第67話 奪い取った男
自分の前に兄の新二郎が現れるとは、予想もしなかった――といえば、嘘になる。まさかとは思っていたが、その通りになったと言うべきだろう。
「どうした、喜十郎。戦おう」
板野新二郎は弟を
「決着をつけるんだ」
兄の板野新二郎は、浪人である。家を継ぎ、城に勤めるのは、喜十郎ではなくて、本来、兄のはずだった。
――おれだって、好き好んで家を継いだわけではない。それは兄上が――
新二郎が出奔してしまったからだ。
藩士の子弟のための教育機関である藩校「湧学館」で、文武両道にわたって優れた成績を修めた板野新二郎は将来を嘱望され、参勤交代の折には藩主に従って江戸詰を命じられるという、異例の待遇を受けた若手藩士だった。
しかし、安政の大獄の嵐が吹き荒れた当時の江戸で時流にかぶれた新二郎は、尊皇攘夷を奉じた他の若手藩士らと共に江戸藩邸を出奔、上方に姿をくらませたのである。
すでに父親から家督を譲られ、板野家の当主となっていた新二郎の出奔は、国元の家族に大きな衝撃を与えた。当主が藩務を投げ出して行方をくらませるなど、藩主に対する申し開きのできない背信行為だ。板野家は取り潰しの危機に立たされたのである。
隠居していた喜十郎の父親をはじめ、親族こぞっての運動した甲斐があり、板野家は取り潰しを免れ、家督は喜十郎が継いだ。しかし、板野家の家禄は半分に削られ、喜十郎の父親は心労がたたって他界した。
――おれは好き好んで家を継いだわけではない。
「嘘だ。お前はおれがいなくなって、しめしめと思ったはずだ。『兄はいなくなった』これで自分が板野の家を継げる――と」
「そんなことはない! 兄上のせいでおれたちがどんなに苦労し、肩身の狭い思いをしたことか。父上はあなたのせいで亡くなってしまったんだ」
「それもお前には好都合だったはずだ。父は跡継ぎのおれのことは目に掛けてくれたが、弟のお前のことは疎んじていたからな。どうだ、おれを追い出して板野家の当主に収まった気分は?」
「追い出したのではない……」
「おれの帰りを待てなかったのなら、同じことだ!」
喜十郎はびっしょりと汗をかいていた。分かっていたのである。自分でもそういう自覚があった。あえて、考えようとしてこなかっただけだ。家中のあちこちでそう噂されていることも知っている。
『板野喜十郎は、その兄から当主の座を掠め取ったのだ』
「ちがう!」
「うまくやったな、喜十郎」
新二郎はほくそ笑んだ。世の中の邪悪なものすべてをその口元に張り付かせたような、禍々しい微笑みだった。
「何年かぶりに国元へ戻ってみて、おれは驚いた。お前が板野家の家督を手中にしたばかりか、筆頭家老、橘厳慎の信任を得て家禄を元に復し、新たな役目を得て長崎にいたからだ。傍には斎先生の妹である絵都までいる」
「……」
「おれと絵都とが、かつて将来を言い交わした仲だったこと、お前が知らないはずがない……。どうだ? おれの女を手に入れた気分は。家も、名誉も、女も――お前はおれから何もかも奪っていくつもりらしいな」
「ちがう!」
「なにがちがうものか。お前はおれのものを奪い取った、
喜十郎の耳の奥で、さあっと身体中の血の気が引いてゆく音がした。ああ、そうだ。おれは分かっていた。おれのしていることは、本来、兄上の役目だった。おれの何もかもが兄上の代役に過ぎない。
「返してもらうぞ、喜十郎。何もかも!」
新二郎が薙刀を振りかぶった。喜十郎は振り下ろされる切っ先を刀で受ける。手首がちぎれるかと思うほどの衝撃だった。続けざまに、二撃、三撃。堪らず膝をつく。先日の老女が操っていた薙刀の威力とは比べものにならない力強さだった。しかも、速い。
――強い!
新二郎の頭上を旋回した薙刀が、今度は喜十郎の足元を薙ぎ払う。空気を切り裂く凄まじい音。刀の峰で受けると火花を飛び散り、喜十郎は堪えきれず横倒しに倒れた。そこへ新二郎の追撃が襲い掛かる。
――勝てない。兄上には、勝てない。
喜十郎が観念したその時だった。
「ばか!」
ぐいと喜十郎の身体が、何者かによって後方に引っ張られ、新二郎の繰り出した薙刀が空を斬った。
「鷲尾……?」
先ほどまで眠っていたはずの鷲尾十兵衛が、喜十郎の襟首を掴んで引き寄せたのだ。
「心を鎮めろ、喜十郎。あれは『薙刀鳴り』であって、おぬしの兄ではない」
喜十郎はそう言う鷲尾に顔を張られた。
「薙刀鳴り」は人の罪悪感が凝って形を成したものだ。押し殺そうとすればするほど強くなる。板野新二郎はおぬしの罪悪感が見せる幻だ――。
「おぬしは何も盗み取ってなどおらん。兄の代役などではない」
目を覚ませ、喜十郎。なにを恥じることがある、おぬしの人生はおぬしのものだ――!
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