第112話 閑話_ねこ姉とマネージャー①

 ――プシュッ!


 プルタブに指をひっかけて福音を鳴らす。

 多忙を極めるマネージャー業。

 この音が私にとってオンとオフのスイッチだ。

 今日も今日とて虹色ボイス事務所所属VTuber真宵アリスの家でお酒を呑んでいる。


 真宵アリスの家だが、私からすれば慣れ親しんだねこグローブの家。

 結家詠が真宵アリスになる前から入り浸っている。

 着替えも化粧品も置いてある。

 もう第二の実家。本物の実家より入り浸っている実家。一人暮らしのマンションもあるが最近はこっちで寝泊まりすることの方が多い。ダメ人間まっしぐら。でも仕方がない。

 今日も飯が美味くてお酒が進む。


「えーと今日のメニューは豆乳鍋ね。詠の豆腐料理に外れはないけど最近多いね。またなにかのブーム? 少し前は南国フェアだったよね。魯肉飯。大きな具沢山卵焼き。ゴーヤーチャンプルー。ラフテー。にんじんしりしり。ゆし豆腐。どれも美味しかったな」


「アイアイ。うたちゃんが豆乳鍋を出し始めたら『お酒の量が多くない? 身体を大事にしてね』っていうメッセージだからね」


「……うっ」


 最近入り浸り過ぎたか。

 お疲れの詠は晩酌セットの準備だけしてすでに寝ている。

 出勤前の朝のお見送り。詠の切ない視線がとても痛くなってきた。私と大量のビールの空き缶を交互に見るのだ。幼い容姿のメイド少女に悲しまれるのは心が痛い。

 だからと言って一人暮らしの家に帰る方が不健康な生活をしている自信がある。

 本当にダメ人間だが、私としてはもうメイドさんのいない生活の方がつらい。

 詠さまさまだった。


「そういうけど私だけの責任じゃないよね? ねこだってお酒の量を増えているし」


「ぐっ……だってお仕事増えたし。もうすでに私の仕事状況ってほぼ虹色ボイス専属だよ? うたちゃんだけじゃない。一期生の花薄雪レナちゃんと二期生の黄楓ヴァニラちゃんに関連するお仕事も増えているから」


「うんうん。今うちは大忙し。仕事も増えるし疲労も増えるしお酒も増える。有難いことだよね」


「……うたちゃんからの好感度が減る」


「自分もダメージ受ける自爆攻撃はやめい」


 仕事が忙しいのはいいことだ。そして私は幸運だ。

 どんなに忙しくても気の置けない親友がいる。仕事のことを話せて、こんなバカ話ができるから明日も頑張ろうと思える。一人暮らしの家で疲労に身を任せてだらしなく寝ていたらストレスで心を病むかもしれない。

 アルコールの量が増えるのは問題だが、ここで呑むビールは今日も美味い。


「ここで一つ朗報。真宵アリスの仕事は制限されるから安心しなさい。今よりも忙しくなることはないから」


「えっ!? どうして? うたちゃんは絶賛売り出し中でしょ?」


「……スタートダッシュが上手く行き過ぎたのよ。配信。歌。演技。全ての面で期待値以上の数値。売りだし中だからと全てのオファーに応えていたら詠が潰れるわ。だからもうそろそろ抑制期に突入するの。うちのマーケティング班が受けるべきと判断した仕事だけ。仕事を選べるぐらいにオファー過多の状況なのよ」


「へぇー。そういうときって寝る暇もないぐらい仕事を入れるんだと思ってた」


「露出を多くし過ぎても飽きられるからね。うちは所属VTuberに項目毎に目標値を設けている。その数値以上なら無理はしない方針。ネットなどでの影響力の目安になる知名度。実際にファンがお金を使ってくれるかの需要。業界内での評価に基づいた能力。真宵アリスは全ての項目で目標値どころか、上限評価の理想値を上回っているからね。虹色ボイス事務所として大事に扱いたいわけ。絶対に潰したくないの」


「うたちゃん凄い!」


「凄いのは詠だけじゃないのよ。一期生は安定の目標値超え。目標値を下回り落ち込んでいた二期生が復活して大躍進。他の三期生も理想値に近い数値を打ち出している。今は事務所全体として余裕があるの。一人の人気が突出しているワントップ事務所ではない。だから詠に無理させる必要もないってわけ」


