毒姫後宮伝記

萩原なお

序章


 泰政たいせい歴元年、六月二十日。長く続いた梅雨も過ぎ去り、夏の熱気に包まれた瑞国ずいこくは平常とは打って変わり異様な雰囲気に包まれていた。いこいの場として計設された広場を中心に、数多くの国民が集い、何かを一心に見つめていたのだ。その群衆に共通点はなく、役人の姿もあれば商人の姿もあり、母の腕に抱かれた赤子もいれば、腰が曲がった老人もいる。


 ——否、一つだけ共通点があった。誰しもがその眼を好奇心に染め、を見つめていた。




 彼らの視線はぐるりと大きく円を描くように作られた竹檻の中にいる、やつれた初老の男の姿に注がれていた。

 男の名はとうしん。歳は四十半ば程だろうか。かつては精悍せいかんな顔立ちと思われたが蓄積された疲労と身に纏う襤褸ぼろほこりや土で汚れた白髪混じり髪のせいで実年齢より十ほど老いて見えた。

 董家といえば並ぶものなしと言われた名家である。董沈自身も名門という家名に相応しく二十六歳という若さで瑞王ずいおうから正一品にあたる太鳴たいめいじょされた男であり、打ち立てた業績は数知れず。誰よりも瑞国に貢献してきたであろうそんな男が宴席で瑞王に毒杯を飲ませたとしたとして五馬分屍ごばぶんし、いわゆる車裂きの刑を求刑されたのは人々の記憶に新しい。

 瑞王のかつての右腕である男が死ぬ様を一眼見ようとする人々の奇異の眼差しに董沈は気付かないようだ。生気を失った顔で、刑吏けいりの先導のまま広場の中央へ進んでいたが急に足を止めると顔を上げた。


「ふざけるなッ!!」


 董沈の口から発せられた怒声が空気を震わした。


「春州への清国の侵略を防ぎ、冬州を取り戻せたのは我らの毒があってこそ!! お前達、愚存の民では到底達することが出来ぬ偉業を成し遂げたというのに、この扱いはなんだ?!」


 続いて董沈は並ぶ軒車の中でも最も豪奢で真紅に塗られた軒車を見つけると、喉笛を食いちぎらんとする勢いで唇を持ち上げ、牙を見せる。


「愚鈍なる瑞王よ!」


 人々はその一言でその軒車の中にいる人物が誰であったかを知る。大半の視線が董沈から軒車へ移り変わった。


「我らの毒があったからこそ、このような小さき国が、強国の中で生き残れたのを忘れたのかッ!」


 慌てた刑吏がその口を閉ざそうと縄を引っ張るが董沈は体勢を崩す前に伸ばされた腕に思いっきり噛み付いた。

 噛まれた刑吏と野次馬の中から悲鳴があがり、端で控えていた刑吏達が長柄を手に駆け寄ってきた。


「我が毒は短期で薄れるような微弱なものではない!!」


 腕を噛まれた刑吏が苦しそうに腕を掻きむしり始める。瞬く間に顔色が土気色へと変わり、呼吸が乱れはじめ——数秒後、地面に伏した。指先一つ動かない様子に、刑吏の死を悟ったのだろう。何人かが気持ち悪そうに口元を押さえたり、早足でその場を離れていく。


「お前は我が一族、全員を捕らえたと思っているだろうがそれは違う!」


 口を血で汚してもなお董沈は叫ぶのをやめない。胸の内を晒さんとする勢いで言葉を重ねた。


「私には雪玲せつれいがいる! 我が娘こそ、一族きっての毒の名手である!!」


 悲鳴の嵐が巻き起こる中、真紅の軒車の窓が少し開き、そこから女のように白い手が伸ばされた。


「雪玲が必ずや我らの雪辱を果たしてくれることだろう! 我ら一族を侮辱したことを後悔す——」


 その先の言葉を聞きたくないとでもいいたげに手は下へと振り下ろされ、それを合図に董沈の首は刑吏によって切り落とされた。董沈の首は群衆の見守る中、断面から血を撒き散らしながら大地を転がった。





 董沈の亡骸はそれから一週間、広場で晒され続け、最後には野山へ打ち捨てられることとなった。

 当主を失った董家は土地と財を全て国に徴収され、その血を一滴でも汲みする者は全て梟首きょうしゅ刑に処されることとなり、その亡骸は董沈と同じく野山に捨てられた。

 没落したかつての名家に、人々は面白おかしく噂話を語り合った。特に人々が興味を示したのは董沈の死に際に吐き出された呪詛だ。


「董沈の愛娘である雪玲がいずれ瑞国を滅ぼすだろう」


 その噂は刑の執行を見守った者達の口伝で、親から子に、旅人から旅人へと広がり、八年の歳月が過ぎた頃には瑞国及び、周辺の国々には〝雪玲〟という名は復讐を企てる者——稀代の悪女の代名詞として広まることとなった。

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