第84話 真宵アリスのスランプ脱出会議①
早めのランチタイムは無事終了。
現在は休憩時間。収録はされていない。ずっと機器を回していればオフコラボでも疲れてしまう。虹色ボイスではちゃんと休憩時間を取る。オフコラボのオフだ。休憩時間は演者にドッキリを仕掛けないという会社との取り決めもあるので安心できる。
バーベキューでは虫にも子供にも襲撃されなかった。
なんとトラブルが起こらなかったのだ。
この奇跡に感謝してテントのベッドに飛び込む。
マットレスも強い反発力で祝福してくれている。
おそらく持ち運びしやすい寝具なのだろう。通常のモノよりもスプリングが強い。寝るは少し沈み込む程度のマットレスが疲れが取れるらしい。けれど自堕落に過ごしたいときはこのぐらいの方が嬉しい。
このベッドがあるならばグランピングも悪くないかもしれない。
「アリスちゃんが全力で寝ている」
「……人ってここまで全身でリラックス状態を表現できるものなのね」
「私は感動しています。全身で無気力状態を表現しながら『午後はもう絶対に外出しない』という強い意思表明! 相反する矛盾した表現の共存。さすがアリスさんです」
「えっ!? そこまで考えてのベッドダイブなの!?」
「確かにアリスちゃんなら午後のことまで考えてのポーズの可能性があるね」
「…………」
「アリスちゃんがなにも反応しないってことは正解なのね」
「さすがセツナちゃん。よく見ている」
「あっ! アリスさんが顔を上げました」
「皆うるさいよ。……なに? ニヤニヤして」
振り向くとなぜか皆が笑っていた。リズ姉などプッと噴き出してさえいる。
何かおかしなことがあるのだろうか。
黒猫パーカーになにかついてないか確認するが特に変わったところはない。
「笑っちゃってごめんね。アリスちゃんのマネージャーさんから事前に聞いていた通りだったからつい」
「マネージャーから?」
「ええ。アリスちゃんは他人に慣れるまでは丁寧対応だけど、慣れたらぞんざい対応になる。収録外でリラックス状態を見せるようになったら認められたと判断していいって」
「それで収録外の休憩時間にぞんざいに扱われるのを楽しみにしていたんです」
「うぐっ……マネージャーも余計なことを」
「それではアリスさんから壁が取り払われているのを確認したところで、今日集まった真の目的を遂行しましょう」
「真の目的? 今日はオフコラボじゃなかったの?」
「オフコラボはやってみたかっただけです。今日集まった真の目的はアリスさんのスランプ脱出会議です!」
「スランプ脱出会議?」
セツにゃんが立ち上がって天井に拳を突き出している。
ズバババンと効果音でも付きそうな大げさな演技。特撮にも出演経験があるのでとても様になっていた。
握られた拳から指一本ピンとゆっくりと降りて、私に向けられる。
「ズバリ言います! アリスさんのスランプの原因は『気にしすぎ』です」
「気に……しすぎ?」
セツにゃんが椅子に座り直してこちらを見つめてくる。
目がとても真剣だ。勢いのあるコミカルな演技は私に有無を言わせないための演出だろう。セツにゃんはどこまでも真面目に私のことを考えてくれている。
ここで有耶無耶に逃げようとしたらさすがに怒られるだろう。
嫌われたくはない。
私もベッドに腰かけて背筋を伸ばした。
「まずアリスさん。歌の方でも失敗したのは聞いてます。具体的にどんなことを言われたのですか?」
「そうね。あたしとしてアリスちゃんが歌や演技に失敗することが想像できない。そこから教えて欲しいわね」
「だよね。アリスちゃんは色々凄いから。今日も相談に乗るつもりで来ていたのにこっちの悩みを解決してもらったし」
「……いえ。私は別に凄くなんて」
「ここで無駄な謙遜いらんのです!」
「セツにゃんなんか怖いよ!」
「いいですかアリスさん! 私は燃えています。アリスさんのスランプ脱出に燃えています。実は怯えるアリスさんにも萌えています!」
「あ……いつものセツにゃんだった」
「……なんでセツナちゃんはいつも残念な方向に自分を落とすのかしら」
