第158話 パンダの語る不思議の国

 不思議の国のアリスにどんな印象を持っているのか。

 なかなか難しい質問だ。

 まず今の私が置かれている状況とどちらが不思議の国に相応しいか。その議論からする必要がある。

 少なくともあの物語のアリスは虹色に輝くゲーミングパンダに出会っていない。まだパンダが未発見の時代なので当たり前だ。


 ゲーミングパンダに思考が支配されていると、急に視界が優しくなった。パンダの光が消えて、謎の圧力が弱まったのだ。

 これでようやくまともな会話ができる。相手がゲーミングに光り輝いていると、思考があらぬ方向に脱線してしまう。

 なかなか得ることができない貴重な経験だった。


「不思議の国のアリスは……ヘンテコで不思議な物語でしょうか」


「そんな感想になるだろうね。日本人は他国で認められているモノを悪く言わない美徳を持っている。率直につまらないと言ってしまって構わないんだよ」


「え?」


「不思議の国のアリスは支離滅裂だからね。ストーリーだけを評価すればつまらない。物語は驚愕の連続ではあるがまとまりがない。なにを伝えたいのかわからない」


「……ずいぶんと酷評しますね。嫌いですか?」


「いや好きだよ。愛読書だったさ。けれど日本人からすると、そういう評価になるはずなんだ。不思議の国のアリスは英語圏の児童書だからね。日本語訳で面白いはずがないんだよ」


「日本語だと面白くない?」


「だって子供を楽しませるために書かれた児童書だよ。言葉遊びの造語や耳に残る独特な韻の踏み方。物語なんか本来は二の次さ。子供が口ずさみ、大人が面白おかしく読み聞かせる。口に出して楽しむための遊びがふんだんに盛り込まれている。一番重要なのは読む人を喜ばせる遊び心。日本語訳では肝心の遊び心が失われている。そのせいで日本では支離滅裂な物語や皮肉的な社会風刺などの二の次を評価するしかない」


 着ぐるみパジャマ先生は悲しそうに顔を俯かせた。

 遊び心に富んだ作品だとは聞いている。英語がネイティブではない日本人から評価できない部分だ。


「一応日本でも評価が高い作品ですよ。子供の視点を的確に捉えているとか、表現しようのないはずの夢の世界の描写に成功しているとか」


「大人が勝手に評価しただけで、その解釈が正解かはわからないよね。なにより作者がその部分の評価を望んだとはボクには思えないんだ」


「作者が望んだとは思えない?」


「作者のルイス・キャロルは大層な皮肉屋だった。社会に認められたいという承認欲求はある。けれど同時に社会を俗世と見下していた。厭世的といえるだろう。だから彼の遺した作品の多くがナンセンスだった」


 ナンセンスとは無意味なこと。

 日本のカタカナ英語の『センスがない』とは意味が異なる。巧みで難解な言葉遊びに終始して、なにが言いたいのかわからない。頑張って解読しても意味のない単語の羅列であることがほとんど。まさに言葉遊びを極めた遊び心の作品だ。

 ルイス・キャロルが数学者であることも関係あるだろう。ペンネームからして、アナグラムなどが大好きなのだ。


「不思議な国のアリスには幾多の解釈がある。例えば時計ウサギだ」


「急がなきゃって慌てていて可愛いですよね」


「あれは時間に追われている大人を皮肉ったものだと言われている」


「……一気に可愛くなくなりました」


 時計ウサギが夜遅くまでお酒を吞んでいるマネージャーだった。

 お酒を呑んでそのまま寝落ちして、朝急いでシャワーを浴びてスーツに着替える。

 起こすのは私だ。だいたい前日の顔色とお酒の量を見れば、次の日の朝が慌ただしくなるとわかる。だから早めに起こしている。

 もう少しキチンとしてほしい。普段から感謝しているし、尊敬はしているけど。


「その解釈に従うと時計ウサギを追ってアリスがたどり着いた不思議の国は、子供の視点から見た大人の世界になってしまうんだ」


「不思議の国なのに?」


「純真無垢な子供の視点からすれば、大人の世界は理不尽まみれの不思議な国ということさ。ああでもない。こうでもない。解決策を示さず無為な問答を繰り広げる大人たち。大きくなったり小さくなったり。社会的地位や都会の建造物を見て、自分の大きさがわからなくなる。時計が壊れたかのように毎回同じ話を繰り返すティーパーティー。現実では珍しくないね。子供の視点を通してみれば、大人の社会が意味不明で理不尽な世界にしか見えない。だって意味が分からないんだから」


