第16章

 テーブルに押し付けられたシズネが目にしたのは一匹のネズミであった。それは建物内で見かけた野生のネズミとは明らかに品種も異なる、白いネズミであった。

「主様って……?」

 自分が攫われたのは吸血族によるものと考えていたシズネは、主様と呼ばれる目の前のネズミに戸惑った。

「主様、目当ての極上の血ですよ」

 ナガモリが声をかけると、白いネズミはシズネに近づき、差し出された腕をつたって、首元へと向かった。白いネズミの正体を悟る間もなく、迫りくる異様な光景にシズネは背筋を凍らせた。

「いや、ダメ。来ないで……」

 震えながらシズネは身をよじらせるも、シズネの体を押さえる男たちの力は強く、白いネズミを振り落とすことも、逃げることもできなかった。シズネが抵抗している間に、白いネズミはシズネの首元に入り込んだ。そして、抵抗虚しく、シズネの首元には痛みが走った。その後も何度も首元をえぐられるような痛みが走り、シズネは思わず目をつむって、歯を食いしばった。

 痛みが止まり、目を開けると、先程まで首元に喰らいついていたはずの白いネズミは、鳴き声を上げながらシズネを威嚇していた。白いネズミの挙動に驚いたシズネは周りに視線を移すと、周りの男たちも何が起きたのかと不安そうな表情を浮かべていた。男たちがどうすればいいのかとナガモリを仰ぐと、ナガモリも驚いた表情でこの光景を見つめていた。

 再び白いネズミが鳴き声をあげると、ナガモリははっとして、シズネを見つめた。

「私たちの仲間にできないなんて……。まさか、そんなことがあるのか」

 ナガモリはシズネを協力者にすることができないことを察したようだった。しかし、ナガモリは起きていることを信じられずにうろたえていると、再び白いネズミが鳴き声を上げた。

「私たちの仲間にできないというなら、こいつは不要だ。こいつの血さえ確保できればいい」

 ナガモリの冷たい目に、シズネは再び全身を恐怖に包まれた。ナガモリの言葉で、男たちはいくつかの容器をシズネの近くに用意した。その行動の意味を理解したシズネは身がすくんでしまい、男たちの様子を見ながらただ震えることしかできなかった。

 男たちは準備を終えると、最後に奥から小さなナイフを取り出した。そして、ナイフを手にシズネの横に立ち、シズネを見下ろした。すると、不意に男の一人がドアの方を振り返った。

「誰か来てます。主様のお子様たちに襲われながら」

 男はナガモリに報告をすると、ナガモリは意外そうな表情を浮かべた。

「おかしいな。人が立ち入らないように、入り口に人を置いたはずなんだけどな」

 ナガモリたちの言うここまで来た誰かというのはユウキしかいなかった。そのおかげで、震えることしかできなくなっていたシズネの中で、わずかに希望がよぎった。しかし、〝ご子息〟に襲われているという言葉が気になり、シズネは安心していられなかった。

「まあいい。そいつも私たちと同じ仲間にするか、口封じだ」

 ナガモリが男たちに伝えると、男たちはシズネを押さえつけるのを、壁際で待機していた男女に代わった。そして、部屋にいるメンバーの中で最も体格のいい男たちが、ユウキがいると思われるドアへ向かっていった。

 このままではユウキも捕まってしまうと考えたシズネは、息を深く吸い込んだ。

「ユウキ! ダメ! 危ない!」

 しかし、シズネの言葉は間に合わず、男たちは一気にドアを開けると、しばらく取っ組み合う音が響いた。そして、一人の男が部屋に引きずり込まれ、床に押し倒された。

「うぅ、シズネ……」

 床に転がされたユウキは明らかにボロボロで、無数のネズミが体にまとわりついていた。

「ユウキ‼」

 無残なユウキの姿に、シズネは悲痛な叫びを発しながら必至にもがいた。

「はぁ。全く一体誰がこんなところまでやってきたのかと思えば、こいつの連れということか。しかもこの包丁、入り口の奴から奪ったのか」

 ナガモリは深いため息をつくと、ユウキの元へ寄って、ユウキの持っていた包丁を奪い取った。

「まぁでも、もう関係ないか。こっちはこっちでなんとかするから、そっちの始末も進めておいてくれ」

 ナガモリの言葉にシズネを押さえていた男女のうちの一人は、男が置いていったナイフを手に取ると、そのままシズネの首に刃先を当てた。下手に抵抗すれば誤って、切られてしまいかねない状態に、シズネは死を覚悟した。せめてユウキは無事でいてほしいと、すがれるもの全てに祈りながら目を閉じると、ユウキの声が響いた。

「『シズネ! 逃げろ! 頼むから絶対に死なないでくれ!』」

 その瞬間、シズネの体に強い電流が流れたような感覚が走った。シズネを押さえ込んでいた男女は何が起きているのか理解できない様子で、戸惑いを見せた。

 シズネは、今まで以上に力を込めて体をねじり、抵抗を再開した。

「え? まさか、本物の吸血族?」

 ナガモリが動揺の声を上げる中で、シズネは声にならない叫びを上げながら、何度も身をよじった。そして、体が軋む程強い力を込めた瞬間、テーブルは倒れて、シズネの体は自由になった。

