第14話「なんだとはご挨拶だな」

 ちょうどのその頃、中庭を挟んでちょうど道場の真向かいに位置する斎家の屋敷を壮年の武士が訪ねていた。


「橘さま。ようこそいらっしゃいました」


 玄関に迎えたのは、先年亡くなった斎兵庫いつきひょうごの妻に代わり、この家を守っている兵庫の年の離れた妹、絵都えと。来客は青海あおみ藩筆頭家老、橘厳慎たちばなげんしんだった。


「やあ、絵都どの。兵庫はいないのか」


 筆頭家老とはいえ、橘は彦右衛門ひこえもんと名乗っていた若い頃に斎道場の三傑と呼ばれた剣士であり、斎家の当主、兵庫とは同門で切磋琢磨した親友同士。斎家を訪ねるときは、格式張らずいつもふらりとやってくる。数年で婚家を離縁されて出戻ってきた絵都とは、赤子のときから自身の妹のように気をおかず付き合ってきた間柄だ。


「兄はいま、隼人はやとと共にお城へ上がっております。昼には戻ると申しておりましたが」

「そうか」


 時刻は正午の鐘を聞いて少したつ。


「待たせてもらおう」


 勝手知ったる他人の家。捨ておいてくれと橘は案内も乞わず、ずんずんと奥へ進み座敷へ入ると足を崩した。


 橘が勝手に火鉢の火を起こしていると、絵都が湯気のたつお茶を持って座敷へ入ってきた。


「これはありがたい」


 ひょうげた調子でおしいただくと、うまそうに一口飲んだ。


「このような寒い日に、登城とはご苦労なことだ」

「今年いっぱいで、兄はお役目から退きますので、ご重役様への挨拶も兼ね、隼人を連れてと」


 斎兵庫は今年限りで剣術指南役の職を辞し、自身は隠居、家督は息子の隼人に継がせるとを藩に届け出ていた。


「重ね重ねご苦労なことだ」


 心なしか橘の声が皮肉っぽく聞こえる。

 捨ておけと言われたものの、橘は藩の筆頭家老である。まさかひとり座敷に放っておくわけにもいかないので、絵都が話し相手を勤めるのだが、どうしてか、中庭ごしに聴こえてくる竹刀の響きに心ここに在らずといった風情である。


「絵都どの、失礼だが、少し道場をのぞかせてもらえないか」

「でしたら、だれか若いものを呼びにやります」

「いいんだ、いいんだ」


 道場の外から覗かせてもらえれば十分なのだと橘は腰軽く立つと、座敷を道場の方へ出ていった。

 道場に近づくに従って竹刀の音が大きくなり、床板を踏み鳴らす音、掛け声がきこえてくる。


 なかでは防具に身を固めた二人の剣士が竹刀を交わしていた。ひとりは長身の剣士。竹刀を高く掲げた上段の構えからは火を吹かんとばかりの気迫を感じる。もうひとりは、相手と対照的に小柄な剣士。背を屈め、腕を縮めて竹刀を構える姿は、勇ましいとは言い難い。


 一方的に長身の剣士が攻め立てている。上段から繰り出される打突だとつはすさまじく、みるみる相手を道場の隅へと追い詰めていく。追い込まれた小柄な剣士は、その剣先をかわすだけで精一杯だ。


 引き込まれるようにして、橘はふたりの立ち会いを見つめている。

 よく打突の嵐をしのいでいたが、最後には面を一撃されて、小柄な剣士は膝をついた。勝った長身の剣士が声を張り上げた。


「まだだ、板野さん! 次は大村が相手をする」

「祐馬。おれは板野さんとやるなどと言ってないぞ」

「いいから、圭介! 板野さんはやる気十分だぞ」


 大村圭介が見ると、篠崎祐馬が肩で大きく息をしている小柄な剣士――板野喜十郎を引っ立てるように立たせると、道場の中央へ突き飛ばした。


「はじめ!」


 時をおかずに次の稽古がはじまった。

 戸惑っていた大村だったが、いったん竹刀を握ると迷いは吹き飛び、小さな体からは気迫がほとばしる。青眼ぜいがんの構えからの正攻法は、踏み込み鋭く、太刀行きも早い。みるみる板野喜十郎は、攻め立てられて道場の隅に追い込まれた。あとは、篠崎と立ち会ったときと同じだった。しばらくはしのいでいたが、最後には面を決められて勝負が決まった。


「それまで」

「彦右衛門」


 検分役がふたりの立ち合いを止めるのと、密かにその立ち合いを見守っていた橘が背後から声をかけられたのが、同時になった。はっとして振り返ると立っていたのは、道場の主人、斎兵庫だった。


「なんだ、兵庫か」

「あるじの留守中、勝手に人の屋敷へ上がり込んだ挙句。声をかけた主人に、なんだとはご挨拶あいさつだな」


 青海藩の剣術指南役は、不機嫌な声で門人を呼びつけ、「板野には二度と道場の敷居をまたぐなと言っておけ」と申し渡すと、仏頂面のまま筆頭家老を座敷へ案内した。

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