2017.11.9 自販機と弾丸蟻







 正確な時間まではわからない。「あれ」に遭遇した時の。





 俺には腕時計をする習慣なんてなかったし、ポケットに入れたスマホの存在も、その時は意識の外だった。でも部屋を出たのは夜中の0時になるかならないかの時間だったから、おそらく日付は変わっていただろう。


 車の免許は持っていないから(この体質ではまず適性検査で弾かれる)、とりあえず街の方へ向かって走った。


 真新しいアスファルトで舗装された坂を、スニーカーで駆け抜けた。靴の中敷きに血が滲みて、ぐちゅぐちゅと気持ち悪かったのを覚えている。足元は暗くてよく見えなかったが、煌々と光る街灯のおかげで迷わずに済んだ。

 とにかく丘を下っても、うちの周りには、しばらく民家はない。

 もちろん車なら、たった数分で隣の住宅地に着けたのだが——強風こそ収まっていたものの、そんなのは何の慰めにもならず、ふらふら死人みたいになりながら、無心で走った。


 ところで。

 基本的に真っ暗な田舎道でも、時として、街灯以外の光源を見ることができる。


 そして多くの場合、それは道端に遺棄される惨めな子供のように置かれた、古い自動販売機の明かりだったり、する。


 言うまでもないことだが、その自販機にはとても馴染みがあった。何せ、自宅の一番近くにある自販機なのだから。牧歌的風景にはあまりにも場違いな資本主義的赤に、ボロボロに日焼けた商品見本。楕円型ボタンの無闇な明滅。

 そんな人工の光の中で、俺は上がっていた息を整えようとした。したのだが、兄や姉たちにジュースを奢ってもらった思い出と、さっき見た凄惨な光景がフラッシュバックしてきて、結局うずくまってしまった。蛾がやたら飛んでいた。乾いた羽があちこちに当たって、こちらの顔にも容赦無くぶつかってくる。可憐な蝶とは大違いの、あの厚かましく無遠慮な、茶色の生き物。死んでしまえばいい。


 衣服が汚れるのも構わず、俺はその場に座り込んだ。


 頭が酸欠でガンガン痛んで、肺も張り裂けんばかりで、たぶん側から見たらおっかないくらいに酷い息切れを起こしていたと思う。寒いから鼻水もダラダラで、耳も指も痛くて、呼吸もやばかった。急に立ち止まったせいでまた吐き気が込み上げ、震えながら側溝に吐いた。小銭を持ってたら水でも買ったのに、と思ったその時だった。大型車のヘッドライトの、それはそれは眩しい明かりが、俺を照らした。


 それは誰もが一度は見たことがあるであろう、宅急便のトラックだった。


 自販機に寄せて止まったかと思えば、運転席から驚いた顔のおじさんが出てきた。

「何やってんの。こんな時間に」

 その人は最初、「女性が倒れている」と思ったらしく、俺を見て少し驚いたように眉を上げてから、少し決まり悪そうに説明した。曰く、おじさんの住んでいた街は治安が悪く、彼氏や父親から逃げた女がよく道に行き倒れていたとかなんとか。

「けい、警察、」

 吐き気と息切れで死にそうになりながら、俺はおじさんに言った。

「警察を呼んでください」

「ちょ、ちょっと落ち着きなって。わかった、呼んでやるから」

 おじさんは、とりあえず俺をなだめ、あたたかいお茶のペットボトルを買ってくれて、そのほかはずっと自分の話をしていた。俺が痴呆の徘徊老人みたいにぶるぶる震えて、事情もろくに説明できずにいたから、せめて少しでも安心感を与えようと、意図的にべらべら喋っていたのだろう。その時の俺にはそう思えた。

