第32話 宵闇の真犯人

 襲撃者は、全部で5人。うち三人は喜十郎に斬り伏せられ、ひとりは坂本の銃撃で死亡した。残るひとりが絵都の打ち倒した男で、喜十郎が息を吹き返したその男から、この襲撃を指揮した首謀者の名を聞き出そうとしたが無駄だった。


 男たちは、街の賭場にたむろする仲間同士だったが、お互いの顔と通り名以外の素性については、なにも知らなかった。このも、「うまい話がある」と、に負けたあと、賭場でくすぶっているときに持ちかけられたのだという。


「そいつはだれだ」

「知らない」

「知らないはずがあるか!」

「ほんとに知らないんだ! 賭場では初めてみる顔で……」


 ほとんどを打つこともなく、懐手に賭場を見回しているような男だったという。痩せぎすで背が高く、金は持っていた。の張り方に、長く賭場で遊び慣れた凄みを感じ取れた。だからこそ、男たちは信用したのだ。


「――だ」

「なに」

「あれは、江戸か上方の遊びを知ってるやつだ」


 それ以上は、なにも分からなかった。


 喜十郎と絵都は、襲撃者を引き渡すべく小者を長崎奉行所へ走らせた。


「わしは行く。奉行所とかいう名を聞くと尻のあたりがむず痒くなる」


 それまで泰然として様子を眺めていた坂本だったが、長崎奉行所と聞くと急にそんそわと落ち着かなくなった。


「坂本さん?」

「絵都さん、板野さんも元気で。縁があれば、またどこかで!」


 そういうと坂本龍馬さかもとりょうまは、現れたときと同じく、あっという間に絵都たちのふたりの視界から消えていった。


「坂本さんって何者なんでしょう」

「さあ……」


 

 尚姫なおひめ桜野さくらのに託してさきに藩屋敷へ戻らせ、形式だけの取調べを長崎奉行所で受けた絵都と喜十郎が、長崎の街へ出たのは、通りの行燈に火が入れられようかという時刻だった。午後の騒動で刀を振るった腕は痛み、足は重かったが、濃紺の空を背景にぼんやりと浮かび上がる長崎の街は幻想的で美しく、身体を覆っていた疲れが溶けてゆくようだった。


「少し歩きますか」


 喜十郎も同じ気分だったとらしく、ふたりは連れ立って夜の街を港へ向かった。


「これは……」

「きれいですね」


 夕闇が訪れようとする港は、この日さいごのにぎわいを見せていた。明かりを掲げて荷下ろしをする水夫、せわしなく行き交う荷駄の車、立ち並ぶ辻行燈、沖合に停泊する外国商船に灯るランプの光。たくさんの光が水面に反射してきらめいて、ふたりが良く知っている長崎港ではないどこかのようだった。なかでも、外国商船の帆柱マストや船縁にいくつも灯されたランプの明かりは、絵都の心を奪った。


 ――なんと美しいのでしょう。


 尚姫の命を狙う輩は、開国に反対して攘夷を唱える者だという。絵都も、心の内では外国人を恐ろしいものだと思わなくとない。しかし、外国商船の見せてくれるこの光景の美しさからは、まがまがしいを感じない。


 ――要は、わたしたちの受けとめ方しだいなのではないかしら。


 人のうずくまる気配に振り向くと、喜十郎が膝を着いてうなだれていた。


「喜十郎どの?」


 見ると小刻みに身体を震わせている。あわてて背中に触れると、腰のあたりがじっとりと濡れている。刀傷から滲み出した血だった。

 なにも言わず気丈に振る舞ってきた喜十郎だが、3人のならず者を相手の斬り合いに、無傷ではいられなかったのだ。痛みを堪えている喜十郎に港へ行こうなどと無理強いしてしまった。絵都は、じぶんのうかつさに歯噛みする思いだった。


「大丈夫です」

「でも、血が出ているではありませんか」

「平気です」


 立ちあがろうとした喜十郎がよろめくのを、傍から支えた。喜十郎の匂いが絵都を包み込む。その身体は冷たかった。傷は喜十郎が思っているより深いのかもしれない。深く喜十郎の背に手をまわした。


「帰りましょう」


 港に背を向け、山手への道を一歩踏み出したそのときだった。肩に感じる喜十郎の身体がこわばった。


「――上」

「え」


 夕闇の濃くなりつつある道には、外国商船から降ろされた積荷を運ぶ荷駄と人足が行き交い、活気と喧騒が満ちていた。その流れの向こう側から背の高い武士がこちらを見ていた。日が落ちたのに編笠を目深に被っている。


「おどろいたな。こんなところで会うのがだったとは」


 その低いがよく通る声を聞いた途端、絵都の頭の芯がじんと痺れた。

 この声は……。


 ――背の高い、江戸か上方にいた男。


 そうか、そうだったのか。

 編笠の武士は背が高く、肉が鋭く削ぎ落とされたかのように痩せていた。


 攘夷思想に感化されて江戸から出奔。

 家禄返上。

 京都から行方不明に。

 奇妙公の豹変と京の不貞浪士との繋がり。

 藩の内情に詳しい過激派……。


 絵都の頭のなかで、いくつもの事実が音を立ててつながってゆき、ひとつの結論が導き出された。

 あの人が――帰ってきた。


「兄上」

新二郎しんじろう――どの」


 斎道場の高弟として、青海藩校の俊才として江戸在勤を命じられながら脱藩、京都に走った攘夷の志士。板野家当主の座を打ち捨てて、家禄返上の憂き目に合わせた張本人。がいま、絵都と喜十郎の前に立っていた。


。……おれのすべてを、おれからすべてを奪おうというのか、喜十郎?」

「誤解だ――兄上」


 喜十郎に話しかけるようでいながら、板野新二郎の視線はずっと絵都に注がれていた。不穏で粘りつくようなその視線を絵都もずっと感じていた。

 そんな目で見ないで。


「おれは帰ってきた。もうお前の思いどおりにはさせない」

 

 板野新二郎は誤解している。

 そうだろうか。誤解? いったいなにを?

 のどが張り付いてしまったかのようで、絵都は声が出ない。たしかに彼は失った。板野の家督も、藩の俊才としての名誉も、輝かしい将来も。板野新二郎の手には戻らない。それらは、ほんとうだ。


「すべて、おれの手に取り戻してみせる。だ」


 だ。新二郎の目はそう言っている。

 この人は嵐だ。

 かつても、いまも、そしてこれからも。


「兄上!」

「いけません」


 刀の柄にかけた喜十郎の手を抑えた。強く抑えた。

 この人には敵わない。

 今度は、この人がすべてをわたしから奪い去ってしまうかもしれない。


 新二郎は笑った。声もなく。不敵に。


 ゆらりと板野新二郎の影が揺れたかと思うと、そのまま道をゆく人ごみのなかへ溶けるように消え去った。すっかりあたりは暗くなっていた。その立っていた場所には辻行燈がひとつ。行き交う人や馬の長い影を道に落としはじめていた。

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