第22話 桃花の宴


 星がひとつも浮かばない宵の空には、煌々こうこうと照る月がひとり寂しく浮かんでいる。

 今宵の宴には似合わない、とても冷たい月明かりの元、雪玲は心を落ち着かせるために深く息を吸い込み、吐き出した。そうすると春先の、まだ冬の気配を感じさせる清風せいふうが桃の花の香りを纏わせ、肺を満たす。その冷たさに身体の芯が凍えるような錯覚を覚えた。


(大丈夫です。いつも通りにすればいいだけ)


 己を叱咤しったするが緊張が解ける事はない。震える指先を隠すように、膝の上で拳を硬く握りしめて、失礼ではない程度に視線だけを彷徨わせて周囲を見渡した。

 崋煌城の裏には広大な土地を誇る禁苑きんえんが広がっている。

 禁苑とは所謂いわゆる、王の庭園である。他国では王が狩猟を楽しむために獣を飼育したり、四季を楽しむために存在するが瑞国では一面に桃の木が植えられていた。見たところ、他の植物は愚か獣一匹存在していない。まるで桃の為に作られ、手入れをされているような印象を与える。古代より桃は邪気を祓い、食した者に不老長寿を与える果実とされているがそれが関係しているのだろうか。


(それにしても匂いが……。我慢はできますけれど)


 宴席を囲むように等間隔に吊るされた灯篭とうろうあかりと、天上からの月明かりによって、花びらは濃く色付いており、気のせいか甘い香りも市場で出回っている物と比べてもとても強い。酒もまだ呑んでいないのにこの香りだけで酔いそうだ。

 どうやら妃嬪はこの香りに慣れているらしく、紅蓮の敷物の上で和気藹々わきあいあいとお喋りに興じていた。

 しかし、談笑しているのは上座に座る乾皇后と高淑儀のみである。李恵妃とさい婉儀えんぎは二人の会話に相づちを打つだけに留めているようだ。下座に腰を下ろしている下級妃——雪玲を含む、計五名は軽口は叩かず、背筋を伸ばして緊張が滲む面持ちで誰もいない正面を睨んでいた。

 雪玲は緊張から乾く喉をうるおそうと杯に手を伸ばそうとして、止めた。


(あまり、動かないほうがよさそうですね)


 喉は乾くが下級妃は誰も杯に手を伸ばしていない。後宮のしきたりは一通り珠音から教えてもらったが、こういう場には暗黙の了解というものがある。

 とりあえず、今は他の妃嬪の動向を観察しようと心に決めた。

 しばらくすると宴を彩るそうや笛の音が一段と大きく空気を震わした。弦が弾け、筒が震え、折り重なり曲を奏でる音色は風に拐われ空に高く吸い込まれていく。それと同時に端から順に宦官や女官が頭を垂れ、妃嬪も同じ動作をする。

 すかさず、雪玲も真似をして頭を下げると絹擦れとくつが玉砂利を踏みしめる音が聞こえた。それは一定の間隔で上座へと近ずいてきて、雪玲の前で止まった。


「やあ、今宵は素晴らしい花見日和だね」


 少女らしい、高めの声が降り注ぐ。


「春燕。顔を上げてくれ」

「御意に」


 雪玲が面を挙げると紅色の襦裙に身を包んだ彩妍が見下ろしていた。黒の面紗はいつも通りだが、黒衣ではない姿に雪玲は驚いた。それを緊張したと思ったのだろう、彩妍が笑みを濃くするのが分かった。


「君のために開いた。ぜひ、楽しんでくれ」

「あり難きお言葉痛み入ります」

「堅いぞ。いつものように砕けて会話をしてくれ」

「長公主様にそのような口をきいたと知られれば、瑞王様に首を落とされかねます」


 笑いながら首を左右に振る雪玲に、彩妍は呆れたように深く息を吐き出した。


「兄上ならやりかねないな。あの人は子供のような人だから」


 彩妍が嘆くように肩を落とすのを見て、雪玲は焦ったように口を開いた。


「すみません。言葉が過ぎました」


 雪玲が慌てて訂正するのを見て、彩妍はくつりと喉を鳴らした。そこで先ほどの言葉はただのたわむれだと気付く。遊ばれた、と羞恥から顔に熱が集まりつつあるのを自覚した。きっと今の自分の顔は真っ赤だろう。月明りと篝火で隠れていると思うが、近距離にいる彩妍にはきっと気づかれている。

 面を伏せると彩妍は「すまない」と謝罪の言葉を口にした。


「君の反応がやけに可愛くてね」

「冗談が過ぎます……」


 上擦った声に彩妍はふふと笑い声を漏らした。


「緊張しているな」

「このような大層な茶会に参加するのは初めてでして……」


 雪玲が恥ずかしげに俯く。


「折角できた友人だから嬉しくてな。初めての茶会というのもあって少々張り切り過ぎた」


 茶会にしては豪勢で、宴と称した方が正しい気がする。


「これ以上、皆を待たせるわけにはいかないな」


 彩妍は周囲を見渡した。妃嬪及び、文武百官は皆、頭を伏せた状態のまま固まっている。開催主であり、高位の王族である彩妍が許可するまで体勢は崩してはならないためだ。

 そんな中、雪玲の名を呼び、面を上げさせて会話をするというのは「彩妍じぶんと鳴美人は懇意にしている」ということを認知させる意味を持つ。


(こうして公にした方が私の安全につながるのでしょう)


 目立つ行動は避けたかったが——どこぞの誰かさんのせいで——入内直後から悪目立ちしているので諦めるしかない。


(下手人を見つける前に私が殺されそうですし)


 雪玲が諦めざる終えないほど、乾皇后の悋気りんきが酷いことはこの数日で痛いほどよく分かった。少しでも生存率を上げるため、目的を達成させるためにもできる限り、余計な揉め事は回避しなければ。


「春燕、後で談話の席を設けるから、ぜひ来てくれ」

「ええ、楽しみにしております」

「では、楽しんでくれ。今宵は無礼講だ」


 そう言い残すと彩妍は上座へと向かった。

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