皇海型戦艦3 建造の背景
イギリスで建造された戦艦ドレッドノートは海軍の歴史に残る革新的な戦艦だ。
それまで一二インチ連装砲二基しか積んでいなかったのに副砲を水雷艇駆逐用に七.六サンチ砲二七門を除いて廃止し、その分主砲を連装五基と二倍以上積み込み、蒸気タービンにより一八ノットが標準のところ二一ノットの速力で走れるようになった。
これまでの戦艦に比べて遙かに強力だった。
そのドレッドノートが完成した三ヶ月後に完成したのが皇海だった。
本来の歴史であればドレッドノートは日露戦争後の一九〇六年に完成している。
それが二年以上早まったのは、鯉之助が知識チートでドレッドノートの元になったイタリアの軍艦の論文を見つけ出し、生みの親であるイギリスのフィッシャー提督をたきつけ、海援隊用の戦艦として建造させたからだ。
そのために当時地中海艦隊司令長官だったフィッシャーとイタリアの造船官クニベルティ造船中将を引き合わせて意気投合させ、フィッシャーをその気に――本国へ急遽帰国するほど焚き付けた。
地中海はイギリスの重要なシーレーンであり、動脈だ。地中海艦隊司令長官はイギリス海軍の中では日本の連合艦隊司令長官に匹敵する当時とても重要な職であった。その職をおろそかにしてでも帰国するように促す必要があった。
だが鯉之助は非常に苦労したが成功した。
そのあまりにも革新的で、斬新な設計にフィッシャーはイギリス海軍も直ちに導入すべしとホワイトホール――海軍本部、イギリスの海軍省に訴え既存艦の建造を遅らせてまで高速で建造した。
そのためドレッドノートは皇海より三ヶ月ほど早く建造され世界の新たな戦艦の基準となった。
革命的な戦艦として計画された皇海とそれを見て建造されたドレッドノート。
だが鯉之助が革新的なアイディアを入れすぎたため、さすがのイギリスも尻込みしていくつか従来艦の設計を踏襲していた。
まず、ドレッドノートと皇海で一番異なるのが主砲配置だ。
ドレッドノートは前部の一基を除いて従来艦と同じく同一甲板上にある。
だが皇海は背負い式で前後に二基ずつだ。
背負い式だと、砲身が砲塔の上に重なる分、艦の全長を短く出来るし防御区画も短くなり装甲の重量を軽減できる。
だがデメリットもあり、重い砲塔が高い位置にくることになるため復元性が悪くなる。
ドレッドノートをはじめこの時代の英国戦艦が同一甲板か、一つ低い甲板に砲塔を配置するのは、トップヘビーを嫌ったイギリス当局が低い位置に砲塔を配置したためだ。
またドレッドノートは中央部の両舷に並列に主砲塔が二基並んでいる。
これによりバランスは良くなったが、中心線上に主砲塔が配置されていないため、片舷へ斉射できる主砲塔の数が皇海と同じ四基のみだ。
一方皇海は首尾線上にあるため、ドレッドノートより一基少ないにもかかわらず片舷へドレッドノートと同じ八門を集中できる。
一基分無い、軽くなったにもかかわらず、攻撃力は同じであり効率が良くなっている。
さらに魚雷発射管がドレッドノートには搭載されているが皇海にはない。
接近してとどめを刺すため、主砲で対抗できない相手と戦うための武器として英国海軍では戦艦にも魚雷を装備していた。実際、三笠も魚雷発射管を装備しており、この時代の戦艦の標準装備だ。
だが、鯉之助はそのような残敵処理、強敵の抹殺は戦艦に付いていける大型駆逐艦――綾波型駆逐艦に任せて、戦艦は遠距離砲戦に専念させる方針だったため射程の短い魚雷を使う必要性を認めず搭載させなかった。
そもそも、皇海の想定交戦距離一万メートルで射程距離が最大で七〇〇〇メートルの魚雷を使う機会があるかどうか疑問だった。
英国は酸素魚雷を開発し長射程にして使用するつもりのようだが、現状の魚雷でさえ様々な欠点――発展の余地が現状の魚雷は残されており、様々な改良、四五センチから五三センチに大型化、信頼性の向上などを行えば十分に能力が上がるし酸素魚雷より手軽に作れると考えていた。