「私のことはいいですから質問に答えてください!」
セツにゃんに促されるまま月海先生の言葉を思い出す。
色々言われたが要約すれば簡潔だ。
「自分の歌い方で歌えていない。周りに月海先生の後継者と持ち上げられて、歌い方まで月海先生に寄せすぎている。自分の歌い方を取り戻しなさい。取り戻せるまでは歌わなくていい」
「……歌わなくていい。結構ハッキリ言われているのね」
「自分の歌い方か。具体的には?」
「自分で取り戻すのが大事だから教えられないと。教えたらなにが悪いのか理解しないまま調整しそうだからって」
「自分の歌い方だからこそ上辺だけの調整は許さないってことだね」
「さすが月海先生。アリスさんのことよくわかってますね。アリスさんはスランプ状態でも指摘された箇所を修正できてしまう人です。それで今もスランプのままということはアリスさんは自分の歌い方を取り戻せていないのですね?」
「……うん。自分の歌い方と言われてもわからない」
元々特別な歌い方をしていたわけではない。
歌うようになったのもアフレコの一環だ。
アニメのオープニングとエンディングなどアフレコ感覚で歌っていただけ。
ボイストレーニングなどを本格的に始めたのもデビューしてからの話。自分がいいと思ったように歌っていただけだ。
特別なこだわりがあったわけではない。
「ふむ次は演技。アフレコの方ですが、これは現場にいた私から語りますね」
「うん。お願い」
「起こったことはアリスさん一人だけが監督からリテイクを連発された。それだけです。最後まで合格をもらえませんでした」
「アリスちゃんが人見知りを発動させて演技できなかったとか?」
「いいえ。アリスさんは演技できていました。それこそあの場にいた声優の中でもトップクラス。誰もが『上手い』と感嘆する出来でした」
「それなのにリテイクだったのアリスちゃん?」
「……うん」
「その監督のハラスメントってことは?」
「……そんな感じはなかった」
「そうですね。監督に悪意はない。そして演技にも一切不満はなかったと思います。ただ私が監督でもあの日のアリスさんの演技にはリテイクを出していました」
「えっ!? なにがダメだったの!?」
思わず立ち上がって確認する私をセツにゃんの真剣な眼差しが静止する。
少し困ったように苦笑いだ。
「演技にダメなところなんてないんです。私はアリスさんの演技に違和感を覚えていただけ。その違和感の正体を確かめるためにリテイクを出していただろうと思っただけです」
「……違和感」
「最初はわかりませんでした。でもブースから出されて主人公役の雨宮ひかりさんと会話して理解しました。ひかりさんはアリスさんの演技に対して『完璧な出来』と言ったんです。私は子役時代からの付き合いでひかりさんが演技に対して厳しいことを知っています。だから気づけました。アリスさんの失敗。……いえ癖ですね」
「私の癖?」
「前提として前回の集まりは顔合わせの意味合いが強いものです。行われたアフレコも演者全員がどこまでできるか? 声質は? 役作りに齟齬がないかを確かめるものでした。そんな集まりで初めて演技合わせする相手に一発で『完璧』と評されるのは普通はあり得ません。……アリスさん。どうして自分の演技をせずに雨宮ひかりさんが望む演技をしたんですか?」
「私が……雨宮ひかりさんが望む演技をしていた?」
「本当に気づいてなかったんですか?」
セツにゃんにそう問い返されて返事に詰まる。
雨宮ひかりさんの望む演技をしようとはしていなかった。でも他のキャストさんの演技を参考に修正はしていた。独り善がりの演技はしないようにと自分を戒めて演技プランを変更した。
「それがアリスさんの癖です。アリスさんは空気が読め過ぎる。周りを気遣いすぎるんです。今回のように三期生の集まりでしたら気の抜いた姿を見せてくれます。でも一期生や二期生の先輩方が混じっているとずっと真面目に役割を果たそうとしますよね」
「それは……先輩方の前では失礼なことはできないし」