「そうですね」


 意味が分からない。それは子供だからではないのだろう。

 不思議の国は現実の社会。物語に出てくるようなヘンテコな登場人物が現実にいないわけではない。話が堂々巡りになっていたり、必要かもわからない無意味な慣習が蔓延っていることはとても多い。

 ほとんどの人が意味を理解していないけど、なんとなく従っているルールは往々にして存在する。


「ハートの女王は露骨だよね。『首をはねよ』は強烈だけど、モデルは子供を叱るお母さんだ。子供はよく叱られる。叱られるということは悪さをしているんだけど、子供に善悪はない。なぜ叱られているかわからない。悪いことは悪い。そうやって大人のルールを押し付けても子供にはわからない。子供の視点からするとお説教は理不尽な裁判だね」


「裁判は叱られた子供の視点からのお説教描写だったんですね」


「ただ大人に無理解で無知な子供だけが悪いわけでもない。作中のスポーツ描写にも描かれているムービングゴールポスト。大人は平気で噓をつくし、約束を破る。子供はこの手の理不尽に敏感でずっと覚えている。信じていた大人に裏切られることに怒るんだ。人をちゃんと向き合うためには、絶対にしてはいけないことだからね。子供相手だからとルールを捻じ曲げてはいけない。子供相手だからこそルールを守らなければいけない」


 社会風刺だけではない。

 子供とちゃんと向き合う。目線を合わせて子供に理解できる言葉で話す。大人の理屈を押し付けてはいけない。ちゃんと約束を守る。

 そんな親への教訓も含まれていたらしい。


「主人公であるアリスは表面上は礼儀正しく優しい。けれど好奇心旺盛で自分勝手でよく喋る。他人を信じ込みやすく、また飽きっぽい。はっきりと自分の意見を主張する利発な子だ。大人の考える純真無垢な子供らしい子供と言えるだろうね。物語の最後はアリスが眠りから覚めて、夢の話をお姉ちゃんに語るんだ。そしてお姉ちゃんはこう漏らす。『この子はどんな大人に育つのだろう』とね。なんとも皮肉な物語だと思わないかい?」


「皮肉……確かにそうかもしれません」


 不思議な国は大人の世界。

 支離滅裂なのは子供の夢だからではない。子供には大人がこう見えている。子供は大人を理解できていないし、大人も子供を理解できない。だから理不尽な怒りとすれ違いがよく起こる。

 そして物語は『どんな大人に育つのだろう』と締めくくられる。

 確かに作者は皮肉屋で厭世的かもしれない。

 まるでアリスも理不尽で意味不明な大人になるのだろう。そんな示唆がされているようにさえ思えてくる。

 世の中について悲観的なところは私と少し似ているかもしれない。


「さて『Alice』の演出の話に移ろうか」


「……はい」


 この流れで演出の流れになるのか。

 社会風刺的な内容はあまりやりたくないのだが。


「まずさっきボクが語った不思議の国のアリスの解釈は全部忘れてね」


「えっ?」


「意外そうな顔をしているけど、ボクは最初に言ったよ。一番重要なのは遊び心で、物語はナンセンスだと」


「ナンセンス……つまりさっきの話は無意味?」


「うん。ナンセンスだからね。ボクが語った話も大人がそう解釈しただけ。正解かもわからないよ。それに国や文化どころか、当時とは時代背景が違う。時代が変われば常識も変わる。昔の正しい解釈を得たとしても現代に通じるとは限らない。前提も常識も違うのに当時の物語の解釈を追及して、再現するのはもっとナンセンスだ」


