第19話 屍は最早途方に暮れる必要はない!

 まだ、左眼の周りに青い痣の化粧をし、瞼が上がるはずもない程に腫れあがっている娘が、実家に戻るべき荷造り、荷物をリュックに詰めている。


 俺は娘にこう言った。


「お父さんは、構わないから、ここに居たいほど居れば良いよ。」と


 娘はこう答えた。


「帰らないと、薬が無くなったから…」と


 娘は兄の暴力と生来の不眠症から、精神を患っていた。

 俺と同じ鬱病であった。


 俺は娘に言った。


「お母さんに薬を送ってもらえば良いじゃないか。」と


 娘はこう答えた。


「薬ね、1ヶ月分しか出して貰えないとお医者さんから注意されているの」と


 俺は何も言わず、娘を最寄りの駅、国分寺駅まで見送り、東京駅へ向かう中央線の特急に乗った娘に手を振った。


 国分寺駅からマンションまで、歩いて帰ることにした。


 30分程度掛かるが、今日はバスではなく、歩くことにした。


 歩道は狭く、路面の至る所にゴミや吸い殻が捨てられていた。


 俺は咥えタバコを吐き捨て、路面の吸い殻をまた一つ増やした。


 ゴミの中にゴミを棄てる。


 ゴミ溜めの縮図のような陰険とした駅前通りを降り、府中の少年鑑別所前のマンションへと歩いて行った。


 奇しくも息子と同じ組織の鑑別所が俺のマンションの位置目標であった。


 既に午後6時を周り、秋の夜は夏の粘り強い夕暮が嘘のように、宵闇が立ち込めていた。


 ヒグラシの哀しい声が公道沿いから聞こえており、その声も哀しく傷ましく、時折通る車の騒音に掻き消されるのが唯一の救いのように思われた。


 娘が言った抗うつ薬の処方については、ある意味、俺に対する当て付けと嫌味でもあった。


 俺は未だに医者に顔を見せずして、かなり睡眠度の高い睡眠薬と抗うつ薬、それと精神安定剤を処方されており、医者は何度も俺に、せめて、3ヶ月に一回は病院を受診するよう、しつこく、妻に言い渡していたが、俺は広域異動を理由に医者には顔を見せなかった。


 しかし、希死念慮があるとした俺に対して、医者は妻を代理に薬の処方を継続してくれた。

 そう、かれこれ、1年以上、受診せずに、抗うつ薬、安定剤、強烈な睡眠導入剤を貰っていた。


 丁度その頃、俺の飲んでいる睡眠導入剤が、若者、馬鹿者がラリるために服用し、交通致死で逮捕されるなど、違法ドラックとして取り沙汰され始めていた。


 俺の息子もそのうちの一人であった。


 人気の無い裏通りから、唯一の灯りのある公園で俺は一服した。


 公園の横が少年鑑別所だ。


 息子の暴力気質は、俺のDNAと思った。


 娘の不眠症は、同じく俺のDNAだと思った。


 二人には申し訳ないと思った。


 これから先、この二人の子供に対して、何もしてやれる事は無いと思った。


 せめて俺と同じ暴力と不安の日々は送ってくれるなと、神に頼もうと十字を切りかけたが…


 俺は、神だけには頼む事を辞めた。


 何故ならば、幼い頃から教会に連れて行かれ、何度も何百回も何千回も何万回もそれ以上も、神には祈ってきたが、神は何もしてくれない、究極の放置プレイであった…


 ここまで、黙っていたが、俺はカトリック教徒であった。


 母親の家庭が敬虔なカトリック教徒であり、俺も小学生の頃、洗礼を受けていた。


 友に騙され、大人に侮蔑され、恋人に裏切られ、その都度、神に何故か?祈ったが、神は無言を貫く。


 夢の中の世界も、悪夢ばかりが繰り返され、予知どころか、過去の汚点を繰り返し、繰り返し、放映した。


 決定的な神への不信は、20代の頃、恋人に裏切られた事だ。


 俺の神への不信は、神への憎悪と増幅された。


 この件は、詳しくのべたくない…


そんな、過去を思い浮かべながら、二人の子供の体内、脳内へ俺の悪魔のDNAが無情にも覚醒し始め出したことに対して、俺は無気力な態度と裏腹に、激しい焦りを感じていた。


