2017.11.24 アナフィラキシー
結論から言って今日も先輩は戻らなかった。
と、いうか、「もう会うことはないだろう」と言われた。上の人から。見つかったことには、見つかったらしい。かろうじて無事に。
上の人(ちなみに高柳さんという)によれば、このシェアハウスみたいな施設は他にもいくつかあって、先輩はそのうちの別のどれかに回されたという。同じ街とはいえ、それなりに遠いので、もう君たちと顔を合わせることはないだろうと。
でも、一体どういう振り分け方をされているのだろう。
他のシェアハウスはどんな風で、どんな人たちが住んでいて、どんな仕事をさせられているのだろうか。メンバー以外は全て同じなのか。それとも、生活のグレードが下がったり上がったりするのだろうか。家によって。
「まあそんなことよりも、だ」
悶々と考えていると、高柳さんがファイルをテーブルの上に出して、俺と雅火さんに見せてきた。そんなこと、とはあんまりな言い草だったが、上の人にしてみれば俺らのような者の命なんて所詮その程度、ということなのだろう。
「この写真の奴らに注意しろ。出会ったら接触せずにすぐ逃げるんだ。そして、どこで見かけたか、後で必ず俺に連絡しろ。いいな」
写真の中には、背の高い男と少女が映っていた。
男は楽器ケースのようなものを背負っていて、少女の方は白い杖を持っている。顔立ちはどこにでもいる普通の日本人という感じで、髪も黒色だった。格好が写真のままならわかるかもしれないが、服装や髪型を変えられたら、ちょっと一瞬では気づかないかもしれない。
「この人たち誰ですか?」
なんとなく尋ねると、高柳さんは顔を顰めて俺を見た。
「蜂に2回刺されるとヤバい、って話は聞いたことあるよな」
「え? まあ、はい」
「なんで2回目が危険なのかわかるか?」
「えーっと、確かアナフィラキシーショックになるんでしたっけ」
「そうだ。じゃあアナフィラキシーって具体的にはどんな仕組みか、お前にはわかるのか? どの神経がどんな毒のせいでどうなるのか、細部に至るまで、科学的に理解しているのか?」
「いや、すいません、そこまでは……」
「ならわかるな。お前も俺もみんなも、仕組みなんか知らなくても蜂のことは避けるだろ。それと同じことだと思え。とにかく出会ったら逃げて、俺たちに報告しろ。いいな」
高柳さんはそう言い残して事務所を出て行った。今日は仕事はないのだろうかと思っていると、雅火さんが伸びをしながら「あの人年下の奥さんいるらしいよ」と、謎の雑学を披露してきた。てか、別に狙ってないから。いいよそんなの。知りたくない。
遊びに行くのも億劫で(あまり人が多い場所だと顔もバレそうだし)、とりあえず音原先生に会いに行こうとまず思った。例の黒いカードのこともあるし、話をしないといけない。そう思った。
でも、今日はあいにくの土砂降りだった。
それも余裕で警報が出るくらいの大雨と強風。徒歩と自転車しか交通手段がない二十歳の無力な男に、外出るのは明日にしよう、と思い直させるのには十分な天候だ。
自分の部屋の中にじっとしていると、なんだか勉強でもしたくなった。学校に行ってた時はやる気なんかそこまでなかったのに、いざ何もすることがなくなると、妙に不安で、何か生産的なスキルでも身につけないと怖い感じがした。でも教科書や参考書があるわけでもない。なので仕方なく、新聞を読んだ。事務所に置いてある古新聞のところから、比較的最近のものをとってきて、部屋で眺めた。
そうこうしていると、突然ドアがノックされて、「ねーホットミルク飲まない?」と声をかけられた。もちろん俺は下に降りる。
寒い日だったから、温かいミルクは沁みた。
簡単な料理……いや、ホットミルクなんて料理とも言えないはずのものなのに、舌触りはシルクのように滑らか、香りはほんのりと甘く、お腹が空いていたのを差し引いても身体全体が静かに喜んでいるのがわかった。何か入れた? と聞くと、蜂蜜を少しね、だそうで。引き算の料理とかよく言うけど、センスのある人は、シンプルなものでさえ感動的な味に仕上げてしまうのだから、やっぱりすごい。
「さっきの写真のことだけどさ」
飲みながら、雅火さんが話しかけてきた。
「知ってる顔だった?」
「いえ。俺は知らないです」
「そお。私も知らない」
しばし、沈黙。
「高柳さん、アナフィラキシーがどうのって言ってたけど、ミキくんはどう思う?」
「え、どう思うって、つまり?」
「だって刺されても大丈夫なように研究して、それから自分の意思で蜂に向かっていく子もいるじゃん」
「ええ……命知らずすぎますよ」
「でも私たちが今蜂蜜を食べられるのは、そういう悪い子のおかげでしょ?」
ねえ、蜂蜜取りに行かない?
それは文字通りに甘い誘い文句だった。危ない橋だな、とは思った。でも、そうすることで雅火さんの心が落ち着くなら別にいい。ついでに良い感じになって、滅茶苦茶にやれたらもっといい。本番が無理でもキスくらいはしたいな。軽蔑しないでよ、日記くん。俺にはそれくらいしか希望がないんだもの。
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