甘味薬

作:恋猫なつき



 赤い光に包まれた道を一人で歩いていた。いつになく前に出す足は遅く、着替えや道具が入ったカバンは重く感じる。全身に抱えた見えない重りは日を重ねるごとに増していった。

 最近うまくいかないことばかりだ。監督からのプレッシャーが強すぎて試合中に下らないミスをした。自分のせいだと微塵も思っていない監督はねちねちと小言を吐いてくる。けれど野球自体は好きだし、やっとの思いで勝ち取ったレギュラーだった。結局、辞めてしまいたいが辞めたくないというよくわからない状況にある。親にも言われるのだ。部活なんて辞めて勉強に集中しろ、もう遊んでいられる年じゃない。周りの皆は部活を続けているのに、なぜ自分だけがそう言われるのかが分からなかった。もちろん自分の気持ちは伝えた。でも、勉強しろの一点張りだった。さらには彼女と別れろとまで言ってくる。勉強の邪魔になるだけだ、今すぐ別れなさい。これがきっかけで親とは話さなくなった。彼女は関係ないだろ。俺のことを理解していないくせに指図するんじゃねぇよ。ああ、イライラする。

こんなにイライラする時にはいつもあの喫茶店に行くのだ。今日もその道の途中である。不思議なことに、喫茶店で甘いスイーツを食べると気持ちが楽になるのだ。嫌なこと、悲しいこと、全部忘れて食べることに没頭するのだ。甘い香りが口の中に広がるとすべてがどうでもよくなるのだ。それに。

「おーい!はやくー!」

 彼女がいてくれる。自分のことを考えてくれる存在がいるだけで、どれだけ救われただろうか。彼女がいるのにしょぼくれた顔をするわけにはいかない。俺は明るい顔で彼女へ駆け寄った。足取りは軽かった。


 試合が近くなってから、部活での空気が変わってきた。監督のしつこさはいつになく増していた。自分も試合には出ることになっているが、これは俺が出たいと行ったから出るわけではない。正直、試合に出なくても部活で野球さえすることができればそれでよかったのだ。普段の練習の中でバットを握れさえすればそれでよかった。でもそういうわけにもいかなかった。部活のメンバーはこぞって笑顔で俺を試合に誘ってくるし、監督は半ば強制で俺を試合に出させるようにした。結局、俺は試合に参加することになった。そういうこともあって今日は早めに部活を切り上げた。少しでもあいつらの顔を見る時間を減らしたかった。作った笑顔で近づいてくる奴ほど気持ち悪いものはない。普段俺に対してこそこそしている奴らも、こういう時だけは寄ってくる。たまったもんじゃない。ああ、イライラする。早く家に帰るために、いつもより早足だった。


 家に帰ると親が話しかけてきた。

「今日は早いのね。相手の人とは別れたの?」

 うるさいな。話しかけるなよ。心の中で怒鳴りながら部屋に入る。重い荷物を乱暴に床へ叩きつけてベッドに倒れた。大きなため息が部屋に響く。

「……くそっ」

 ポッケから携帯を取り出して電話をかけた。かける相手なんて一人しかいない。何でもいいから声をかけてほしかった。そうしてくれないと。

 携帯のコールは鳴りやまなかった。

―――――――

 時計の針の音がやけに大きく聞こえる。カーテンから差し込んでいた赤色の光は消えていた。眠っていたらしい。携帯の着信履歴には何もなかった。もう一度かけてみたが、やはり出ない。むくりと起きて鏡を見た。そこには目元を赤くした情けない顔が写っていた。

「……あ」

 今日は喫茶店に行っていないことを思い出し、そそくさと準備をして家を出た。


 夜道を歩いているときは普段と違う街並みに少し驚いた。遅くても夕方までにしか歩かない道は全く違うものに思える。街頭には虫が群がっていて人通りは少ない。学生が今の時間に出歩いているとしたら、俺みたいなやつか女と一緒のやつくらいだ。人が少ないのはいつもの喫茶店も例外ではない。普段よく見かける、常連と思われる客達はあの時間帯にしかいないわけで、客席には知らない人が数人いる程度だった。店員も知らない人だ。だからといって特に自分の行動が変わるわけでもない。いつものように、外からは見えにくい席に座った。この席は中から外は見えるのだが、外から中を見ようとするとなぜだか見えにくいのだ。仕組みは分からないが、常連である自分が見つけた特別な席だと勝手に思い込んでいた。

 いつものように注文をし、変わらない味と見た目のスイーツに少し安心した。

「君、少しいいかい?」

 突然声をかけられ少し体が跳ねた。どうやら同じ様な席にもう一人客がいたらしい。

「ここは初めてかい?」

 大人の、五十歳前後だろうか。目の彫りが深く髭を生やした人だった。この場所の席が自分だけのものではなかったことに少しがっかりした。

「いえ、よく来ますけど……」

「ならいいんだ」

 知らない人に話しかけられて警戒しない人なんていないと思っているが、それをまったく気にしない人もいるのだとはじめて知った。

「私はここが初めてでね。いやなに、よく来るならいいんだ。誰にでもオープンなんだ私は」

 そう言って黒いカバンをごそごそと漁り始め、小袋を取り出し机に置いた。

「それを頼んだってことはこれだね」

 俺が頼んだスイーツを指さして男は笑った。

「いいね。いいね。気に入っているんだね。いいね」

 男はそのまま席を立ち上がり、去り際にこう言った。

「これからよろしくね」

 何が起こったのか分からないまま、男は店を出て行ってしまった。

「……」

 色々な疑念が残る中、男が置いて行った小袋に視線を落とす。その小袋は好奇心を掻き立てるのと同時に不安を与えた。そっと手を伸ばし、小さな紐の口を開ける。中にはビニールに入った「スイーツ」があった。全身の毛が逆立ち、半分も食べていないスイーツと袋を置いて店を出ようとした。しかし、俺の腕は店員につかまれた。

