第14話
目が覚めたのは午後7時ぐらいのこと。
見知らぬ天井…なんて言ったらありきたりだけど、白い天井に、「あれ、ここどこだ?」なんて、ゆっくりと上体を起こした。
「あ…」
横で美咲が声を漏らす。
目元が腫れていて、髪はボサボサ。それにまだ運動着のままな所を見ると、ずっと居てくれたのだろう。
そんな美咲の瞳がうるりと揺れると、「かける〜、よかったぁ…」なんて、泣き出した。
「本当に…本当によかったぁ…死んだかと思ったぁ…」
「おい泣くなって、てか股間蹴られて死ぬとか、恥ずかしすぎて死にきれないわ!」
本当に恥ずかしい。股間強打で死亡なんて、今年のダーウィン賞を余裕で頂けるぐらいには恥ずかしいぞ。
「てか、俺も悪かったな、嫌がってんのに…」
「ううん、嫌じゃなくて…それよりも翔のちん○ん生きててよかった…」
さりげなく下ネタを言うと、安堵したように大きく息を吸う。
目元をグリグリと擦ると、グイッと体を近づけて、
「痛くない?」
「まぁ、ちょっと痛い」
「…もし使い物にならなくなったら、責任取るから」
…今こいつ、さりげなく凄いこと言ったぞ。
「いや責任って…ちなみにどうやって責任取るんだよ」
「それは…」
そこまで言って、何かに気がついたようにハッと口元を覆う。
みるみると白い頬と、小さな耳が赤くなっていき、
「…翔がいいなら、その…私が…」
口ごもる。見た事のないぐらい顔を赤らめて。
そして次の瞬間。
「翔くん!」
めちゃくちゃ聞き覚えのある声と同時に、扉が勢いよく開く。
走ってきたのだろうか、華奢な肩が呼吸のたびに上下に動いていた。
コトね…。
一瞬、いつも通りに呼びかけて、視線を逸らす。
「…深緑…先生」
言い慣れない呼び方をして、もう一度視線を戻す。
綺麗な緑色の瞳が、憂を帯びて揺れたような気がした。
「…うん、ごめんね驚かしちゃったかな」
「いや、大丈夫」
「…そっか」
にこりとはにかんでドアを閉める。そのぎこちなく作った唇の形は、なんか嫌だった。
「美咲ちゃん、隣座ってもいい?」
「…はい」
ありがと。やんわりと言って、パイプ椅子に腰掛けた。
「ぷっ…ふふっ」
最初のうちは堪えようとしていたのだが、どうやらそれも限界を迎えたらしい。
「…先生笑った」
「ううん、ごめんね美咲ちゃんでも…ごめん、やっぱり無理!」
あははと、声を出して盛大に笑い声をあげる。
そりゃあそうだろう、生徒が緊急搬送されたと聞いて駆けつけてみれば、まさかの股間を蹴られて緊急搬送されました…じゃ。
俺だったら笑いすぎて、そのまま死ぬ自信がある。
…てか、俺のことか。おもしろ、あはは。
「おい殴るぞコト姉」
そう言って、思わずハッとなる。
いつも通りに呼んでしまった。と。
でも…。
「いやだって! 面白すぎでしょそれ!」
無邪気に幼く笑うコト姉。
それは、この前のあの大人っぽい感じではなくて、昔から知っている『コト姉』の表情だった。
そんな俺とコト姉の会話を見て「え?」と不思議そうな顔をする美咲。
「えーっと、先生と翔は知り合いなんですか?」
「ふふふ、ふぅー。うん、そうだね」
「まぁ、なんていうか、コト姉とは一種の幼馴染だな」
幼馴染…そう、ボソリと呟くと、琴音絵の方へちらりと視線を向ける。
「そう…なんですね」
視線を伏せるようにして、美咲は口ごもる。
そして、時計を見ると。
「あ、もうこんな時間。今日は本当にごめんね翔」
「いいよ、気にすんな。またバスケやろうぜ」
「え…。うん、ありがと」
嬉しそうにして頷き、鞄を持つと病室のドアに手を掛ける。
「またね。翔」
「おう、また」
手を小さく振ると、病室を後にした。
騒がしかった病室にシーンとした静寂が訪れて、気まずくなる。
時刻は8時、きっとコト姉にも家に帰ってやることがあるだろう。
「コト姉もさ、そろそろ…」
言葉がそこで止まる。
コト姉は、ずっとドアの方へ顔を向けたままだった。
表情は、よく見えない。
「コト姉?」
「…あ、うん?」
「どうしたの?」
「…なんでもないよ」
そうぎこちなく微笑む。
「そっか」
…。
会話が途切れて、また静かな空気が流れる。
秒針がカチカチと鳴り響き、なんとなく焦りに似たようなソワソワ感が胸に広がる。
いつも通りに話さなくちゃ…なんて思っていても、そのいつも通りがなぜか思い出せない。
そもそも、いつもどんな感じで話してたっけ?
