第11話
昨日の夜から降り始めた雨は昼には上がり、日差しが戻ってきた。
久しぶりに街中へ買い物に出たのは、その日差しに誘われたわけでもなかったが、雑踏の中を歩いているとむしろ心が落ち着いた。
昨日の夕方、訪れた須藤に説得された母は、思いのほか簡単に折れた。
須藤の説明に説得力があったこと、愛凪が真剣に心配していることを改めて思い知ったことが理由だが、愛凪にしてみればなんだか肩透かしだった。
あれだけ周りにバレないように気を使っていたのが、虚しくも思えた。
ぎこちない空気のまま朝を迎え、警察署へ向かった。前日から須藤が連絡を入れておいてくれたので、すでに警察に情報は回っていた。
事情を説明する際に、アイロウの職員が同席してくれたのも須藤の計らいだ。おかげで警察とアイロウ、それぞれに事情を説明する手間が省けた。
警察署を出ると、なんだか脱力感を感じた。これで、出来ることはやり尽くした、自分の中ではそう思っていた。
母と会話するのが気づまりで、そのまま、買い物に出たのだった。
たまには遊びに出るもんだな、と愛凪は久しぶりに気分が上がっていた。
そろそろコートが欲しいな、と駅前のファッションビルをぶらぶらしていると、思いがけず中学校時代に仲良くしていた友人に会ったのだ。
彼女の方も愛凪のことを気にかけていたらしい。
たまに、メッセージのやり取りはしていたのだが、やはり直接会って話すのは楽しかった。
気づけば、6時を回っていて、お互いに驚いた。友人の方は親と約束があるというし、愛凪も、少し気まずいとはいえ、夕飯は母と一緒に食べるように帰ろうと思っていた。
また、近いうちに会おうと約束して、愛凪は急ぎ足で地下鉄へ向かった。
道すがら、
(でも、仕事の話とかになったら嘘つき通さなきゃならないんだな…)
そう考えると、ちょっと寂しい気分になった。
愛凪を地元で働かせるにあたって、友人や知人の多い場所で、シーカーの能力や仕事内容を極秘にするのは難しいのでは、とアイロウの上層部では反対意見が結構あったと聞く。
こういうことか、と今更ながら実感した。
信号で立ち止まり、そんなことに思いを馳せていると、不意に横から声をかけられて、思わず飛び上がった。
「サイトウ?」
反応したのは名字よりも、その声に対してだった。
「桜木さん!なんで…」
「は?休みの日なんだから、どこにいたっていいだろ」
相変わらずの上から目線。小馬鹿にした口調にカチンとくる。
「どっか行くのか?」
「いえ、帰るところです。久しぶりに友達と会ってたんで」
私がどこ行こうがそれこそ、どうでもいいでしょう、と思いながら答えた。
「桜木さんは、これからデートですか?」
「いや、デートが終わって帰るところ」
あっさりとそう答えるところが、なんだかかえって嫌味を感じる。
そして、
(え…地下鉄、一緒…?)
隼也の家が地下鉄で同じ方向のことは知っている。このまま、一緒に歩いて、同じ地下鉄に乗るのはなんとも気づまりだった。
隼也の方だって、別に自分と話したいわけはないだろう。
特にかわす言葉もないまま、信号を渡り、駅の方へ曲がる。
ふと、路地から曲がってきた男女の2人連れと出くわして、4人とも半歩飛び退いてしまった。
「え…」
「あ…」
「お、凪ちゃん!」
愛凪だけが声も出せず、息を飲んだ。
突然現れたのが水沢凪だったこと、よりによって同僚の桜木隼也といっしょの時に会ってしまったこと、そしてなによりも、凪と連れ立っている青年の背中にー
「ウィンガー!」
だが、青年は愛凪が思わず叫んだ時には、すでに背中を向けて猛ダッシュしていた。
だが、愛凪の声に反応した隼也の反応も見事だ。ほぼ反射的、といってもいい速さで青年を追いかけ始める。
気がついたら、愛凪も2人を追っていた。凪が後ろから何か叫んでいたが、耳に入らない。
肩まで伸びた髪を一つに束ねた、黒いライダージャケットの後ろ姿は人ごみの中でも結構目立つ。
だが、そのスピードに、愛凪は早々に脱落した。
隼也は流石に鍛えているだけあって、負けじと追いかける。
気がつけば、何事かと周囲の人々がざわつきながら、こちらを見ていた。
慌てて、平静を装いつつも、隠しきれない荒い息を道路脇で整える。やがて、あからさまに口惜しそうな表情の隼也が、やはりかなり息を切らせながら、戻ってきた。
「くそっ」
聞かなくても、相手を見失なったことはわかる。
隼也は、愛凪の方は一瞥もせずに、足早に凪たちと出くわした場所へ戻った。
どうしたらいいのか、すっかり困惑した顔の凪が、元の場所で立ち尽くしていた。
「凪ちゃん、さっきのやつ、誰?」
事情も説明しないまま、有無を言わさない口調で隼也が聞くと、凪はたじろいだ。
当たり前だ。隼也と愛凪を交互に見比べながら、言葉に詰まる。
「大事なことなんだ。後でいろいろ説明するから!」
隼也の言い方だと、説明する気はないように感じられる。
もう少し優しく話してもいいのに、と愛凪は思ったが、口を挟める雰囲気ではない。
「あの…ウィンガーって…」
素早く周囲に視線を走らせてから、凪が囁くような声を出す。
「ああ、あいつ、隠れ天使だ。だから、教えてくれ」
「え…でも、なんで隠れって…登録されてるかも…」
隼也はため息をついた。
「登録はされてない。だから、逃げたんだ」
低い声で、だがはっきりと隼也が告げると、凪の大きな目はパッと見開かれた。
「桜木さんの会社って…そういう仕事してるんですか?」
