ズルズル、チュルリン! あー美味しい。もう一杯。

ぬまちゃん

第1話 赤いきつね

 それは、木枯らしがぴゅーぴゅーと吹いている道頓堀に近いオフィス街での出来事だった。道頓堀に反射する色とりどりの広告が風にゆられて寒さをいっそう引き立てていた。


「うわぁー、むっちゃ寒いー。でも、今日は思いのほか仕事が早く終わったから、終電には余裕で間に合うわー」


 もう誰もいないオフィスから出て来た女性は、ビルの間で強くなった北風に震えて肩をすぼめながら地下鉄の入り口に向かって急いでいた。


 ――と。

 あれ? こんな場所に屋台なんかあったんかしら。


 地下鉄の入り口を示す看板の光が届くほんの少し先に、ぽつんとたたずむ古めかしい造りの屋台がひとつ。

 屋台の看板には、たった一行『きつね』というへたくそな手書きの文字が。


 冷えた体で帰るより、うどんを一杯食べて体を温めていくか、と考えた彼女はちらりと自分の腕時計をみて、終電前に一杯くらい食べられる時間があるのを確認してから屋台ののれんをくぐる。


「おっちゃん。きつね! いいかしら」

「へい、まいどー」


 屋台の向こう側は灯りの関係か暗がりになっていて、屋台のオヤジさんの顔がハッキリとは見えなかったが、彼女の注文に対して威勢のいい返事が返って来た。


「おっちゃん、寒いわねー」

「へえ、そうでんなー」


 彼女は、影になって見えない屋台のオヤジさんに向かって声をかけながら、目の前にあるヤカンから既にぬるくなっているお茶を湯飲みに注いでチョコっと口に付けて食前の喉をうるおす。


「へい、おまちー」


 あたたかな湯気をたてて、うどんが見えないほど大きめのお揚げが乗っている、きつねうどんが、彼女の前に現れた。


「おおきに! 頂きまーす」


 彼女は、屋台のテーブルに置かれたティッシュボックスから取り出したティッシュで、今日一日しっかりと働いた証である真っ赤なルージュを丁寧に拭きとる。うどんの入ったどんぶりに口紅を付けない彼女なりの配慮だ。


 ふーふー。

 ずるずる。


 冷え切った体に熱いうどんをするすると入れてから、一口大の大きさにちぎったあまい厚揚げを口の中に放り込む。それから、つゆをごくりと飲む。


「はぁー。体があったまるわぁー。めっちゃ美味しかったよー、おっちゃん」


 彼女は満足してそう言うと、お金をテーブルに置いてから屋台を後にして、地下鉄の入り口を降りて行った。


 * * *


「あかん! マフラーを屋台に忘れてきちゃったやん」


 彼女は、きつねうどんを食べる時にじゃまだからと、首から外して屋台の長椅子に置いたマフラーをそのままにして来たのを地下鉄の改札に入る前に気が付いた。


 大慌てで地下鉄の階段を駆け上がり、入り口を出て屋台のあった方向を見ると……。


 ――しかし、


 そこに屋台はなく、長椅子とその上に置いてあるマフラーと、


 ――そして、


 中身が空っぽになった『赤いきつね』が、残っているだけだった。


「へ?」


 マフラーとまだ温かさの残っている赤いきつねの空の容器を手に掴んで唖然としている彼女の耳に、道頓堀のビルとビルの間を駆け抜ける風に混ざるように、こんな鳴き声が届いて来た。


「コーン……」


 後半に、つづく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る