「ねぇ、翔くん」
静かな空間で、コト姉が静寂を切る。その表情はどこか真剣そうな、そしてうまく言えないけど哀愁を感じさせた。
「ん?」
「…この前はごめんね」
短いワンフレーズ。
触れるタブー。
『関わらないで』その時の声と表情がフラッシュバックして、どんな表情をすればいいの分からなくなった。
「…俺も深入りして悪かった」
「でも、それでもきっと、翔くんを傷つけたと思う…だから、ごめんなさい。強く言いすぎちゃった」
言い切って、憂を帯びた笑みを浮かべる。
そんなコト姉の表情に、思わずハッとする。
昔は、喧嘩をしても絶対にコト姉から謝る事なんてしなかったのに。
…。
そっか、コト姉は…。
「…なんか、大人になったな」
「え?」
予想外の返答に素っ頓狂な声を上げる。
そんなコト姉に俺は続けた。
「本当はさ、ちょっとだけ認めたくなかった、コト姉は俺の知ってるコト姉のままでいるのかなって…だから、なんか大人っぽいコト姉を見て、あぁ俺って子供なんだなって、認めんのが…嫌だった」
だからさ。一度下げた視線を上げる。
どこまでも引き込まれそうな緑色の瞳と視線がぶつかった。
「もう、お互い様でした。ってことにしないか?」
そう、息を吐き切る。
一瞬大人っぽい表情が崩れたような気がしたけど、気がついたらいつも通りの表情で「うん、そうだね」ってやんわりと微笑む。
「それで、終わりにしよっか」
はにかむ彼女に、「おう」と短く返した。
「…それでさ」
「ん?」
「この前、料理作ってくれたからさ、もし良かったらまた今度家来てよ。今度は俺が作るから」
え?、と一瞬驚いたような表情を見せると、ふふっと鼻を鳴らす。
「いいの?」
「…なんて言うかお礼もしたいし、仕事とかあとその…彼氏さんとか、大人って色々疲れると思うから、だから、疲れた時はいつでも来てよ。コト姉の好きな物ぐらい作れるからさ」
と次の瞬間。
「って、は!? いきなりなんだよ!」
「このクソガキめぇ〜!」
俺の頭をガシガシと撫で回す。
「そんなに心配されるほど、私弱くないぞ〜!大人舐めんな!」
「わかったから、痛いって!」
なんとなく、美咲もこんな感じだったのだろうか。
確かに、痛いわこれ。
「コト姉いい加減に!」
と次にの瞬間。
「…え?」
コト姉の細い腕が俺の体を抱きしめる。
ココア色の髪の毛から、甘くていい匂いがした。
「ありがと」
「コト姉?」
「やっぱり優しいよ、翔くんは」
そう耳元で囁くと、ぎゅっと腕に力が入る。
高鳴る心臓。俺もコト姉を抱きしめたい。でも、それをしてしまっていいのだろうか。
そう迷っているうちに、コト姉の柔らかい感覚がスッと消える。
「それじゃ、私そろそろ帰るね」
「…うん。気をつけて」
「ふふっ、また明日…って言いたいけど、ゆっくり治してね」
「俺の治癒力舐めんな」
「そっか」
短く笑い合って、コト姉が小さく手を振る。
そして、ドアが閉まった病室には、静かに鳴る秒針と、コト姉の匂いがまだ残っていた。
窓の外に目を向ける。
街灯に照らされた桜が、緑の葉を広げ始めていた。
「あぁ、くそ」
胸の高鳴りがまだ引かない。
やっぱり俺は、コト姉を諦めるなんてできないらしい。
桜の木が小さく揺れて、花びらが舞う。
もうすぐ、春が終る。
第14話 やっぱり、君が好き。
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