「……ではなぜさっきの話を?」


「アリス君が物語に意味を求めていたから」


 着ぐるみパジャマ先生はパンダのつぶらな瞳でじっと私を見た。

 目をそらすことができない。演出の意味や解釈を求めていたのは私だ。私のためにナンセンスな話を披露してくれたのだ。


「アリス君だけではない。人々は物語に意味を求める。勝手に深い意味を追及してしまう。では果たして、ルイス・キャロルは皮肉的な物語を書こうとしたのか。答えは否だ。不思議の国のアリスは子供にせがまれて書いた物語だ。人一倍子供と向き合おうとした作者がわざわざ皮肉的な物語を子供に渡すかい?」


「いえ。あれだけで子供の視点や考え方を熟知した作者が、子供に皮肉を返すとは思えません」


「そうだね。一番大事なモノは子供を喜ばせるための遊び心。楽しませることが第一だった。物語に作者の厭世観や人間性が反映されたかもしれない。しかしその部分はナンセンスだ。見る人聞く人がただ楽しめればそれでいい」


「……ただ楽しめればそれでいい」


「ボクは昨日改めて一年前のアリス君の収益化配信を見させてもらった。そのうえで聞くけど、君はあのときネット冤罪を晴らしてやる。そう思って配信をしていたかい?」


「いえ。あのときはその前の配信でネット冤罪を口にしたことを後悔していました。だからリスナーさん達の暗い雰囲気を払しょくしようと明るく楽しく……あっ!」


「理解できたようだね。演出家としてボクがアリス君に望むのは楽しくやること。見る人を楽しませること。君の思う通りに振る舞えばいい。見た人が君の背景とストーリーからどんな解釈をするかは自由だ。脚色する必要はない。ありのままでいい。ありのままがいい」


「ありのままがいいんですか?」


「皆はアリス君に会いに来るんだ。君はすでに一年も活動している。一年間の集大成だ。活動の蓄積がある。見る側にも蓄積がある。もう見る側には君に対するストーリーがあるんだよ。そこに価値観を押し付けるような脚色はナンセンスだ。余計なモノはいらない」


「見る側にもストーリーがある」


「ストーリーに忠実に。一つ一つの演技に意味を込める。その意識は大切だね。けれど答えを用意することがナンセンスな場合もある。見る側の解釈を狭めてしまうからね。だから君は君らしくすればいい。純粋に歌と向き合い、映像に驚いて、見る人を笑顔にするんだ」


「わかりました」


「まあ自分らしいが一番難しいけどね」


 着ぐるみパジャマ先生はそう言って立ち上がった。

 やはり立ち上がると巨大なパンダだ。

 でも今では驚きだけではなく、尊敬の目を向けてしまう。

 伊達に着ぐるみパジャマ先生と呼ばれていない。考えてみれば着ぐるみパジャマなのに『先生』なのだ。いつの間にかそう呼ばれていたらしいが、自然と『先生』と呼ばれるだけの理由があった。

 正体はわからないがこの人はなんか先生だ。


「ありがとうございました。着ぐるみパジャマ先生」


「アリス君からなにか質問あるかな? ボクとしたことが質問の時間を忘れていたよ」


「質問?」


 演出に関してはもう聞くことがない。

 ただ純粋に楽しませることだけを考える。

 けれど気になることなら一つだけある。


「着ぐるみパジャマ先生はどうして着ぐるみパジャマを愛用しているんですか?」


「ふむ」


「やっぱり聞いてはいけなかったり?」


「いや。そういえば今まで面と向かってその質問をされたことがなかったからね」


 たぶん誰も聞けなかっただけだろう。

 なんとなく打ち解けた気がしたので質問してみたのだが、やはり質問するべきではなかったかもしれない。

 私のメイド服の始まりはねこ姉に渡されたからだ。しかし、もう意地というかアイデンティティになっている。今更違う服を着るのもどうかと思うし、服に悩まない生活を存外気に入っていたりする。

 今もなぜメイド服を着ているか追求されたら、私は困ってしまうだろう。

 少し不躾過ぎたかもしれない。

 でも着ぐるみパジャマ先生はその重い口を開いてくれた。


「……あれはまだステイツにいた頃の話。エンジニアとして企業務めをしていたときだ。ボクはある問題を抱えていた。ボク特有の問題ではない。世界中で起こっており、多くの人が今も悩んでいる問題だ」