「他の子達も頑張ってるもんね。個人的には私の娘の一人、二期生の黄楓ヴァニラちゃんが復活してくれたことがすごく嬉しい」


「三期生の予想以上の成功はもちろんだけど、二期生の復活はかなり大きいわね。バラエティ路線でまとまりがあるし、一期生や三期生とも活動が被らない。元々うちは個人の色を輝かせることを重視する方針だし。人気や金銭に余裕があるうちに活動の場を横に拡大させたいわけ。そのために採算度外視で虹色ボイス異次元チャンネルみたいなモノも開設したわけだし。……それなのにあれも変な形でヒット……世の中どんな需要があるのかわからないわ」


「……異次元チャンネルは強烈だったね」


 ねこが視線をそらして遠くを見た。

 直視したくないものだ。仲間内の過ちというものは。


 気づけば豆乳鍋が空になっている。

 お酒もお箸もいつの間にか進んでいた。

 開けた覚えのない日本酒の瓶が開封されており、量がすでに三分の一ぐらいしかない。

 ここまで減ったら仕方がない。この瓶は空にしなければ失礼だろう。

 頭の隅っこで詠の悲しげな瞳が訴えかけてくる。

 今日はもうこれぐらいで切り上げた方がいいかもしれない。


 だがその判断は遅かった。


「ねえアイアイ。私は人生で後悔していることが二つある。どうしてあのとき間違えてしまったのか。取り返しのつかない大きな失敗」


「……ねこ酔っているわね。もうそろそろ寝ない?」


「一つ目はうたちゃんが潰れかけていたときのこと」


「安定の無視。こういうときのねこは詠との血筋を感じるわ」


「私はうたちゃんを実家からこの家に引き取った。環境を変えてあげたかった。ここにいていいんだよ。そう伝えたかった。だからおふざけでコスプレを渡したの。本当におふざけのつもりだったのに」


「今はずっとメイド服ね。年相応のお洒落に興味ない。従姉としてはさすがに後悔していたか」


「どうして私はあのときただのメイド服を用意したんだろう! なぜ猫耳メイドさんにしなかった! 猫耳もねこグローブもネコ尻尾もうちにあったのに!」


「そっち!? 後悔する方向がそっちなの!?」


「当然! うたちゃんが猫耳メイドさんだったかもしれないんだよ! 語尾が『にゃ』だったかもしれないんだよ!」


「黙れ酔っ払いシスコン!」


 真面目に聞いて後悔した。

 詠の前ではお姉さんぶって大人しい。でも酔っぱらうと相変わらずだ。

 親友のぶっ飛びぶりに変な笑いが込み上げてくる。


「そして二つ目の後悔はうたちゃんが幼少期の頃」


「……何事もなかったかのように進むのね」


「あの頃のうたちゃんは純真無垢な笑みを振りまいていた。その可愛さと言ったら国宝。いいえ世界遺産。認定されていないことが罪。たぶん私はそのことがきっかけで国を信用しなくなった。国連も信用しなくなった。見る目がない」


「詠の満面の笑みか。確かに想像できないかも。あと口を慎め妹バカ。全国の親バカ連中よりも病気の進行が酷すぎる」


「あの頃の私はうたちゃんの実家に通いまくっていた。大型連休は必ず行った。ずっと妹が欲しかった。現れた妹が可愛すぎたのがいけない。私は両親と縁を切って養女になることも真剣に考えた。でも断念。普通に怒られた。姉妹になるのが無理なら、週末は必ず行こうと計画した。でも場所は東日本と西日本。新幹線を使わなければいけない。お金が足りない。小学生で毎週通うのは無理だった。だから私は手に職をつけよう。子供でもお金を稼げるようになろう。そう決意してイラストを書き始めた。それが今の私の始まりである」


「壮大にバカな理由ね。それで本当にプロになったんだから怖いわ」


「うたちゃんとはよくテレビ電話でも話していた。『お姉ちゃん』と可愛い声で呼ばれるのが嬉しかった。そんなうたちゃんと私のブームは一緒に動画サイトで子猫の動画を見ることだった。うたちゃんが『にゃんにゃん』とずっと言っている映像はずっと見ていられた。思わず『猫飼いたいな』と口から漏れるほどに猫ブームだった」


