短編、掌編小説集
三船純人
ドロワの結末
地面と空の境目……それは反重力の世界。
落ちれば助からない――その実感が本来目に見えない街の、人間が示してきた地上の輪郭を、星空の微かな光が照らして描き出す。
僕は見知らぬ彼女を追いかけていた。その人は「走ろうよ」と言ってくれたが、待つ気はないみたいだ。
なにせ僕の方は高すぎる建物に移って足が竦んでいたんだから。
僕が触れている足場はますます増長していく。赤いレンガの建物は青銅色の三角屋根が付いている。頂上に足をくっ付けるのが精いっぱいだった。
そうこうしているうちに他の足場はどんどん地面から離れていく。炭酸の泡のように不確かなリズム。男はすぐ近くまで迫っていた。
「もう逃げられんぞ」
夜は折り返し、辺り一面は静まり返っている。僕はいったい何処まで行ってしまったんだろう。
増長はもはや形を保つ余地も無いほどで遂には内側から破裂する。くの字に折れた足場は弾け、先から千切れて空に吸い込まれる。
屈んだ膝が震えて上手く立ち上がれないのに。
僕は長い髪を持つ彼女に釘付けだった。遠くの方で夜風に翻る、その場所はまだ地面から離れていないのだ。
あの人に、もう一度会いたい。
捕らえようとする右手が届くその限界で、僕は足場から滑り落ちた。
けれど、ここは反重力の世界。地面を実感できない今の僕は落ちたくても落ちれない。
上昇気流に乗ってますます俯瞰の境界へ浮かび上がる。水袋の中の心臓が跳ねてぶつかる。
僕自身がますます地面から離れていく中、藁をもつかむ気持ちで彼女だけは見逃すまいとした。
――僕たちは少し前まで、一緒に走っていたはずなんだ。街でもない場所、空でも無い場所……。
どうして抜け落ちてしまっているんだろう。誰かの夢の続きみたいに、僕には脈絡も映像も実感もない。
ただ「そうだった」余韻だけが僕の心を締め付けている。
いや、むしろ逆だ。締め付けられていないからこそ僕は今も宙に浮いているんだ。
いつの間にか男はそこにいなかった。途端に夜の街が鮮明に浮かぶ。遠くの方でアメリカンポリスのライトが往々に点滅する。建物の光が続々と灯っていく。
色とか音とか、もしかしたら遺言を残したかもしれないけれど、僕には何も聞こえなかった。僕が地上を実感できていないから。
きっと僕は地面と空の境目を超えたんだ――空の方へと。
そう思った時、彼女の居場所も見えなくなってしまった。
空もまた重力のある世界だという事は当たり前のようだが、それまで知り得ない感覚だった。
だって重力があるなら人は地上に戻れるはずじゃないか。今の僕は引き換えに、すっかり地上を超えた空の視界を得てしまっている。
受け入れたとかそういう話じゃない。きっと皆が「地下」と呼ぶもの、アレと同じ事だ。
買い物ができたり電車が通ったりするなら、地下であってもそれは地上なんだ。地面の下にあっても、街という境界の線の上なんだ。そういう事なんだ。
曇り一つない青空に、赤い風船が映える。
自由だったはずの風船は風に流されたのだろう。取り壊される予定の建物、その鉄骨の端に引っかかっていた。
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