「まさかの世界規模の問題?」


「その問題を人は『オフィスのフロア空調の風が局所的に当たりすぎ問題』と呼ぶ」


「かなり身近だった!?」


「アリス君は経験あるかな?」


「えーと……学校のエアコンでちょっと」


 座る位置で極端に暑かったり、寒かったり、寒かったり、寒かったりするあれだ。

 暑いときは大体皆も暑いが、寒いときはその席だけ極端に寒かったりする。


「冷暖房完備の学校の教室でも起こるね。ボクは身体が大きいから丈夫だと勘違いされやすいけど、空調の風には敏感でね。風邪を引きがちになり、体調不良を頻発。会社でのパフォーマンスが落ちていたんだ」


「大変ですね。よくわかります。非常によくわかります」


 コクコクと。

 共感しかないので。


「だからボクは過ごしやすい服を求めた。そんなときに出会ったのが着ぐるみパジャマだ。着ぐるみパジャマの着心地は最高だったね。サイズが少ないのが残念だけど」


「着ぐるみパジャマ先生は大きいですからね」


 女性や子供向けだからとは言えなかった。

 なんとなく言えない。

 せっかく着ぐるみパジャマ先生の過去が明らかになっているのに水は差せない。


「ベストな服を手に入れたボクは着ぐるみパジャマに冷暖房設備をつけて、意気揚々と出社することにした」


「着ぐるみパジャマで出社したんですか!?」


 それは私のメイド服よりもリスキーでは!?

 いや同程度……あれ? もしかしてメイド服で事務所に来ている私にはツッコミを入れる資格はない?


「うん。した。私のパフォーマンスは上がったよ。オフィスの仲間も笑ってくれたよ。これで空調も怖くはない。この服装こそがボクの生き方だと確信した。けれど悲劇が起こったんだ」


「どんな悲劇が?」


「一か月後、服装を理由に会社をクビになった」


「…………」


 私は無言を貫いた。

 無理解な社会を憎めばいいのか、会社の判断は妥当だと納得すればいいのか。

 かけるべき言葉がどこにも見つからない。


「服装を否定されたボクは日本を目指した。多くの着ぐるみパジャマが存在し、あらゆることに寛容な日本ならば受け入れられるはずだと。その結果が今さ」


「よ……よかったですね」


 日本も受け入れたわけじゃない気がする。

 でも着ぐるみパジャマ先生も私もこの格好で事務所に来ているし、問題にされたことがない。つまり受け入れられている。

 虹色ボイス事務所が特殊と言える。だが日本はうち以外にも、メイド服や着ぐるみパジャマが大丈夫な業界が結構ありそうな気がしないでもない。

 改めて考えると日本は不思議の国では?


「日本はいいところだね。少し視線が気になることはあるけど、ボクが外国人だから仕方がないとして。秋葉原では警察に職務質問もされないし、飲食店で入店拒否もされない」


「秋葉原以外では警察から職務質問されているのですか?」


「される。けれど、いきなり銃口を向けられないだけステイツよりマシだよ」


「銃口!?」


「ステイツでは警察からだけでなく一般人からも発砲されたね。その点、日本は安心安全だよ。ははは」


「銃撃されているし、全然笑い事じゃないですよね!?」


 どこまで本当なのかわからない。全てブラックジョークかもしれない。着ぐるみパジャマ先生の過去は明かされても謎だった。

 けれど先生の着ぐるみパジャマは冷暖房だけでなく、防弾と防刃も標準装備だ。アメリカで発砲されたのは本当かもしれない。

 銃社会恐るべし。


 このあと耐水耐電耐炎などの装備品に関して議論した。マネージャーが呼びに来るまで紛糾した。先生が再びゲーミングパンダになるほど白熱した。今度は私もゲーミングの輝きに臆さず立ち向かえた。

 白熱した理由はヘヴィアーマー化を容認する着ぐるみパジャマ先生と意見が合わなかったからだ。

 尊敬できる先生だが、やはりわかりあえないことはある。

 ちなみに防弾は厚くなるのでメイド服には活かせない。やはり布装備で耐衝撃を克服するのは難しい。耐衝撃はある程度のウエイトと空間が必要なので、メイド服で着ぶくれしてしまう。


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