第2話 ザカーリ
カランカランカラン!
ふいに響いた鐘の音に、カイラは「わ!」と飛び上がった。
気がつけば、窓外の空はすでに夕焼けに染まっている。
「まずいまずいまずいまずい!」
今のは夕食の鐘だ。
明日の召喚試験に備え、今日は早めに練習を切り上げるつもりだったのに!
カイラは慌てて踵を返し、部屋の隅に立てかけたモップとバケツを取りに走る。
その時だった。
「良い出来だ」
カイラ以外、誰もいないはずの部屋で声がした。
驚いて振り向いたカイラの前に浮かんでいたのは――。
「い、院長先生……!?」
王国の生ける伝説、召喚士ザカーリその人だった。
引き締まった長身に魔法院の漆黒のローブをまとい、短く刈った白髪を額から後ろになでつけている。ところどころ年輪を刻んだ顔は、若き日の美貌を十分にとどめ、冴え冴えとした灰青色の瞳は、晴れ渡った冬空を思わせた。
カイラはどぎまぎと下を向く。不意打ちの衝撃はあまりに大きく、背後に壁がなかったら、ぺたりと尻餅をついていたところだ。
(ななな、何で院長先生がここに)
これまでザカーリを目にする機会といえば、同級生のグリンダが土産物屋で買ったという似姿か、公式行事で壇上から訓示を垂れる姿を遠目に見るくらい。話したことはおろか、廊下ですれ違ったことさえない。
それが今は、狭い室内に二人きりだ。緊張しすぎて、声も出ない。
目をまん丸く見開いたまま凍りついたカイラを、ザカーリはしばらく面白そうに見ていたが、やがてふっと微笑んだ。
「すまないが、この老体に手を貸してはくれまいか」
(? 手を貸す?)
怪訝に思い、目を上げると、ザカーリは宙に浮いたまま、こちらに片手を差し出している。
そのさまは、さながら指先に接吻を許す王侯のごとき威厳に満ちていた。
「この、あまりに見事な召喚陣を踏みつけるのは忍びない」
言われてみれば、カイラの召喚陣は、四隅を除く床のすべてを埋めつくしている。
「うわあ、すす、すみませんっ! どうぞ! いくらでも踏んじゃってください!」
カイラは慌てて陣の上に身を乗り出し、うやうやしくザカーリの手を引いた。
王国一の召喚士の手は、大きく、強く、カイラのそれより少し冷たい。
とん、と床に降り立ったザカーリは、あらためてカイラをためつすがめつ検分するようだった。
「まさかこの王国に、これほど優れた
思いがけない誉め言葉に、カイラの胸が早鐘を打つ。
「いえ、あの、まだ召喚士ではないんです。そうなりたいとは思ってますが。あの、それで、試験に備えて練習を……」
「そうか。試験はいつだったかな」
「あ、明日が初日です!」
召喚試験は、毎年、秋分後の最初の満月の日に始まる。
ザカーリは、昇りかけた月を探すように、窓の外に目をやった。
「そうか。今年も、もうそんな時期か」
「は……」
はい、と頷きかけた時。
――きゅるるるるる~。
カイラのお腹が情けない音を立てた。
ザカーリが「おやおや」というようにくすりと笑う。
「これは、引き留めてしまって悪かったかな」
(いやあああああ! 死にたい! ていうかもう死ぬ! 今死ぬ! 恥ずか死ぬ――!)
「しっ、失礼しましたっっ!」
カイラは真っ赤になって頭を下げた。
かくなる上は、一刻も早くこの場を逃げ出したい。
でも、その前に召喚陣だけはちゃんと消しておかなければ。
猛然とモップを引っ掴んだカイラを、「待ちなさい」とザカーリが押しとどめた。
怪訝そうなカイラの前で、長い指をぱちんと鳴らす。
途端、床の紋様がさらさらと崩れ、溶けるように消えていった。
「これでいい」
そう言って、ザカーリはカイラを優しくドアのほうに押しやった。
「行きなさい。今ならまだ夕食に十分間に合う」
逃げるように部屋を出ていくカイラの背中を、伝説の召喚士の声が追ってきた。
「それでは、しばしの別れだ、カイラ。明日からの試験を、心から楽しみにしているよ」
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