第36話「裏切り者は斬れ」
板野が、
土佐の武市といえば、土佐藩京都留守居加役を務める攘夷派の大物。文久二年に続いた天誅騒ぎの黒幕といわれていた男だ。「みぶろ」の幹部は色めきたった。そして、
危険な役目だ。おれは反対した。しかし本人は飄々としたものだった。
「命令だ。構わんよ」
「命に関わる」
「おれの心配をしてくれるのか。土方」
「……」
「もとより、大義のために命は捨てる覚悟だ――ありがとう」
おれはおどろいた。普段、ありがとうなどと口が裂けても言わないような男だったから。板野の覚悟のほどは知れた。
納得できないおれは、隊舎に駆け込んでこのときすでに「みぶろ」の幹部だった近藤さんに噛みついた。板野を見殺しにするつもりかと。
「決まったことだ」
歯切れが悪く近藤さんらしくなかった。ただ、近藤さんが迷っているのがその目をみれば分かった。差し出口はするまい。おれはこの件から遠ざけられた。
しばらくは、ふてくされて寝てばかりいた。気晴らしに外へ出てみても、おれの知ってる気晴らしの場所といえば、板野に連れて行かれた甘味処をばかりなんだからな。そのあいだ、板野や武市半平太のうわさはひとつも聞こえてこなかった。
そうしているうちに日がたち、板野や武市のことを思い出さなくなったある夜のこと。おれたちはたたき起こされて手甲、脚絆に鎖帷子を着込むよう命じられた。灯火の明りで刀の目釘を改める。隊士たちはだれも理由をしらなかった。半刻後、十数名の「みぶろ」たちが月明かりに照らされた道を走りだし、その中にはおれも混じっていた。
「裏切り者だ」
「裏切り者を始末するんだ」
だれがそう言いだしたのかは分からない。しかし、「みぶろ」で裏切りは絶対にゆるされない。駆けてゆきながら、おれたちのなかで殺気が高まっていくのは分かった。
隊は途中で3つに分かれた。目的地が近づいてきたのだ。おのおの分かれて裏切り者を探索する。
おれは芹沢の班にいた。そう、このあとで粛清される「みぶろ」の局長、
「板野新二郎と仲がいいそうだな」
「……はい」
「『裏切り者』は、板野だ」
芹沢のにやついた顔にも衝撃はなかった。なぜだか分からないが、予感のようなものがあったのだろうと思う。板野新二郎は、おれとは反対側にいるべき男なんだと。
「板野を見つけたら、お前が斬れ」
おれたちは立ち並ぶ町屋の陰に隠れて待ち伏せをはじめた。軒下から見る夜の京は、月明かりが降るばかりで静かだった。道には猫の子一匹姿を現さない。
板野新二郎の身の上になにが起こったのか。芹沢は語らない。おれにも分からない。ただ、板野が現れても斬りたくはなかった。
――ずっとこのまま、なにも現れなければ……。
しかし、向こうの辻に人影が現れた。ひとつ、ふたつ、みっつ。なかのひとつ、ひょろりと長い影法師は見間違いようがない、板野新二郎だった。ここには来ないでほしかった。
「板野だな」
芹沢からことさら念を押されるまでもない。おれはうなずく代わりに先頭に立って道へ飛び出した。すでに抜刀している。斬りたくはない。しかし、斬らねばおれが芹沢たちに斬られる。おれは裏切り者の一味と思われているのだ。
「先生、ここはわしが――」
すらりと刀を抜いたのは、小さな影法師。暗闇から現れたおれたち「みぶろ」を恐れるふうもない。不敵な男だった。無言のまま、おれは斬りつけた。
ガキッ!
火花が散った。一瞬浮かび上がる男の顔。
血走った目、歯をむいた大きな口。殺意をむき出しにした表情は、まだ若かった。
――岡田か。
――土佐の
手を出さず傍観していた「みぶろ」たちがざわめいた。土佐の岡田以蔵といえば、京の町を震撼させた「天誅」騒ぎで名を馳せ、「人斬り以蔵」として知られた男だ。この岡田以蔵が「先生」と呼ぶからには、板野新二郎の傍らに立つ三番目の男、やつの師であり同志でもある武市半平太に違いない。
芹沢が刀を抜いた。板野新二郎だけでなく、「敵」がほんとうに武市半平太と認めたからだ。残る隊士も皆、抜刀し、月の光にいくつもの刀身がきらめいた。
しかし、岡田以蔵はひるまなかった。それどころか、むやみやたらと刀を振り回すのだ。それは刀法などと呼べるものではなかったが、恐ろしく早く、驚くべき力強さを備えていた。おれは岡田を持て余しはじめていた。
隊士たちが襲い掛かるのを、板野と武市は逃げようともせず迎え撃った。逆にするどく踏み込んで斬りこんでくる勢いにひるむのは「みぶろ」たちの方だった。
ひとり斬られ、またひとりが斬られた。寸毫の迷いもなく繰り出される洗練させれたふたつの太刀筋。板野と武市が刀をひらめかせるたび、「みぶろ」がひとりずつ地に這いつくばってゆく。その見事さ、美しさは、まるで舞台役者の舞を見せられているかのようだった。
隊士がつぎつぎと倒されていく様子を見せつけられ、憤怒と屈辱に身体を震わせていた壬生浪士組局長・芹沢鴨は、わけのわからぬ唸り声を発しながら、ふたりの間に割って入るかのように飛び込んでいった。明らかに剣の技量は、板野と武市の方が上、芹沢の勇気は蛮勇といってよかったが、もともと狂気と蛮勇にすがって局長にまで成り上がった男だ。芹沢に他の選択肢はなかった。
おれはといえば、岡田を相手に苦戦していた。猿のように跳ね回る足さばきに、剣は空を切ってばかり。隙をついて何度も岡田の剣先がおれの身体をかすめていった。じっとりと肌が濡れて感じられるのは、汗ばかりではなかった。
――強い。
板野と武市のあいだに飛び込んだ芹沢は、一個の小さな竜巻だった。敵味方構わず斬りつけて、付けいる隙を与えなかった。その勢いは若い隊士が怖気付くほどだった。
しかし、荒れ狂う竜巻も、ときが来れば風がやみ消滅する。息切れした芹沢の剣は、その回転速度を緩め、ついには停止した。地面についた刀の先端は折れ、芹沢は板野と武市の前に膝をついた。
――負けた。
おれは、目の端にひざま芹沢を見てとっさにそう思った。十名ちかくの「みぶろ」が束になってかかっても、たった三人の男たちに敵わなかった。
武市半平太。
岡田以蔵。
そして
板野新二郎。
芹沢とおれたちは、結果的に土佐の武市半平太という男を見くびっていた。まんまとやつによって「天誅」にかけられようとしていた。殺されるんだ――おれは観念した。
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