。とどのつまり、惚れた相手に気味悪がられるのが怖いんだよ、あのバカはよ」

 吸い終わったタバコを地面に捨てて、男はそれを靴底で磨り潰しながら、「あ」と思い出したように言って、またこちらを向いた。

「そういやあの女、傷口を塞ぎ終わって点滴繋いでる時に、ふっと目を覚ましてさ。まだぼんやりしたままの目で、汗と涙まみれんなった音原のこと見て、なんて言ったと思う?」

「さあ……わからないです」

「へへ。うっすら笑って、『ざまあみろ』だとさ」


 女って怖えよな〜。


 その言葉とは裏腹に、彼は至極楽しげな様子で、ニヤニヤと笑い続けていた。まるで、面白いものを見せてもらった、とでもいうように。その不遜な態度に対して、日頃先生にお世話になっている身としては何かしら物申すべきだったのだろうが、その時は外が寒すぎて、ついぞ腹を立てる気にもなれなかった。


 結局、彼女が目を覚ましたのは、今日の夕方になってからのことだった。


 夕飯にリクエストされたという鍋焼きうどんを買いに、逃げるようにして先生が出かけたので、俺はそろそろと様子見に行ってみることにした。そうしたら、「なんかごめんね」と優しく言われて、内心ほっとした。きつく当たるのは、やっぱり先生にだけらしい。

 体調大丈夫ですか、なんて聞いたりしながら、さすがに怒られるかなと思いつつも、「どうして自傷なんて?」といったようなことをやんわり尋ねると、こんなことを言った。


「いや……私、痛がりでさ。最高に病んでた時でも、体切ったりとかは絶対やれなかったのね。世間じゃ、『リスカするのは誰かの気を引きたいからだ』っていうけど、私が切ったところで別に誰も気にしないし、自分が無様に死ぬだけじゃん? 無駄だってわかってることを、わざわざやることないもんね。でも、昨日の朝こっちに戻ってきて、先生は相変わらず冷たくて、部屋で一人で、窓の外の夕日を見てたらさ。『今日家に帰らなかったら■■くんが寂しがるなぁ』って、ふとそんな風に思ったんだ。そしたらさ、もうなんか、よくわかんないうちに、切ってたんだよね……」


 雅火さんとあの先輩が、そんなに仲が良かったとは知らなくて、罪悪感に胸が締め付けられるような心地がした。考えてみれば、付き合いはそれなりに長いはずだし、同じ屋根の下で暮らしていれば、少なからず絆が生まれて然るべきなのだ。

 そんな俺の顔を見て、彼女は困ったように笑った。

「君が気に病むことないよ。あの人はどのみち、長くなかったから」

「病気か何か……だったんですか?」

「まあ、病気といえば、そうなのかな。でも私たちのようなのは、医学の知識でいつ死ぬ、いつ死なないを測れるようなものではないからね。余命数ヶ月と言われて50年生きることもあれば、何もなくても、次の日には正気で首を吊ったりするものだよ」


 よく二人でアニメを見たと、彼女は言った。もしよかったら詳しく話そうか、と言われたので、ぜひ明日にでも、と答えた。病み上がりで無理をさせるわけにもいかない。


 そのあと、俺はある場所に電話をした。この前図書館で知り合った、金城さんだ。色々あって忘れそうになっていたが、あの呪わしい蓄音機を解体するのに、頼れるのは彼しか思いつかなかった。

 命の危険があることも含め、洗いざらい正直に話して、それでも頼めるかと聞くと、怯えながらも了承してくれた。

「人は誰しもやるべきことを持って生まれてくる。本当はやりたくないんだけど、自分にとってのそれは、たぶんこれなんだ」

 と、金城さんは言っていた。また何かの自己啓発本に感化されているのでなければいいんだけれど、とにかく、やるしかない。ちょうど今日は金曜ということもあって、日にちは明日ということになった。


 

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