隼也がぎくりとしたのが、愛凪にも分かった。当然といえば、当然のツッコミだ。
だが、隼也が言い淀んだのを見ると、凪はむしろ仕方なさそうに口を開いた。
「ナオさん…え、と…タテヤマ…ナオさんです。鮮昧の上にあるバーのバーテンさんで、これからお店に行くところでした」
隼也は大きく息を吸って頷いた。すっかり仕事モードの顔だ。
「サイトウ、お前そのバーに行って、事情説明しておけ。名刺、持ってきてるな?オレも須藤さんに連絡したらすぐ行く」
もちろん、家に帰れる状況ではなかった。
動揺したまま、無言で凪と歩き始める。
このままだと、凪に自分の仕事のことも言わなければならないかもしれない。仕方ないとはいえ、嘘をついていたのは心苦しい。
今の状況で、どこまで話していいのかも愛凪には判断しかねて、ますます黙り込むしかなかった。
「お店、あたしも行って話そうか?マスターと顔見知りだし」
鮮昧の近くまでくると、凪が振り返ってそう言った。
「あ…はい。助かります。あの…」
いきなり知らない店に行って、事情を説明しておけと言われても、どう話したらいいのかもわからない。凪の申し出はありがたかった。
「すいません、なんか急に変なことに巻き込んで」
「ううん、大丈夫。ちょっとびっくりしたけど。急にウィンガーなんて言うから…」
「あはは…そう、ですよね…」
明らかに引き立った、不自然な笑顔を作ってしまった愛凪に、凪はそれ以上質問はしてこなかった。
「あ、それで、あの…お兄ちゃんの方は、警察とアイロウに届け出ました。すいません、ご心配かけて」
海人の話をするのは、隼也がいない今のうちだ、と気付いて愛菜は慌てて言った。
「そっか…うん、こう言ってはなんだけど、それでいいと思う。そういえば、この間、会ったことって、言わない方がいいんだよね?」
愛凪は思わず立ち止まって、考え込んだ。
「すいません、あの、多分、上司の人がこれから来ると思うんですけど…私、その人にお兄ちゃんのこと相談して、それで、アイロウに届け出ることにしたんです。その時、すいません、水沢さんの名前も出してしまって…あ、あと、実は真壁さんにも会ったんです」
「あ、真壁くん、会えたんだ」
微笑む凪の声に、懐かしそうな響きがこもった。
「あ、はい。で、それで…すいません、この間、水沢さん達に会ったこと、言ってしまってもいいですか?なんか、隠してると、その…」
「その方がいいかもね」
うまく言葉が出てこない愛凪に、凪はあっさりとそう言った。
「早めに言っちゃった方が後々、面倒なことにならなくてすみそうだし。あたしもなんか、知らないフリし続けるの自信ないし」
苦笑する凪に愛凪は頭を下げた。
「ホント、すいません!なんか、いろいろ巻き込んでしまって。今回の…さっきのウィンガーの人のことでも…いろいろ聞かれると思うですけど、もしかしたら、お兄ちゃんのこともまた、上司の人に話聞かれるかもしれないし…」
「いえ、そんな謝らなくていいですよ。でも、ウィンガー捕まえたりする仕事してるとは…」
「捕まえるんじゃありません、保護です」
反射的に須藤がいつも言うことを口にしてしまった。凪は大きな目を見開いて、
「保護、そっか、なるほど…」
むしろ納得したように頷いている。
「ナオさん、逃げなくてよかったのに…」
凪の呟きを聞きながら、愛凪はふと、先程の状況を思い出した。
出くわした瞬間、愛凪の目に一番に飛び込んできたのが、ナオの背中の蜃気楼のような影だ。目が合った相手は、すでに動揺していた。自分が『ウィンガー』と口にした時にはーーもう、彼は背中を見せて走り出していた…
顔を合わせた瞬間に、自分がウィンガーであることを知られた、と思ったが故の反応としか思えない。
(なんで、バレたって、分かったの…?)
その少し前。
本郷宙彦は鮮昧や問題のバーのあるビルの屋上へ出る扉を開けていた。
屋上とはいえ、貯水タンクとエアコンの室外機に埋められた空間は、周りのビルに遮られ、見晴らしも悪いし空気も淀んでいる。
年季の入ったビルらしく、貯水タンクも室外機も煤け、どことなく、脂ぎった臭いがした。
室外機の低く唸るような音に、街のざわめきが混ざって聞こえる。
赤紫色の空を見上げて、本郷はため息をついた。
ここから見上げる空は、晴れでも雨でも大抵同じ色だ。変わりばえしないとも、普遍的ともいえる。
ぐるりと周りを見回してから、本郷は、もう一度空を見上げた。
手にしていたノートパソコンをバッグに入れ、しっかり小脇にかかえる。
次の瞬間、なんの前触れもなく、その背中に、純白の翼が現れた。
滑らかな線を描く、その先端は本郷の足元の地面まで届いている。広げれば、優に両腕の幅を超えるだろう。
くたびれ、くすんだこの空間で、その翼だけが白く、他の色も汚れも拒むような、圧倒的な存在感を放っていた。
「この間、飛ぶ練習しておいてよかったわ」
呟いた本郷の体が、吸い上げられるように、宙に浮かぶ。
背中の白い輝きは、羽ばたくような動きは見せず、むしろ空気抵抗を減らすように、体の線に沿ってスマートなラインを描き出した。
音もなく上昇する本郷の体は易々と隣の7階建のビルを越え、更に隣のビルの外階段へと降り立った。
素早く辺りを見回し、人気がないのを確認すると、更にその裏のビルの外階段へと飛び移る。
平然と階段を下り始めた彼の背中には、もう翼は跡形もなかった。
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