第37話「おれと一緒にこい」

 そのときだった。

 執拗に刀を繰り出してきていた岡田が、弾かれたように飛び退って耳をすませた。暗く沈みこんだ四辻の向こうから、地面を蹴る大勢の足音が聞こえきた。近藤さんや、別の幹部が率いていった別動隊が、争闘の物音に気付いて加勢に飛んできたのだ。


「以蔵、引き上げるぞ」


 武市の判断は早かった。

 岡田はその一言でまりが弾むように後退し、先に走りはじめた武市と板野を追って、暗闇の中に消えていった。

 おれも、そんな岡田を追おうと駆け出したのだが、ほんの数歩もゆかないうちに足がもつれて横倒しに道へ倒れ込んだ。


「……!」

「大丈夫か」


 まっさきに、おれに駆け寄って抱き起してくれたのは、近藤さんだった。


「近藤……さん」

「いいから、もう追うな。あとは任せろ」


 そのとき月明かりで、近藤さんの隊服をおれの血が赤く汚していることに気づいた。

 斬りあっている最中は気づかなかったが、おれの身体はあちこち斬りつけられていて、特に左腕の傷が深く、袂がじっとりと血で重くなっていた。手に刀を握る力は残されていなかった。

 おれも芹沢と同様、すんでのところで斬り殺されずに済んだのだと、その時になって分かった。


 駆けつけた「みぶろ」の別働隊の捜索もむなしく、武市半平太たけちはんぺいたとその一味を捕らえることはできなかった。

 武市の一味と戦闘になった九人の隊士のうち、三名が斬り殺され、四名が重傷を負った。「みぶろ」の惨敗だった。


 結局、板野とおれは剣を交えるどころか、一言も言葉を交わすこともなかった。


 翌朝、医者に診てもらったおれは、二、三日は横になっているよう言われたが、そのような言いつけを守るわけもなく、医者が帰るとさっそくと井戸へ出かけて顔を洗っていた。


「片手だけで器用なもんだな」


 近藤さんだった。 

 おれの左腕は利かないように添え木を当てられ、布で縛ってあった。でも、そんなことはおれにとってどうでもよかった。


「……なんでですか」

「あ?」

「なんで板野さんは裏切ったんですか」

「……」


  近藤さんは、黙ったまま不精ひげの浮かぶ頬をほりほりと掻いていた。嘘のつけない人だから。


「知ってたんだろ。近藤さん」

「板野は間諜だった」

「知ってますよ」

「そうじゃない……。板野はな、ここにやってきたときから武市によって『みぶろ』に送り込まれた間諜だったんだ」


 ずきりと吊った左腕の傷が痛んだ。一瞬、近藤さんがなにを言ってるのかわからなかった。


「確証はなかったが、芹沢はから怪しいと踏んでいたようだ。やつは、犬のように鼻が利く」


 一緒に組んで市中巡察に回っていた……あの頃の板野はもう、間諜だったのか。


「最初から……敵?」

「ああ、敵だ。おそろしい敵さ、土佐の武市半平太とその一味は」


 近藤さんは、呆然と立ったままのおれの手から桶を奪い取ると、ざぶりざふりと井戸の水をかぶりはじめた。おれは、足にかかる冷たい水しぶきが心地よいなと、どこか遠くのほうで感じていた。





 それから数日後のことだ。

 負傷してしまったために隊務から外され、暇を持て余したおれは、ふらりと出かけたみつ団子の旨い茶屋で、思いがけず板野新二郎いたのしんじろうと出会った。


 板野は縁台に腰を下ろし、おれがいるのを知っていながら平然とした顔でみつ団子を食っていた。気味のわるい生き物が、団子を食っているように見えた。


 とっさに刀の柄に手をかけた。が、おれにそんなものが抜けるはずもない。左手は首から吊っているし、板野の腕だ。抜いた瞬間にはおれの首は飛ぶだろう。


 おれがまごついているうち、さきに口を開いたのは板野だった。


「来るだろうと思って――」

「おれを騙していたのか」

「待っていた……」

「答えろ! 裏切っていたのか」


 じろり。板野が正面からおれの目を覗き込んだ。わるい奴には見えなかった。さいごまでおれには、板野新二郎が悪い男には見えなかった。


「武市の間諜だったのか!」

「そうだ」

「――どうして」


 板野の人差し指がまっすぐおれに突きつけられた。おれは思わずたじろいだ。


土方歳三ひじかたとしぞう宮城きゅうじょうを不逞の輩から守る壬生浪士組……そんなものは信じていないのだろう? 名目はどうあれ、暴れまわりたいだけの芹沢や、勤王の志を貫けば取り立てられると信じているお人好しの近藤と、お前はちがう」


 板野新二郎は饒舌だった。赤く腫れたような目、熱を帯びた言葉。


「宮城を守る正義も、己のよってたつ剣術の力も、お前は信じられないでいる。じぶんは何をすべきなのか迷っている。このまま『みぶろ』の一隊士として、京の道端にむくろさらすこととなっていいのか? それがお前の望みか? そうではあるまい」


 そのとおりだ。そうではなかった。


「おれと一緒に来い、土方。お前はそちら側ではなく、こちら側にいるべき男だ。腐敗した幕藩体制を刷新し、異国の魔の手からこの日ノ本の国を守る。おれたちの手で新しい日本をつくるんだ。お前が来てくれたなら、きっとも喜んでくれる――」


 目を見れば分かった。板野新二郎が本心からそう言っていると。

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