気管支とクラッカー

 朝の五時、目覚まし時計がなる一時間前。もう一度目を瞑ってしまうと寝過ごしてしまいそうだ。私は観念して起きることを決意した。

 膝に乗っている布団が私を温く柔く拘束する。それを無理やり引き剥がしてベッドから脱出を試みる。

 いま、全身を支えている右腕がクラッカーみたいに割れてしまえば休めるのに。と思う。

 リビングへ続く階段を降りる。ママはまだ起きてきていない。少しの物音じゃ起きない人だから私は構わず朝食の用意を始めた。

 お米を研いで炊飯器のスイッチを、トースターにパンを二切れ押し込んでつまみを回す。焼いてる間に冷蔵庫からヨーグルトを出した。

 パンを一切れとヨーグルトを完食する。もう一切れのパンはママに、ご飯はお弁当用に。

 用意を済ませたら六時半、お弁当片手に家を飛び出した。ママは結局起きてこなくて、冷めきったトーストが寂しそうにお皿の上に座っていた。心がチリッとする。お皿を投げなくて良かった。

 代わり映えのしないいつも通りの道をだいたい同じ歩数で歩いていく。安心感と同時に焦りがおはよう。

 朝のホームルームよりだいぶ早くに着くと、教室には二、三人くらいしか居ない。静かだ。

 五分前。ぞろぞろと校門から昇降口にかけて生徒が列をなす。二階から眺めていると、蟻の行列のように見える。この時の優越のような気持ちが好き。けど、もうすぐこの空間が消え去ることが確定してしまうジレンマを抱えている。ほら、もうクラスメイトがやって来た。

 授業が始まる。退屈でしょうがないけど、面倒なことを何も考えなくていいから気持ちは楽かも。けどどちらかと言うと休み時間の方が好きで、人と他愛ない話をしていると安心する。

 ただ、人の悪口の話は好きじゃなくて、そういう時はちょっとはぐらかしたりしてる。

 最近ターゲットにされてる子、友達は不細工だって言うけど、私は別にそうは思わない。けど、そんなことを口にしてしまったら今度は私が言われてしまうかもしれない。だからとりあえず言っておく。「それな」。まだセーフだって自分に折り合いをつけながら。

 意義のない時間がすぎていくことに耐えている。

 友達と触れ合っていると、日に日にブルブルした嘘の残りカスが丹田の辺に溜まって、月一回苦痛を伴って代償を払わされる。お前はこれだけ人間を騙したんだと言わんばかりに私を襲う。

 なんで私は私として生まれたのか。なんで私はこんな罰を受けなければならないのか。この仕打ちにどれだけ怒りを、憎しみを燃え上がらせようと、痛みと気の滅入るような気だるさが上書きして数秒後には思い出せない。次はいつやってくるのだろう。

 ハァァァーーーー。……一週間後に予約された悪夢を想像して気持ちが悪い。だけど来ないなら来ないでまた、得体の知れない渦みたいな真暗の不安感に襲われる。悪趣味。

 友達に顔色悪いよって言われたけど大丈夫って返しておいた。またひとつ嘘が溜まる。

 早く家に帰りたくてしょうがなかった。帰ってから衝動が抑えられる気がしなかった。まずい、口角が勝手に上がってしまう。

 彼に、今日彼に会うんだ。改めてそのことを考えただけで、背中に羽が生えたみたいに体が軽くなった。

 玄関ドアをゆっくり開いた。ママの靴が一つ消えている。私はほっと胸を撫で下ろした。

 ダイニングテーブルのお皿はトーストだけがいなくなっていた。洗ってくれてもいいのに、期待はしていなかったけれど少し残念。お弁当と一緒にシンクへ投げ込んだ。

  自分の部屋に入るだけなのに、勝手に心臓がドキドキしてしまう。火照ってないか何度もほっぺたを触ってしまう。

 解錠してドアノブを捻った。カチャっと軽い音がしてドアが開く。朝日の消えた部屋は薄暗い。それが妙に背徳感を煽った。私は胸を弾ませながら押し入れの前に立った。

 こんこんこん、開けるね。声をかけてから私は戸を引いた。そこには綺麗な姿勢で体育座りをする“彼”がいた。彼とは言っても性別はない。彼は人体模型の王子様なのだ。

 私より軽い彼をお姫様抱っこの要領で抱え、押入れから出してあげた。姿勢を整えて椅子に座らせてあげる。綺麗だなぁって、うっとりと彼を眺める時間が好き。

 頬に触れると冷たくて無機質。人の身体を模してるくせに。だけどその分、彼には表も裏もない、まっさらなただそこにいるだけの存在。私は彼の包容力に侵されていた。

 ひとしきり鑑賞を終えて、いよいよ彼の着ているシャツのボタンを丁寧に一個づつ外す。身体の、胸の疼きが止まらない。骨盤の辺りがびりびり痺れて砕けてしまいそう。けど私は、私を焦らすようにゆっくりと、慎重にボタンを外していった。

 全て外し終えると彼の胴体が顕になった。鎖骨の辺りから下は皮膚がなくて、骨と内臓がむき出しになっている。私はゴム手袋を嵌めて体内の物色を始めた。

 筋肉の一個一個、骨の一本一本を退ける度、私の温度が彼に移っていく。どんどん外見が人間からかけ離れていくのにも関わらず、温かみを帯びていく。不思議だ。

 肋骨を全てどかすのは大変だったけど、内臓を一望したときの達成感が全てを吹き飛ばしてくれた。喉から腸まで全部が私の眼前で大人しく待っている。その中から私は気管支に手を伸ばした。

 本当に彼が人だったなら死んじゃうんだろうなと少し申し訳なさも感じながら彼の気管支を引きちぎった。プラスチックの喉は固くて細い。つうっと撫でると、でこぼこしていて愛らしい。これが身体を支えてるなんて笑える。私はそれを両手で持って頭の上に掲げた。

 勢いよく振り下ろすと心臓の真ん中にちゃんと突き刺さった。ガシュ、と音がして周囲に小さな亀裂が走る。もう一度、気管支を掲げて、ガシュ。今度は大きくひびが入った。

 私は無心で彼の気管支で心臓を滅多刺しにして、彼の大腸を使って首を絞めた。その度に罪悪感が薫る。彼を痛めつける度に椅子はギシギシ軋み、私の幸福は昇天する。脳にショートケーキを塗りたくったような甘い狂気が理性を押し倒す。

 はァ、はァ。・・・・・・。私と彼しかいない世界に、獣のような荒い息遣いだけが響いてる。彼はまた壊れかかってしまった。ぐったりとして虚空を見つめている。

 私も倣って天井を見上げた。そうね、友達とかママとか学校とか社会とか世界とか未来とか過去とか今とか現実とか空想とか私とか他人とか心底どうでもいいわ。今この瞬間があるなら私はどんな地獄だって生きていける。私の天国。

 椅子から崩れ落ちそうな彼を私はそっと抱き寄せた。

 ごめんね。

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