「お客様、お忘れものです」

 笑顔の店員の手には小袋があった。

店を出てから俺は固まった。が、数秒間の沈黙の後、俺は足を進めた。焦りと不安が全身を駆け巡っているせいか、妙な汗をかく。これは本当に「スイーツ」なのか。なんでこんなものが。あの店員は何なんだ。あの男は何なんだ。とにかく捨てよう。こんなもの、持っていても損をするだけだ。使ってなくてもややこしいことになるのは明白だ。どこか、どこかに。どこでもいい。どこか。でも、もう触ってしまった。指紋とかはどうなる。どこかに捨てて俺は安全になるのか。だめだ考えがまとまらない。自然と早歩きになっていたのか、顔を上げればすでに家についていた。結局、そのまま家に入り部屋に籠もって夜を過ごした。眠ることは出来なかった。


 日常は再開したように見えた。学校も変わりない。変わりなく授業を過ごし、部活を始めた。ただ一つの不安を抱えていなければ、日常だった。練習に集中できるはずもなく、ミスを連発した。おかげで部員からの目は冷たく、監督からは色々なことを言われ、ボール拾いをさせられるのだ。いらだちと不安が溜まってどうしようもなかった。それでも球拾いはちゃんとこなしていた。途中で帰っても良かったが、今は学校の方がまだ安心できる。

 球の数を数えるといくつか足りないことに気づいた。本来ボールが飛んでいくはずの場所はすべて確認したはずだ。おそらく誰かが明後日の方向に加減をしないで撃ったのだろう。ここぞとばかりにこういうことをしてくるのは、普段の嫉妬からだろうか。何にしろ、わざとには違いない。

人気のいない所にまで探しに来たが、別のものを見つけてしまった。たまにいるのだ。こういう場所で女といちゃついてる奴が。別に批判する気もないが正直辞めてほしい。何でこんな場所で――――――

「え」

 思わず声が漏れてしまった。その声が聞こえたのか、二人がこっちを向いた。一人は同じ部活の男子だった。もう一人は、彼女だった。

「なんで」

 動くことが出来なかった。彼女は何かを言おうとしていたが、男子が彼女の口を口で塞いでいた。数秒間の唖然が続いた。その後、男子と彼女は突っ立ってる俺の横を通り過ぎて行った。男子はこう言った。

「球拾いお疲れ様です」

 彼女はうつむいたまま通り過ぎた。


 あれから学校には行かなくなった。どうでもよくなってしまったんだ。親は学校に行けと言うがそれも最初だけで、何日か経つと言わなくなった。俺と話しているとよく顔をしかめるようになったのだ。真面目に話を聞けと言うが、真面目に聞いていないのはどっちなんだろうか。そんなに話したくないなら話さなくていいと言ってやった。でもすっきりとはしなかった。ベッドで横になっていると色々なことをいやでも思い出す。部活のこと、親のこと。もちろん彼女のことも。あれは何だったのだろうか。よくわからないのだ。電話をかけようとしたけど、携帯を壊してしまってそれも出来ない。ああ、イライラする。むくりと起きて鏡を見た。そこには誰かの顔が写っていた。

「……あ!」

 今日は喫茶店に行っていないことを思い出し、そそくさと準備をして家を出た。


 一日中外を気にしなかったから、夜だということに気がつかなかった。街灯の虫は蜘蛛に捕らわれ食われていた。人通りは少なかった。学生がこの時間に出歩いているとしたら、俺みたいなやつか悪いやつくらいだ。足音は止まない。ああ、イライラする。

 喫茶店はいつも通りだった。いつもの席に座りいつものスイーツを頼む。変わらない味と見た目のスイーツに安心する。

「いいね。いいね。楽しそうだ」

 話しかけてきた彼を見て俺は笑った。

「今日は、することがなくて」

「分かるよ。私もそうだ。最近は君みたいな子が減ってしまった。残念だ」

 そう言って黒いカバンをごそごそと漁り始め、スイーツを取り出し机に置いた。

「ありがとう」

 俺はポッケにそれを突っ込んだ。それと同時に話した。

「そういえば、最近ここへ来るときに足音が聞こえるんだ」

「……」

「誰かがついてくる、そんな気がするんだ。イライラする」

 彼の目は彫りが深くて暗く見える。

「それは誰だ」

「……多分、悪いやつ」

「なら、君の持っているそれは何のためだい?」

 彼は俺の右手にあるバットを指さした。

「あ、そうだった」

 家から出る時に持ってきたのだ。最初からそのつもりだった。そうだった。そうに違いない。手に力が入る。

「いいね。いってらっしゃい」

 そう言って彼は店を出ていった。俺もこうしてはいられない。早くしないと。


 店を出て家に帰る途中でそれは聞こえてきた。いつもは喫茶店に行く時だけだったのに、帰る時も聞こえるようになってしまったのか。イライラする。今日こそ振り返ってやる。そう思っていたが、いざそうしようとすると不安になって振り向けないのだ。足音は近くなってきて、止まった。真後ろだ。

「---君?」

 彼女の声だった。

「--行-た--、----探して-た-」

 嘘だ。

「--も学校に来--から心----よ」

 誰だ。こんなことをするのは。

「本当に悪い-思って--の。だから--見て謝--かった」

 監督か。親か。部活のあいつか。

「-め―な-い。ご-んさ-」

 許せない。

「……---君?」

「その声で!」

 許せない。

「しゃべるな!」

 久々にバットを振った。衰えていないものだ。

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