「礼儀正しく真面目はいいことです。でもアリスさんはそのレベルではない。自分らしさを押し殺してでも相手が望むように、相手を立てようとしてしまう。それは協調性があるとも言えますが、主体性がないとも言えます」
「……主体性がない」
「ねえセツナちゃん。ちょっと質問」
「なんですかリズ姉」
「それって悪いことなの? 聞いている限り初めての演技合わせで相手が望む完璧な演技をしたんだよね。それも主役に合わせて」
「悪くないですね。他の監督なら絶賛したかもしれません。けれど石館監督が望んでいたのは真宵アリスの演技です。雨宮ひかりが望む演技ではありません。今回の作品は新人声優主体で個々の個性を求めています。共演者との演技のすり合わせなどの演技指導は監督の領分です。アリスさんがリテイクを連発された理由はおそらくそこです」
「なるほど。私には演技のことはわからない。でも指導者の要求と違うことをして怒られるのはわかるよ。どれだけいい動きをしていたとしてもね」
どうして私がリテイクを求められたのかはわかった。
……けれど。
「その様子だとやっぱり自覚はあったんですね。集団の中でアリスさんは周りに合わせるのが癖になっている。そのストレスの反動で一人になると暴走する傾向にある」
「……うん」
「だからと言って自分の歌や自分の演技をしろと言われても困る。ずっと集団では他者に合わせてきたから自分らしさがわからない」
「……そうだね。私は『自分らしく』や『あなたらしく』って言葉が嫌いだ」
本当にセツにゃんは私のことをよく見ている。
指摘されたのは沁み付いた習性のようなものは直しようがない。
私の癖はつまり、他の人が一緒だと私は自分の演技ができない。周りに流されてしまう。
それはあまりにも致命的な欠陥ではないだろうか?
「まあ演技については些細な問題ですね。簡単に解決できますし」
「えっ!? 声優失格とか役を降りるしかないって話じゃないの?」
「いえいえアリスさんが役を降りるなんてあり得ません。すでに演技できることは周知されてます。演技できるのにアリスさんが役を降りるとか演者と監督に亀裂が走りますよ。現場の空気が最悪になります。そんなことになるぐらいなら雨宮ひかりさんを降ろしてアリスさんを主人公役にします! 私が」
「雨宮ひかりさんがとばっちり!? それこそないよ! そしてセツにゃんにそんな権限ない!」
「……最悪あり得ない話でもないんですけどね。でも本当に演技の問題は簡単解決できますよ。個別収録すればいいだけですから」
「……ほへ? そんな簡単な話なの!? というか許されるの?」
「アリスさんの演技にリテイクを連発した石館監督なら許可すると思いますよ。良い作品にすることしか頭にない感じでしたから。相手がいると本来の演技ができない。ならば個別に収録すればいいだけです。でも今は精神面の問題。アリスさんが自分らしさを迷子にしていることが問題ですね」
「……また自分らしさ」
「ちなみに私はアリスさんのことを好きですよ。私の推しを否定することはアリスさんだって許しません。否定したら理解できるまで何時間でもアリスさん賛美を聞かせますから覚悟してください」
「セツにゃんの脅しが怖い!」
セツにゃんの唐突な告白と邪気のない笑み。
自分のことがあまり好きではない。そうやって逃げようとする私に対して先手を打ったのだろう。
心をダウナーにさせてくれる隙さえ与えてくれない。
VTuberデビューする前は燻っていたと聞いている。
けれど桜色セツナにそんな気配は微塵もない。
一番年下の同期生。でも一番芸歴の長いベテランでもある。本当に頼りにある最強の仲間だ。
今日のセツにゃんには勝てる気がしない。
〇-------------------------------------------------〇
作者からの連絡。
ダメな人はスルーしてください。読み飛ばし推奨です。
重要なことは書いていないですし、私も読専の頃は飛ばしていました。
セツにゃん無双回になりました。
本当はもっとシリアス寄り。
具体的には適応障害について書こうとしていました。
けれど現在の真宵アリスは頼れる仲間に囲まれており、適応障害ではありません。
