第42話 悪所がよい

 数刻にもわたる奇妙公との密談を終えた板野新二郎いたのしんじろうが、深々と平伏して奇妙公の居室を後にすると、部屋のなかからするりと影のように出てきた者がある。奇妙公の身の回りの世話をしていた小女だった。その強い目の輝きと小鹿のように敏捷な動きはただの侍女のものではない。


「阿片は言いつけどおり与えているな」

「は」

「いま老人に悩乱されては困る」

「心得ております」


 廊下を歩きながら、囁くような声で言葉を交わす。板野に付き従う姿はまったく影のようだ。その身体には特殊な武術が備わっているように見える。


「つぎも手筈どおり働いてもらう」

「はい」

「素直な娘だ。加耶かや。おまえには期待している」


 板野新二郎は、立ち止まって女の目を見つめると、その能面のような顔に氷のような微笑を浮かべた。


 ――見ていろ喜十郎。これがおれのやり方だ。


☆☆☆


 おやと思って、よく見ようとするその前に、寺から出てきたふたつの人影は、表の通りをゆく絵都に気付くことなく、細い路地の向こうへ消えていった。ここは青海城下の寺町の一角である。


 絵都が、板野家を訪ねた帰り道のことだった。ひとりは三十がらみの小男、もうひとりは身なりのいい若い武士だった。その後ろ姿がだれかに似ているなと思った。


「さっきの、篠崎じゃなかったですか」

「ああ」


 そうだ。篠崎祐馬しのざきゆうまだ。

 馬廻組うままわりぐみ三百石、篠崎家の三男で兄の斎兵庫が経営する道場の門弟である。肩を怒らせて歩いていった背の高い後ろ姿は、まだ若く鼻っ柱の強い篠原祐馬に違いない。


 先に気づいたのは、一緒に歩いていただった。喜十郎は訝しげな顔つきで路地の奥を見ている。御徒組おかちぐみ、板野喜十郎は、斎道場の門弟のひとりである。


 絵都と喜十郎が一緒に歩いていることについては、やや説明が必要だ。


 この春、藩内の攘夷派によるものと見られる藩主、義茂よしもち公の御正室暗殺未遂事件が長崎で起こった。この時、暗殺者の手から尚姫なおひめの命を救ったのが、尚姫と藩主それぞれの護衛の任についていた絵都と喜十郎である。


 その際、喜十郎は尚姫と絵都を守って深傷ふかでを負ったのだが、絵都はそのことを深く恩義に感じ、長崎から青海に戻っても、なにくれとなく喜十郎の世話を焼くようになっているのである。


「そんなに頻繁に通ったのでは、変な噂が立ちますよ」

「構わないわ」


 呆れたように、一緒に住んでいる甥の隼人はやとが忠告してくれたが、そんなことは承知の上である。


「この家に出戻ってきた時に、死ぬほど恥ずかしい思いをしたんだから、これくらい平気よ」

「そうじゃなくて、姉様が通ってることで板野さんが恥ずかしく思ってるかもしれないってことですよ」


 なるほど、それは隼人のいう通りだ。兄の兵庫と違って斎道場の跡取りは、人の心の機微というものが分かるらしい。


 ――さてそれは、うかつだったかもしれない。でも……。


 しかし、それも杞憂に思われる。病身の母と二人暮らしをしている喜十郎は、いつも飄々としていて「絵都さん、いつもありがとうございます」と屈託なく見える。床についていることが多い彼の母親からも感謝されこそすれ、邪険に扱われたことは一度もない。


 一度嫁していた婚家での仕打ちと苦労を思えば、雲泥のちがいである。自分が板野家の人たちから疎まれているとは思えない。ならば、あとは絵都自身の気持ちの問題ではないか?


「大丈夫よ、隼人。しつこくはしないから」


と今日も、板野家に鮨をお裾分けに出かけたのである。板野喜十郎の怪我は夏を経てすっかり回復しており、「お送りします、絵都さん。道場で稽古をつけてくれと師範代からも頼まれていますし」と喜十郎に付き添われて、寺町に差し掛かったところだった――。


「感心しませんね」

「なにがですか?」

「お、絵都さんは知らないんですか。この寺、賭場だって噂があるんです」

「とば?」

が行われる場所のことです」

「まさか……」


 漆喰に塗り固められた立派な壁を見上げる。青海では由緒正しい古刹である。境内には歴代藩主の墓所もあり、博打などという悪習とは縁遠い場所に思えたが――。


「風紀の乱れというやつですかね。近年、藩内のあちこちで聞きます。最初は城下を離れた神社仏閣をシマとしていたようですが、最近は城下でも……博徒ばくとの根城はこの別院にあるとか」

「取り締まらないのですか」

「町奉行の与力たちは、寺社の内部のことには関われないきまりです。寺社奉行も藩内の主だった寺社とは事を構えたくないので見て見ぬふりとか」

「あきれた」

「心配なのは、昼日中ひるひなかからこのような賭場に出入りしていたのが、道場の門弟だということです。篠原……それに思い出しました。篠崎の先に立っていった男、時平重吾ときひらじゅうごですね」


 いずれも斎道場の門弟だ。時平重吾のことはよく知らないが、亡くなった大坂蔵屋敷の勘定方、時平某の息子だと聞いている。先月、青海に戻ってきたばかりのはずだ。絵都はまだ、時平の稽古を見ていない。


「感心しない。道場であったらそれとなく時平に尋ねてみます」


 そういいながら、しきりと喜十郎は首をひねっている。ふだん飄々としているように見えて、根はまじめな男なのだ。絵都は、少し離れて歩く喜十郎の横顔をうかがった。


 ――新二郎あのひととちがって?


と考えてしまってから、あわててその考えを振り払った。


 ――わたしったらおかしい。最近こんなことばかり考えて。


 そのあとのふたりはずっと黙ったまま、斎道場への道を辿っていった。

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