「詠は可愛かったでしょうね……詠は。お姉ちゃんが不純すぎる。というかねこは子猫の動画を見ずにずっと幼い詠しか見てないよね。飼いたい発言の対象は本当に猫?」


「私の二つ目の後悔はそんな純真無垢なうたちゃんの笑顔を奪ってしまったこと。うたちゃんにトラウマを植え付けた。あまり笑わない子にしてしまったのは私なの」


「えっ!? この流れで!? いや確かにねこの後悔の話だったけど。笑顔を奪ったとか本当の話? シスコン過ぎてドン引きされたとかではなく?」


「あのときの事件の動画を今も残してあるからちょっと待ってて。私の宝物だけどアイアイには特別だよ。うたちゃんに見つかると問答無用でデータ削除されるから色々なデータストレージに隠してあるの」


 そう言ってねこは自室に一度戻った。

 日本酒の瓶はすでに空。

 いつの間にか二人で焼酎の水割りに移行していた。

 ちょっと塩気が欲しい。

 冷蔵庫には詠特製の油味噌がまだ残っていたはずだからもらおう。

 キッチンから油味噌を取ってくるとちょうどねこも戻ってきた。


「じゃあ見るよ。見ても鼻血は出さないように。私は健康に自信があるときしか見ない。今宵は命がけの夜になる! 事件は夏休み。遠距離姉妹だったうたちゃんと私がようやく出会えた再会の日」


「鼻血で命がけ? ……遠距離姉妹って」


「出だしからもう凄いから覚悟して。ではスタート」


『おねえちゃん! にゃんにゃん!』


「えっ……かわいい! 本当に可愛い! なにこの満面の笑みのロリ詠!」


「可愛いよね」


『にゃんにゃんにゃんにゃん』


 ねこが身悶えしている。

 その気持ちもわかる。それぐらい可愛い。

 まだ五歳に満たないぐらいの詠がふわふわ真っ白な猫耳とねこの手グローブをつけてにゃんにゃん言っている。純真無垢な満面の笑みだ。

 しかもにゃんにゃん言いながら踊っている。ダメだ。脳が溶かされる。


「うたちゃん可愛いでしょ! 私が『猫飼いたいな』って言ったからやってくれたんだよ! にゃんにゃんだよ! 歓迎の猫ダンスだよ!」


「うん……これはシスコンになる。破壊力が凄い」


「でもこのあと私は大きな失敗をする。うたちゃんから純真無垢な笑顔を奪ってしまうの。もうそろそろだよ」


『お姉……ちゃん? 顔真っ赤だよ? 大丈夫!? お姉ちゃん! おねえーーーーちゃーーーーーーーん!』


「え? なにが起こったの? 詠が泣き叫んでいるんだけど! 急にサスペンス劇場になったんだけど!?」


「……乗り物での長距離移動。その疲労もあったのか、うたちゃんの可愛さにやられてね。物凄い勢いで鼻血が出たの。それはもう救急車呼ばれるくらい盛大に」


「鼻血で救急車……?」


「その日の私の鮮血がトラウマとなり、うたちゃんはあまり笑わなくなった。なにか行動をする前に考え込むようになった。少しオドオドするようになった。オドオドうたちゃんも可愛いけど。私はあの純真無垢な笑顔をうたちゃんから奪ってしまった」


「……バカだ。バカがいる。でも詠のことを考えると本当に幼少期のトラウマかもしれないから笑えない」


 当時のことを思い出して黄昏れ始めたねこに付き合いお酒が進む。

 そのあとの記憶は私達にはない。


 ただ朝起きたとき詠が目の前にいた。

 出勤時間前に起こしてくれたらしい。

 詠の呆れ果てた視線が心に刺さる。

 まだ大人の威厳が残っていてほしい。それは高望みだろうか?

 動画を削除されて涙を流すねこは無視するとして。


 こんな日常があるから仕事が忙しくても頑張れる。

 さて今日も一日働きますか。



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