第22話 敵は北辰一刀流
江戸は本郷、赤城藩
武芸好きの赤城藩主が、幕府の許可を得て行う上覧試合で、江戸の剣士のあいだでは、身分にとらわれず、道場主の推薦さえあればだれでも参加できる試合として話題となった。
兵庫は通っている道場の推薦を得て、出場が決まっていた。対戦相手もすでに決まっている。
――玄武館道場、
中西派一刀流を学んだ千葉は、その後自身の工夫を加えて「
――臆したか、兵庫。
――なんの一介の剣客ふぜいに。
ここ数日、兵庫はこの風呂屋の二階でこの自問自答をずっと続けている。意識はただひとつ、「勝てるか」「勝つならどうやって」と。しかし、試合のことを考えると、思いが千々に乱れて収まりがつかなくなり、めぐり巡ってふりだしの問いに、――「勝てるか」という問いに、戻ってしまうのだった。
この問いがふりだしであるならば、あがりとなる答えがあってよさそうなものだが、そこへ至る道は、容易には見つかりそうもなかった。
兵庫が見ている間に、また桜の花弁が部屋に舞い込んできて、今度はふわりと広げたすごろくの上に落ちた。落ちたのはあがりのマスだ。
そこは塚原卜伝のマスだった。
塚原卜伝は、居合術の創始者、
卜伝も一流の開祖である。称して新当流。
新進の北辰一刀流とは比べるべくもない古流のひとつだが、斎家累代の剣術流儀でもある。兵庫は、時と場所を超えた塚原卜伝の弟子といってもいいかもしれない。
――おれに
玄武館の千葉など恐れはしなかったものを、とも思う。
一之太刀とは、講談師の語りで有名になった、卜伝が体得したといわれる新当流の奥義だ。
先年、師である父から免許を受けた際に、家に伝わるの秘伝書も受け継いだ。そこに一之太刀に関する記述がなかったため尋ねたが、そのとき父は、「そんなものはない。わが家には伝わっておらぬ」と笑って言ったものだ。
講談師によるつくり話か。それとも、長いあいだ人づてに伝わるうちに、その奥義は失われてしまったのだろうか。江戸にならその答えがあるかもしれぬと、いくつもの新当流の道場を訪ねたが、同じ新当流の看板を掲げるだけで、その刀法は互いに似ても似つかぬものばかり、一之太刀につながる手がかりすらつかめなかった。
――そんなものはないのかもしれぬ。
そのとき、また一枚の花弁が兵庫の目の前を横切って、すごろくの上に舞い落ちた。
ふたたびあがりに落ちたのだが、先ほどと今と二枚落ちたはずのそのマスに、どう見ても桜の花弁は一枚しかない。不審に思ってその花弁を指でつまむと、途端にはらりと二枚に分かれた。一枚の花弁と見えたものは、じつは二枚がひとつに重なり合って一枚に見えていたのだ。
雷に打たれたような震えが全身に走って、兵庫は立ち上がった。
――そうなのか!
ひとつに見えてふたつある――。
一之太刀の極意をみた。
一之太刀はひとつの奥義と思えるが、じっさいは複数ある。いや無限にある。
それぞれの気力、体力、技量に応じた、その者にとって唯一無二の太刀さばき、それを指して卜伝は「ひとつのたち」といったのに違いない。秘伝書に記載されていないのは当然だ。一之太刀の刀法は、人それぞれに異なるはずのものだからだ。
「そんなものはない」と父はいったが、まさにそのとおりだ。
一之太刀は、それを見つけた者の内にしかない。人に教えようとして教えられるものではないのだ。
胸の中の霧が晴れていくような心持ちだった。
どんどんどん。
午後の静寂を踏み破って、階段を風呂屋の二階に駆け上がってきた者がいた。
「見つけたぞ、兵庫! こんなところにいたか」
「彦右衛門か」
「彦右衛門かじゃない! これまで五軒も風呂屋を探してきたんだぞ。早く支度しろ、他流試合はもうはじまってるんだ!」
急にやってきてまくしたてるのは、藩の同輩、橘彦右衛門だった。
赤城藩上屋敷での試合は、もうはじまっており、数試合後には兵庫の出番が回ってくるらしい。
「なにこざっぱりとした顔をしてるんだ。急がないと、間に合わないぞ!」
「支度を済ませて駆けていけば、すぐそこだ」
彦右衛門とは対照的に、兵庫は泰然としてあわてない。
「藩公もおでましになるんだぞ。……ああ、間に合わない!」
「ちがうぞ、彦右衛門」
「え」
「間に合った。ぎりぎり間に合ってくれた」
心の迷いはなくなっていた。
不得要領な表情の彦右衛門を逆にせっつきながら、兵庫は風呂屋から駆け出していった。
濠端に立つ桜の花がいままさに満開である――。
☆☆☆
戸棚の奥を整理していると古いすごろくを見つけたので、兄の兵庫にたずねるとこんな話をしてくれた。
「千葉周作というと、あの有名な?」
「うむ、先年亡くなったそうだ」
兄が若いころ、江戸に遊学していたことすら知らなかった。いまをときめく北辰一刀流の千葉周作と剣を交えたということも、もちろん初耳だった。もっとも、その頃、絵都は物心つく前の子どもだったので無理はないが。
「試合。勝ったのですか」
「……」
「負けたのですか?」
「そのようにあけすけに訊くものではない」
それきり兄は、そのことには答えず、道場の稽古をのぞきにいってしまった。
「つまらない」
絵都が外を眺めると、斎道場の中庭に、先日から咲きはじめた桜の花が、いままさに満開になろうとしている。兄がわざわざ江戸から取り寄せた桜である。南国である青海の春は、江戸よりも早い――。
[一之太刀篇 終]
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