その上、現状の交戦距離が一万メートル以下、今後十年でも二万を超すことはそれほど無いのに四万メートルの射程が必要とは思えない。
出来たところで遠距離の魚雷命中率など話にならないレベルだ。
よって酸素魚雷を実戦配備する必要なしと鯉之助は考え開発さえしていなかった。
実際、戦艦で魚雷の使用例ほぼない。
それどころか水中に設けられた発射管は、船体に穴を開けて設置するため、浸水の原因になってしまう。
実際、第一次世界大戦で独逸の巡洋戦艦は艦首の魚雷発射管室から浸水し艦首の浮力を喪失、沈没の原因になった。
だから鯉之助は魚雷発射管室を外した。
また魚雷は可燃物であり誘爆の可能性もある。
まだ起きていないことだが第一次大戦のユトランド沖海戦でドイツ海軍巡洋戦艦リュッツォウは主砲十発魚雷一本の損傷を受けたが艦首魚雷発射管室への二発の命中弾によって浸水を起こし艦首へ傾斜。艦首への負担を減らすため後進して母港へ向かったが、浸水は激しく、スクリューが海面に飛び出してしまうほど傾斜し、帰還の見込みなし、として艦を放棄し雷撃処分された。
そしてこの戦訓により姉妹艦から魚雷発射管室は廃止され、他国も第二次大戦までに多くが廃止した。
以上の点から鯉之助は戦艦への魚雷搭載を廃止していた。
また遠距離砲戦を考えていたため、水平装甲を設けていた。
一万メートル以下の砲撃だと砲弾は水平に飛んでいくため艦の横側の装甲を厚くすれば良いだけだが、一万メートル以上だと真上から降り注ぐ砲弾を防ぐ必要があり、皇海は甲板にも装甲板を取り付けた。
一方ドレッドノートはまだ遠距離砲戦を意識していなかったため、水平装甲は設けていない。
高速で航行できるが駆逐艦などの小型高速艦に飛び込まれる恐れがあるため、副砲を搭載しているが、ドレッドノートは七.六サンチ砲のみ二七門に対して、皇海は今後大型化するであろう駆逐艦を相手にすることを考えて一五.二サンチ砲一二門を搭載した上、これらも統制射撃が出来るように射撃式装置を組み込んでいた。
機関もボイラーは石炭専焼缶ではなく重油専焼缶だ。
固体である石炭は貯蔵するとき隙間が出来るし、運搬にベルトコンベアを必要とするなど扱いにくい。
だが液体である重油はポンプで吸い出したり押し出したり出来るため扱いやすくバルブ一つで火力調整が出来るので給炭の人員を減らすことが出来る。
戦闘時の給炭作業は過酷であり、何百度もある缶の前に立って行う作業は一五分交代でも非常に消耗し、時に熱中症で死者が出てしまう事がある。
人員の損耗を防ぐためにも、重油専焼缶にしたのだ。
また艦首はドレッドノートが垂直に落ちているのに対して皇海はクリッパー型にして凌波性を改善し海象の荒い日本周辺と太平洋での活動を保障している。
他にも様々な相違はあったが、後の発展を見ると設計は皇海の方が優れていた。
だが、よく言って伝統的、悪く言えば硬直化した英国の設計陣は皇海のプランを拒絶した。
海外への輸出艦に様々な最新鋭技術を詰め込むのが英国造船界の基本だったが、鯉之助のプランはあまりにもぶっ飛びすぎて躊躇してしまった。
そこを補ってくれたのが、出張に同行してくれた平賀譲造船大技士だ。
彼に英国の設計士に代わり図面を引かせ、製作させた。
さすがに英国の設計士達も鯉之助の本気を見て、受け入れざるを得ず、彼らは設計に加わった。
こうした紆余曲折もありようやく皇海は完成した。
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https://kakuyomu.jp/works/16816700426733963998/episodes/16816700428748621236
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