「警察、どのくらいで来ます?」

「大丈夫、すぐ来るってさ。君、名前は?」

菊芦きくちです」

「ああ、あの丘の上のね。俺も何度か配達に行ったことがある。みんな気のいい人に見えたけどな。ま、家族のことは、家族にしかわからんもんか」

「いや、違います。DVとか、そういうんじゃなく」

 歯切れの悪い俺の言葉に、彼は老いた神父のように、うんうんと寛容に頷いてみせた。コーヒー缶のプルタブがかしゃりと開き、真っ白な湯気が、彼の顔をまだらに隠した。

「無理しなくていいさ。みーんなそう言う」

 いや本当に違うのだ、ということを説明しようと思った。あるいは、なんでもいいから早くここから離れてくれ、あの怪物たちが追ってくるかもしれないから、と頼もうとしたのかもしれない。今となっては自分でもわからない。何度も同じことを繰り返すようで恐縮だけれど、結局、動機がどうであれ、人の起こす行動は変わらない。過去のことであれば特に。


 とにかく、俺は、顔を上げた。


 生まれたてのひよこを両手で包み込むみたいに、まだ開けていないペットボトルを大切に持ちながら、ふと顔を上げた。目の前には車道があった。トラックのヘッドライトに照らされた場所とそうでない場所、白い光と黒い影が、くっきり分かれているところ。その影の方をじっと見た——なぜなら光が見えたからだ。影の中に。

 不思議に思い、歩いて近寄ってみると、落ちていたのはスマホだった。録画機能が回りっぱなしで、ひび割れた画面には何かの汁がべったり付いている、黒いそれ。


 見覚えのある機種だった。


 何を思ったのか、俺は録画を停止し、動画を再生した。最初に出てきたのは、真っ暗な森。揶揄うような笑いと、見知った「走れ!」という声だった。手ブレの激しい視界に、俺が通ったのと同じ道が映ったものの、自販機を横切ったとたん、前を走っていた俺の父母と叔父夫婦が、消えた。

 カメラが左右に揺れて、再び自販機の方に向く。

 すると画面が、、と低くなって、絶叫が轟いた。スマホが地面に落ちる音がして、やがて録画が止まる。それっきり。スマホを手で持ち上げると、周りが照らされて、白い石みたいなものが落ちているのに気がついた。でもそれは石ではなかった。人間の歯だった。


 何が起こったのかわからないまま突っ立っていたら、啜る音が聞こえた。


 おじさんがコーヒーを飲んでいるんだとばかり、思って、別に気にしなかったんだけど。ずっと、聞こえるんだよ。やけに長い。振り向いたら、もう彼はいなかった。湯気を立てる小さな缶だけが地面に転がっていて、自販機の下から、ガチャっと何かが吐き出された。財布だった。財布と免許証。


 走ろうとしたさ。ああ。もちろん。


 当たり前だろ? 逃げたかった。逃げられるものならね。でも(既にわかりきってることだ)、誰かが心底逃げたいと思う瞬間っていうのは、もう逃げられないことが決まっている時にしか、やってこないものなんだよ。借金取り然り、死然り。


 足が動かない。


 恐怖ですくんでだとか、金縛りだとか、そういうことじゃない。そういうことじゃないんだ。たぶん言ってもわからないだろう。泥濘むようだった。意識が混濁して、もう、という気分になる。結構悪くない気分だったよ。来世を夢見るような気持ちで、両膝を道についた。きっとあと数秒でも遅ければ、俺はこの世にいなかっただろう。あの夜、頭が割れるような銃声が、田園の沼に響き渡らなかったなら。


 ……気がついた時には、車の助手席に乗せられるところだった。


 誰かが俺を担ぎ上げ、助手席のドアを開け、俺の体を狭いシートに押し込めるのがなんとなくわかった。そしてぼんやりと目を瞬かせながら、こんなことを思った。今夜は——星が綺麗だ。

「星が見える」

 見知らぬフロントガラスを見つめて、俺がそんなうわごとを呟くと、ドアの閉まる音とシートベルトを締める音が聞こえて、それからまた、声がした。

「星は見えるさ。いつだって」

 少しだけ横を向くと、エンジンをかける音原先生の顔と、その運転席の窓越しに、明かりの消えた自販機が見えた。

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