適応障害ではないのであれば安易に作中で単語も出すべきではない、という判断でシリアス路線カットです。
ただあとがきには書いておきます。
適応障害はVTuberを含め人気商売の配信者が陥りやすい心の病です。
まず『適応障害』はどんな人でもなります。
個人差はありますが。
本人の問題ではなく環境由来ですからね。
ネーミングが間違っていて実際は環境障害のケースが多いです。
人気商売の芸能人や配信者を除けば、短期間の離職率が高いブラック企業勤めの方がなることが多い。それなのに適応できない患者が悪いみたいなネーミングから謎です。これはいじめ問題もそうですけどカウンセリングなどを受けるのは被害者なんですよね。
※勘違いされがちですが鬱病とは別の病気です。あまりにも誤用が多いので念の為に。
真宵アリスは適応障害になりやすい性格で、潰れて不登校になった経緯があります。
その自覚があり、今の人格が形成された流れもあります。
漢字で勘違いされがちですが、適応障害は社交性や協調性がなく環境に自分を適応させられない人がなる病気ではないです。
むしろエゴイストの方がなりにくいです。
陥る原因は大別して二種類。
1.自己承認欲求が満たされない。
「こんなに頑張っているのに報われない」
(配信者ならば)「登録者数も再生数が伸びない。自分はもう無理かもしれない」
2.(自分を犠牲にしても他者を優先する人が)矛盾を消化しきれなくなる。
「Aさんの指示に従っていたのにBさんがまた違うことをいう。どっちに従えばいいんだ」
「この前ああ言っていたのに指示がコロコロ変わる」
「お前そんなこと言ってなかっただろ。責任だけ押し付けやがって。理不尽だ」
真宵アリスは2番のパターン。
指揮系統が統一されてない集団行動が苦手。
真面目で人当たりのいい人ほど適応障害になりやすいと言われる理由ですね。
大きな集団では矛盾が多く発生します。本当に日常的に発生します。
社交的で真面目で自分よりもつい他人の意見を優先してしまう人にとってはその矛盾が大きなストレスとなります。
心を壊すほどに。
別に集団でなくても処理できない矛盾は過大なストレスになります。
子供は両親が好き。でも両親の仲は破綻していて喧嘩ばかり。双方から矛盾したことを多く言われる。こんな家庭環境では子供の心は壊れていきます。
あと不仲でなくても親の言動に一貫性がないとストレスです。子供は決して愚かでも盲目でもない。
配信者は多くの矛盾した声を晒されます。
ファンから色々言われる。運営からも色々言われる。SNSだとダイレクトに届く。口汚く矛盾した言葉ばかりが心に残る。
1の人気商売であるストレスと2の矛盾する声。
複合的に潰れやすいのが配信者です。
知っている配信者の引退などは悲しいですが、戦い抜いたんだと思うことにしてます。
もちろん過重労働やハラスメント(いじめ含む)も原因になります。
過重労働は1のケースで労働が成果に反映されない。どれだけ頑張っても仕事が減らない状況。
ハラスメントは1と2両方のケース。
自分の存在が否定される。納得できるはずがない理不尽な損害を受けている。非常辛いストレスです。
適応障害に薬は効きません。
薬により頭痛が和らぎ、眠りやすくなるなどの効果はあっても治療はできません。
ストレス源が解消されるか、(転職などで)ストレス源から離れるしか治す方法がありません。
皆さまも心に留めておいてください。
逃げることは恥ではないです。
逃げるという言葉の印象が悪い気がしますので言い換えます。
離れることが治療です。
ストレス源から遠ざかるしか本当に治療方法がないのでスパッと割り切りましょう。
適応障害に至らなくても、というか至る前に対処した方がいいです。
今は関係なくても知識として覚えておくことが大事ですよ。
心の病気に至る事例を知っておくことでメンタルマネジメントがしやすくなります。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます