第72話 結家詠の中と外
その日の配信は始まる前から様子が違っていた。
待機所に集まるリスナーもどこか浮足立っている。
大規模な宣伝のせいだ。
個人チャンネルの一企画のはずなのに。
『ついに来る。待望の真宵アリス生歌配信回』
こんな風に虹色ボイス事務所が公式つぶやき便などでも煽りまくっているのだ。
アイアイは私を晒し者にしたいのか。
もうマネージャーではなくアイアイと呼んでやる。
音楽スタジオに移動する車を待っている間はそんな感じで荒れていたが、マネージャーは顔を合わせると開口一番謝罪してきた。
私に対しては優しい。いつもより優しい。でも一目でわかるほど怒っている。玄関で出迎えに立ち会っていたねこ姉が即座に逃げるほど激怒していた。
ねこ姉はすぐに捕獲されたけど。
「私はねこに少し愚痴……ではなく、ねこと大人の話し合いがあるからアリスは少し待っていて」
そう言い残しマネージャーはいつも私が利用している配信用の防音室に入っていった。
泣きそうなねこ姉を引きずって。
脳内に『ドナドナ』が流れたのは言うまでもない。
ただ防音室も完全ではない。大きな声を出せば音漏れするわけで。
『あいつら勝手に話進めやがって!』
怒れるマネージャーとなだめるねこ姉の姿が扉越しに透けて見えた。
どうも関知しないところで宣伝攻勢が行われたらしい。
触らぬ神に祟りなし。アイアイ呼びは中止だ。
私としては『ふむ。それならまあいいか』と心の中で割り切った。
マネージャーが私に黙って大仕掛けをしていたら文句の一つも言いたくなる。でも上の意向ならどうでもいい。
人生の大概のことは理不尽である。相手と意思疎通ができて、文句を言うことで改善されるなら言おう。その期待が持てないなら気にしても仕方がない。
もしも無理難題を押し付けられたなら怒れるマネージャーが動くだろう。私にも話があるはずだ。
ねこ姉に愚痴って解消されるなら許容範囲。
そう納得することにする。
マネージャーはスッキリ。ねこ姉はグッタリ。私は今日の配信に集中してますポーズを取って我関せず。
外出する前にゴタゴタしたが無事スタジオ入り。
そこでボイストレーナーの先生である月海先生からメッセージが届く。
私は一人の方が歌に集中できるタイプらしい。
だから先生はスタジオに来ないと聞いていた。
『余計なことは気にせず目の前のことに全力を尽くしなさい。全集中』
うん……いつもの月海先生のメッセージだ。
歌手デビューが決まってから名言っぽいことを一日一通送ってくる。
うちのお母さんでもここまでしない。
先生は絶対に過保護だ。
そして内容は様々。感銘を受けることもあれば外していることもある。
今回はたぶん先生も迷ったのだろう。少し外している気がする。
ちなみに一番感銘を受けたのは月海メッセージコレクションはこれだ。
『不安で眠れない夜もあるでしょう。でも寝なさい。身長が伸びると信じて』
素晴らしい! 共感しかなかった!
睡眠は大事。私の心と体に刻み込まれた名言だ。
失礼だが最近先生のメッセージを採点するのが少し楽しみになっている。
うん落ち着けた。
持ち込んだノートパソコンから待機所の様子を確認する。
この日のためのサムネイル画像はねこ姉の特製だ。
普段の可愛いアニメキャラクターイラストベースとは違う画風。
マネージャーが『ディスクジャケット風で』と特別に発注したのを聞いている。
サムネイル画像は二枚の画像の切り変わり式。
下地の色はブルーベースでどこかサイバー。
描かれているのは真宵アリスのバストアップ。
スタジオマイクに向かって立っている。頭には巨大なヘッドホンがイヤーカフに被せられている。色塗りは最小限で全体的に淡い。
一枚目は眠っているように目を瞑っている。
けれど二枚目に切り替わると繊密に書き込まれた瞳が少し上目遣いにこちらを見る。
深紅の瞳が爛々と輝いている。
目は口ほどに物を言う。
まだ歌っていない。でも今から熱唱すると伝わるサムネイル画像になっていた。
待機所の評判も非常に高く期待値が鰻登りだ。
デビュー配信もそうだったが期待値上げの犯人は事務所ではなくねこ姉なことが多い。
:サムネイルがいつもの画風と違う
:いいなこれ……普通に欲しい
:イラストレーターは変わらずねこグローブ先生だよな
:そりゃあ身内だし変わってないぞ
:こんな絵も描けるんだ
:元々エモい作風が多くて風景も得意な人だから
:凄く目が合っている気がして画面から目が離せないんだけど
:お前は俺か
これは失敗できない。
失敗していい配信は存在しないけど、さすがに今日がいつもの配信とは違うと気づいている。
事務所の力の入り具合も、月海先生の心配も、ねこ姉のいつもと違う作風も、最近少し疲れ気味で荒れているマネージャーも、集まってくれているリスナーも。
たぶん色々な思惑が絡んでいるのだろう。
皆が異なる想いを抱いている。
でも誰一人として失敗してほしいと思っていない。
成功してほしいと願ってくれている。
ならそれでいい。
誰かの思惑なんて一々気にしていられない。
結家詠はそれほど『外の世界』に関心がない。
心はまだ部屋で引きこもったままだ。
今こうして外に出ているのはVTuber真宵アリスであって結家詠ではない。
その証拠にメイド服の着たままで外出できている。
真宵アリスの仕事着はメイド服。その認識があるから奇異な目で見られない。
事務所内もこのスタジオも真宵アリスの仕事場だから移動できる。
メイド服で移動できるのは真宵アリスの存在が許された狭い世界だけ。
だから安心できるし、真宵アリスは外に出ることができる。
結家詠は外出する気がない。着替えてコンビニに行く気もない。ずっと部屋で引きこもっている。
アフレコしているときと同じだ。
誰かを演じているのは楽しくて……とても気が楽だ。
結局、私は真宵アリスという役をずっと演じているだけ。
引きこもりの小動物から成長していない。
「やる気充電完了」
でも結家詠だって心を完全に閉ざして無関心を決め込んでいるわけではない。
最小限の範囲だが心を開いているし、願っている。
「キャラクター真宵アリスをインストール」
身近な人の期待は裏切りたくない。
応援してくれる人の声に応えたい。
それ以外は雑音と切り捨てる。
結家詠が引きこもっている部屋はとてもシンプルでクリアな『世界』だ。
その世界から心を純化させて完全に真宵アリスになりきる。
このときはなぜか結家詠と真宵アリスが重なり合う。
もしかしたら私の世界も少しは広がっているのかもしれない。
「お仕事モード起動」
さあショーの幕は上げよう。
今日はいつもと違うかもしれない。
周りから見れば特別な開幕かもしれない。
それでも私はいつも通りに。
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