第66話 自分の内なる敵

「どうする?」

「どうする、とは」

「決まっているだろう。このまま、この仕事を引き受けるのか、それともだ」

「いまさら臆病風に吹かれたのか」

「……」


 詰所に割り当てられた部屋に二人きりで残されると、さっそく鷲尾十兵衛が弱音を吐いた。石川屋からの依頼を反故にして、島を抜け出そうというのだ。


「先程、石川屋と話した時に『薙刀鳴り』の怪異をなんとかすると請け合ったのは、鷲尾――おぬしだぞ」

「しかし、その『薙刀鳴り』に喜十郎は翻弄されたではないか。勝ち目のない戦はせぬのが良将というものだ。」

「また、そのようなことを言って逃げ出そうとする。たしか先年、三國屋に用心棒として雇われたときも、おぬしは肝心なときに逃げ出そうとしていたな」

「むかしの話を持ち出すな。それに、命あっての物種というぞ。勝ち目のない勝負はしたくない」


 まったく、臆病者の鷲尾には武士の意気地というものがない。「そんなものでわしと家族の腹は満たされん」とにべもない。喜十郎は腹立たしく感じると同時に、そんな鷲尾が少し羨ましい。その武士の意気地とやらに縛られている自分をいつも疎ましく思っているからだ。だが――。


「なに、おれは敗れたわけではないぞ」


 たしかに夢のなかで出会った「薙刀鳴り」には驚かされた。薙刀の攻撃には手も足も出なかったといっていい――それは認めようと喜十郎は思う。しかし、それは初めて薙刀を持った敵と向かい合ったからだ。


 薙刀は、源平合戦や南北朝動乱の時代にはさかんに用いられたが、戦国の世を経て家康公が江戸に幕府を開く頃には廃れ、操る者の少なくなった武器である。このごろでは、薙刀術は婦女子が護身用に修めるものとして広まっており、試合というものもほとんど見られない。


 いままで喜十郎は薙刀を持った相手と戦ったことがなかったのだ。


 ――つぎは違うぞ。


と喜十郎は思う。「薙刀鳴り」と刀を交えてみて初めて分かったのは、薙刀の長い攻撃範囲と強い打撃力だった。刀同士の斬り合いでは考えられないほど遠い距離から攻撃が飛んでくる。そして、遠心力の乗った力強い打撃。共に薙刀の長い柄が生む利点だ。相手との間合いが遠いうちは、絶対的に薙刀が有利。刀を持つ喜十郎は防戦一方に追いやられてしまうのだ。


「間合いが違い過ぎる。刀では、ヤツの身体に触れることすら敵わんぞ」

「戦い方はあるさ」


 現に先ほどの戦いでは、小刀を投げつけて「薙刀鳴り」を怯ませることができた。長大な薙刀は両手で操らざるを得ず、大きく振り回すときの隙が大きい。付け入る隙は必ずある。小刀が急所を突いていれば、喜十郎は勝利していたかもしれないのだ。


「この次は、勝つ」


 そう言い切る喜十郎の言葉に励まされたのか、徐々に鷲尾の表情も明るくなってくる。鷲尾だって、この儲け話をふいにしたいわけではないのだ。


「頼もしいな。しかし、次もあの老女が現れるとは限らんぞ。わしの見た『薙刀鳴り』は遊女だったわけだしな。思うにその老女は、あの場にいた石川屋のが形を成したものだな」

「石川屋はなにも言わなかったが、夢の中で会った老女は、確かに『わが子のこと』と言っていた」


 石川屋の内部では、藩の政策に協力して商売を大きくしたいという石川屋と、先祖から守ってきたこの島と海の民としての役割を守りたいという大女将との間に対立があるのだ。石川屋は母親の反対を押し切る形で藩に協力することを決めたのだろう。


「その罪悪感が『薙刀鳴り』の妖力を得てあの老女の形となった?」

「まずそうだろう。油断するなよ、喜十郎。『薙刀鳴り』の怪異に立ち向かうときの敵は、自分自身の内側にいる――ということだ」




 翌日の夕刻、夕闇が迫る廊下を喜十郎と鷲尾十兵衛は奥の座敷へと向かった。幾度も折れ曲がり、そのたびに影の濃くなってゆく長い廊下の向こうから得体の知れない気配が漂ってくるかのように感じられた。


