第3話 ふたり
慌ててやってきたのは、すらりと背が高く、線の細い男――
彼の勤め先は、日本中で知らぬ人はいないと言っていいほどの、有名な企業である。幅広く事業を展開し、認知度を上げて、誰もが知る会社へと成長させたのは誠士郎の父のおかげだ。
誠士郎は父親が代表を務めている会社に入社した。今は父の元でコツコツと働いている。何ら一般と変わらぬ新入社員として入社し、仕事を続けてきていた。
しかし、社長の息子と社内で名前が知られ始めると、誰も彼に指示をすることができなかった。なぜなら、後に誠士郎が社長の座に着くことが決まっているので、下手をすれば首を切られるかもしれない。自分の居場所ほしさに、上司たちは誠士郎を別の意味で恐れた。
前もってそんな情報を母から聞いていた。おかげで、事前に写真を見ていたにも関わらず、どんな威圧感のある人だろうと思っていたのだ。
だが理歩の予想に反して、誠士郎は全く威張るような様子はない。むしろ親近感を与えるような、そんな姿であった。
動く度に揺れる癖のある髪は、どこか柔らかい印象を与え、さらに優しさも感じさせる。垂れた目がさらにそれを増させる要素になっている。
理歩よりも三十センチ近く大きいのに怖くない見た目から、理歩はすぐに安堵の息をこぼした。
「お待たせ、果歩ちゃん。ここまで来るの、大変だったでしょう? あ、荷物は僕が持つよ。部屋まで案内するね」
重かった荷物を軽々と引き取り、右手で持つ。空いたもう一方の手は、そっと理歩の右手に重ねられた。
手から伝わるぬくもり。今まで恋人が出来たことがなかった理歩にとって、初めての行為に耳障りなほど鼓動が早く、そして強く音を立てる。
(こんな優しい人に、果歩は愛されていたんたね……)
亡き妹は、いつもこうやって手を繋いでいたのかと思うと、羨ましくもあり、同時に偽っていることへの申し訳なさがあった。
誠士郎は果歩が亡くなったことを知らない。もし知ったときには、悲しみに暮れるだろう。そんな思いはしないほうがいい。初対面でもわかるほど優しい彼には、これからも幸せに生きていてほしい、そう果歩も思うはず。
誰も傷つかないために、理歩は外すことを許されない仮面を身につける。
「どうしたの? 何だか元気がないね?」
足取りが重いからか、それとも直感で果歩ではないと思ったのか。誠士郎は理歩へ問いかける。
一瞬だけ、バレたのではないかとヒヤッとしたが、必死にそれを隠すための顔を作る。
「ううん。何でもないよ」
自分は果歩であると言い聞かせ、理歩は口角を上げ、眉毛を下げ、目を細めて笑顔を作った。何度も写真を見ながら練習した『果歩の笑顔』を見て、誠士郎は「よかった」と言う。
(よかった、果歩じゃないってこと、まだバレていない……)
ホッと胸をなで下ろし、誠士郎に連れられてエレベーターに乗り込んで移動する。
エレベーター内にある鏡に映る自分の姿を見ていると、ここには理歩がいなければならないのに、自分がいていいのか。このままでいいのか。そんな思いが募った。
不安を抱える理歩を、誠士郎はちらりと見たが、なにも言わなかった。誠士郎の視線に、理歩は気付いていない。自分のことだけで精一杯だった。
エレベーターが上昇し、チン、と扉が開いた階は地上二十二階。
誠士郎は何も気にすることなく、そこで降りるので理歩も共に進む。
「ここだよ。僕たちの新しい家は」
そう言って誠士郎はガチャガチャと鍵を開け、中に入るよう促す。
戸惑いながらも、理歩は一歩、足を踏み入れる。マンションとはどんな部屋になっているのかと何度か想像していた。なのでワクワクして入って行けば、そこには自宅と大きく異なる広い部屋が待っていた。
「……すごい」
感嘆の声を出しつつ、靴を脱ぎ、部屋の奥へと進んでいく。
未開封の引っ越し用段ボールがいくつも置かれている廊下を通り過ぎ、真っ先に窓へと近寄る。汚れのない大きな窓から見える景色はとても広く、繊細であった。
全ての建物が下に見え、遠くまでよく見える。空がすぐそこにあるようにさえ感じる高さは、理歩にとってとても心地が良いものであった。
「僕はもっと安いところでいいって言ったんだけど、父さんがここにしろってうるさくて。果歩ちゃん、高いところはあんまり好きじゃないから心配したけど、その様子なら大丈夫そうだね」
「う、うん。あまりにも綺麗だったから、大丈夫みたい」
まずいと思った。
誠士郎の言う通り、果歩は高いところが苦手だったことを言われてから思い出したのだ。理歩と果歩は違う。好みは反対だ。苦手なものも。一瞬の気のゆるみが全てを終わらせてしまいかねない。理歩は改めて、自分を殺す。
「僕も初めて家を出たから、あんまり家事はできないんだ。だから、これから料理とか洗濯とか……家事全般を教えてくれると嬉しいな」
箱入り息子の誠士郎は、ハウスキーパーを雇っており実家では家事全てを頼んでいたらしい。今の今まで、一人暮らしもしたこともないために、家事ができない。
そんな裕福な家庭で生まれ育った誠士郎の両親は、今にもつぶれそうな自営業の娘である果歩と結婚することは反対していた。結婚するなら同等以上の令嬢でなければいけないと、付き合うことにも反対していたが何とか説得し、両親の目が届く決められた場所で暮らすということで妥協したのだった。
そのことについては、理歩は知っていた。
というのもこまめに果歩が付けていた日記を読んだからだ。それが無ければ、誠士郎のことなど理歩は何一つ知ることができなかった。
「これからよろしくね」
そう言って誠士郎は理歩の隣に来て、優しい顔で右手を差し出す。
「……はい」
大きく優しいその手に、先日ぎこちなくセルフネイルを施した理歩の右手を重ねると、そのまま理歩の体は後ろから誠士郎に包まれた。
密着する体。伝わる体温。初めての抱擁に、心臓が高鳴る。誠士郎の心音もよく聞こえた。
「よかった。大好きだよ、果歩ちゃん。僕たちなら幸せな家庭を築ける……いろんなことを一緒にやっていこうね」
耳元でささやかれた言葉は、理歩の顔を赤く染める。こんなプロポーズのような言葉を送られたことがない。だから、恥ずかしかった。でも、その言葉が自分に向けられたものではないとわかっているから、理歩の心はどんどん複雑になっていく。
誠士郎に恋愛感情を抱いてはいけない。何も抱いてはいけない。熱くなる血をどうにか鎮めた。
(果歩、ごめんね……あなたの居場所を奪ってしまって。ここは、私がいるべきじゃないのに……)
さっきまで全くなかったのに、いつの間にか生成された灰色の雲が太陽を隠す。
光を失った部屋。それがこれからの理歩の生活を暗示しているように感じた。
(ああ、ごめんね果歩。どうせなら私が、死ねばよかったな――……)
理歩の気持ちも考えも知るよしもない誠士郎は、窓の外の遠くの世界を見つめていた。
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