 ここ府中の少年鑑別所の中に息子がいるように思え、その外壁に当たる電柱の光が息子の顔貌の影を作り出し、壁の中の木々から聞こえるヒグラシの鳴き声が息子の泣き声に聴こえて来た。


 俺は恐ろしくなり、公園から慌てて、道路問面にある俺のマンションに駆け込んだ。


 部屋の中には、やはり、電柱の光が差し込んでおり、カーテンが掛けっぱなしのクーラーの風に揺れていた。


 その下には、先程まで娘が寝ていた布団が敷いたままになっており、何故か、その上に、白い屍衣を纏った娘が横たわっているように見えた。


 俺は恐ろしくなり、部屋の電気を付けて、幻想を振り払い、そして、また、幻想に戻るため、台所のパイプ椅子に陣取り、ウヰスキーと抗うつ薬、そして、睡眠導入剤を飲み始めた。


 幻想は蘇り、娘の屍は横たわり、息子の泣き声はヒグラシの声を介して俺の脳内に響き渡った。


 それから、3ヶ月後の正月、俺は九州に帰省し、真っ先に息子の少年鑑別所に向かった。


 息子は薬物解離のリハビリも継続して行っており、俺の予想とは違い、ある意味、生き生きとしていた。


 俺は息子と面会し、何も心配するな、兎に角、焦らず、先生達の指示に従うようにと諭した。


 息子も頷き、俺の話を静かに聞いていた。


 一応の話が終わると、職員が息子に時間の終わりの合図を目で送った。


 それに気付いた息子は立ち上がり、俺に別れを言い、面会室を後にしようとした。


 息子が部屋のドアを開け、出て行く間際に、くるっと振り返り、俺にこう言った。


「最近、お父さんの夢ばかり見るんだ。

 夢の中のお父さん…、泣いてる…、いつも、泣いてる…


お父さん、ごめんな…」と


 俺は驚き、息子の名を叫んだ。


 息子は蒸せるように泣きながら、職員に肩を押され退室して行った。


 俺が息子の生きた姿を見たのは、これが最後であった…


それから2ヶ月経った、3月の初め、妻から電話があった。


 息子が病院のリハビリ中に、脱走して、屋上から身を投げ、死んだと…


俺は妻にこれから帰る旨を告げ、電話切り、マンションを後にした。


 国分寺駅まで歩いて行く途中、あの少年鑑別所の前の公園が見えた。


 既に薄暗く、公園の電柱がベンチにスポットライトを当てていた。


 そのベンチに俯き、肩を落とし、タバコを蒸している男の姿があった。


 俺はそれが、俺なのか、息子なのか、どちらか分からなかった。


 ただ、それが息子でない事を願った。


 途方に暮れるのは、俺で十分だ!


 お前は、もう、途方に暮れる必要はない!


 俺だけが、途方に暮れる!


 分かったか!


 俺は心でそう叫びながら、その情け無い幻影を凝視し、国分寺駅へ向かった。


 国分寺駅には最終の特急が待っていた。


 俺は電車に乗り込み、客室に座る、人々を見遣った。


 誰一人、俺の方を見遣る者は居なかった。


 誰もが俯いていた。


 それは、葬式の最中の場面のように思われた。


 俺は空いてる客室に座る事なく、手摺を握り、東京駅に向かう窓の外の景色を見続けた。


 どこかに電気が灯り、ほっこりとした家の中が見てとれた。


 俺は窓ガラスに唾を吐き、その光景を抹殺した。


 そして、窓ガラスを汚した俺の唾液をまじまじと見つめながら、こう思った。


 不幸の奴は、姿を明瞭に表して来やがった。


 俺の家族を抹消しやがった。


 分かったよ。


 俺はこれから24時間、襲いかかって来る不幸を敵に回したんだな。


 それも覚悟のつもりだ。


 生きた屍、生き恥を掻き、踠き、苦しみ、墓場に向かってやる!


 不幸など俺の敵ではない。


 まだ、恐怖に満ちた畏怖の化け物を俺に寄越しな!


 まだまだ、俺の怒りは十分に戦えるぞ!


 神か運命か宿命か、何か知らないが、俺は貴様ら絶対的価値観に平伏さない!


 絶対にな…


49歳の春、俺は息子の葬式を終え、バラバラに砕け散った家庭、九州に戻った。


 そこには神しか用意できない、とてつもない恐怖が、俺を迎え撃つこととなる…


 


 


 

 

 


 

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