 屋敷の最奥の座敷には、古びて朽ちかけた長持が据えられ、その上にひと振りの薙刀がかけられていた。六尺余りの大薙刀だ。柄に塗られた黒漆が障子の残光を写してつやつやと光っている。


「これがその薙刀です。毎夜、鳴くのはこの薙刀です」


 部屋へ案内してきた石川屋が硬い表情だった。この薙刀が恐ろしいのだ。口にはしないが、指先の震えているところからそれが分かる。


「今夜、板野さまと玄海どののおふたりには、ここに泊まり怪異の調伏に当たっていただく。よろしい……ですか」

「無論」


 そう答えたのは修験者、玄海――と名乗っている鷲尾十兵衛だったが、その顔も血の気を失って真っ青である。石川屋も鷲尾も薙刀の発する名状し難い気配に萎縮していた。


「それでは……よろしくお願いいたします」


 折れ曲がった廊下を石川屋の足音が遠ざかってふたりきりになると、途端に座敷の四隅の闇が濃くなった。


 ようやく夜が始まるのだ――と喜十郎は燭台に火を灯しながら思った。長い夜が。


「喜十郎……」

「先はまだ長い。ひと休みしておこう」


 不安そうな鷲尾に構わず傍の柱に背をもたせて座り込むと、喜十郎は刀を抱いて目を閉じた。その時がやってくるまで、心を落ち着けておきたい。なにしろ、今回の相手は人ではない。人の心に棲むあやかしなのだ。


 ――いったい、俺の前には何が現れるのだろうな。


 一刻、二刻……と時は、蝸牛が這うようにゆっくりと進んだ。長持と薙刀に変化はない。三刻……夜中を過ぎた。気がつくと喜十郎は眠っていたようだった。燭台の灯芯が燃え尽きたのか、座敷は真っ暗だった。すぐそばから規則正しい寝息が聞こえる。鷲尾が眠っているのだろう。


 ふと耳に折れ曲がった廊下をこちらへ近づいてくる音が聞こえてきた。ほんの微かな木の軋む音。なにものかが廊下をこちらへやってくる。


 ――だれだ。


 今夜は何者もこの座敷には近づけないというのが、石川屋との取り決めだった。石川屋の奉公人ではあり得ない。なにかがこの座敷を目指してやってきている!


 暗闇の中、畳の上を燭台ににじり寄り、手探りで火口箱を開けた。廊下の軋む音が聞こえる。今度ははっきりと。


 なにものか分からないが、この部屋へやってくる前に明かりを――そうでないと喜十郎には何も見えないのだ。


 いつもなら真っ暗でもわけなく熾せる火がなかなか点らない。気が焦るとさらに火花は飛ばなくなった。


 ずるり。何かを引きずるような音がする。ずるりずるりと近づいてくる。人の足音ではない。――ようやく火口に火種が点った。息を吹いて炎を起こす。


 ひゅうい。


 すると、いままでずるりずるりと引き摺っていた音が、座敷と廊下を隔てる襖の前までやってきて、はたと止まった。


 ひゅういひゅうい。


 海鳥の鳴くような声が座敷へ忍び入ってきた。


 喜十郎が、飛びつくようにして燭台に火を灯すのと、すらりと襖が開け放たれるのがほぼ同時だった。胸元に刀を引きつけた喜十郎が振り返ると、揺らめく炎に照らされて、廊下にひとりの男が立っていた。


 背が高く、痩せた肩、細面に三白眼。薄い唇に謎めいた微笑みを浮かべた男は、その手に黒光りする薙刀を携えていた。


「ようやくだな……喜十郎。会いたかったぞ」

「あ……兄上!」


 闇に縁取られた廊下に佇んでいた男は、。藩を捨て、家を捨てて姿を消した、板野喜十郎の兄だった。

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