 自由になったシズネは逃げるために、生きるために、ユウキを背にした。そして、いつの間にか別のテーブルに移動し、シズネを威嚇している白いネズミに相対した。ガムテープを巻かれたままの腕を振り上げ、威嚇している白いネズミとの距離をじりじり詰めた。緊張がピークに達するとシズネは一気に白いネズミとの距離を詰め、思い切り腕を振り下ろした。シズネの手元からは嫌な音と感触が伝わった。

 息を整えながら振り返ると、逃げ出したシズネを遅れて止めようとしていた者、ユウキを押さえつけていた者たち全員が呆けた表情で座り込んでいた。

 そして、ユウキにまとわりついていたネズミたちは、散り散りになって、その姿は見えなくなった。解放されたユウキは、驚いた表情を浮かべてゆっくりと立ち上がった。そして、ユウキは体を引きずりながら、シズネの元へ歩み寄ろうとした。同じように、シズネも全身が軋む痛みに耐えながら、ユウキの元へ歩き出した。ユウキの元へたどり着いたシズネは、思わずユウキの胸に顔をうずめた。一気に今までの恐怖と安心が溢れ出て、シズネはこらえきれずしゃくりあげた。

「よかっだ。もう会えなくなるんじゃないかと思った。怖かった。またユウキがあんな目に遭うって考えたらもう……」

 ユウキは片腕でシズネを優しく抱き寄せた。

「ごめん。怖い思いをさせて。俺、ダメだな。全然シズネのこと守れてないな」

「ううん。ユウキがここまで来てくれたおかげで私は助かったんだよ」

「大丈夫。もう離さないから……」

 離れていた間の不安が薙ぎ払えるまで、お互いの温もりを分かち合うと、ユウキは一度シズネを離した。そして、シズネの腕に巻かれたガムテープを丁寧に剥がしながら、声をかけた。

「シズネ、体は大丈夫?」

「ちょっと体を無理に動かしたせいで、体が痛いけど、私は大丈夫。ユウキはその腕と体……」

「これか……。今はアドレナリンがかなりでているみたいで大丈夫そうだ」

 ユウキは腕の傷もひどいが、全身をネズミにえぐられ出血がひどかった。こんな状態で、平気な素振りを見せられるところは吸血族であるからこそだろう。

「オキツさんのところに行こう」

「うん、そうだね。じゃあ、ここの人どうしようか。ここの人みんな協力者みたいだから、もう命令は解除されてそうだね」

「うん。もう命令は解除されているはず。私が吸血族のネズミを潰したから……」

 シズネは未だに手に残った感触を思い出しながら呟いた。そんなシズネの手元をユウキは見つめ、ガムテープを剥がす作業を一旦止めた。そして、上着を脱ぐと、ユウキは上着でシズネの手の血を拭った。

「ゆっくり忘れるしかないよ」

 ユウキは血を落としたシズネの手を優しく包みこんだ。手を震わせていたシズネが再び落ち着くと、ユウキは再びガムテープを剥がし始めた。

「それにしても、ネズミが吸血族とは驚いたな。改めて考えると、ネズミの繁殖能力を考えると、まだ安心しない方がいいのかな」

「それは大丈夫だと思う。ここの人が主様って言っていたのは、私が潰したネズミだけだったから」

 シズネは一連のことを思い出し、多くの違和感を覚えた。そもそもネズミが吸血族であることも、不可解な話だが、そのネズミがヒトとネズミを操っていた。そして、そのネズミたちは、あの白いネズミの子だと言われていた。人間の吸血族なら、吸血族の子は吸血族かヒトのはずだが、あの白いネズミの子は、白いネズミの命令に従う普通の個体だけだったようだった。

「実は、協力者の中に、行方不明と言われていた生物学教授がいたの。だからもしかして、その人が吸血族のネズミを生み出したとかなんじゃないかな。でも不完全だったから、他に吸血族のネズミは生まれなかったとか?」

「そうなると、いよいよ吸血族の存在が明るみに出るかもしれないな」

 遠くからはサイレンの音が近づいてくる。

「そうだね、そうなる前にここからも早々に立ち去ろう。あとは警察に任せて、早くユウキの治療をしよう」

 そう言ってテープを剥がし終えたユウキは、何気なくシズネの後ろに視線をやった。

「シズネ!」

 ユウキは突然声を張り上げると、シズネの腕を思い切り引っ張った。

 突然のことに体勢を崩したシズネは、何が起きたのかとユウキに視線を戻した。すると、いつのまにかナガモリが起きあがっており、先ほどまでシズネがいた場所に立っていた。よく見ると、ナガモリは包丁を両手で掴んでおり、その包丁はユウキの脇腹に深々と刺さっていた。

「はぁはぁ、僕の研究結果をよくも……」

 ナガモリは刺さった包丁を引き抜くと、青ざめた顔を浮かべた。

「ユ、キ……?」

 シズネは倒れこむユウキを慌てて受け止めるが、ユウキの腹に広がる血を見て、言葉を失った。ナガモリは、倒れたユウキと自分の手元の血を見るやいなや、血だらけの包丁を落とし、狂ったように逃げ出した。

「あぁ……。ユウキ、待ってて、すぐに救急車呼ぶから」

 もたれこむユウキの腹から溢れ出る血を必死に押さえながら、シズネは悲痛の声を上げた。

「ごめん。さすがにこれは手遅れみたいだ……」

 もたれこむユウキは、シズネの耳元で力なく声を発した。

「そんなことないよ。そうだ、オキツさんも呼べば、何とかしてくれる。きっと吸血族なら助かる手とかあるよ」

 ユウキは既に満身創痍の状態だった。傷口からの血を止めようと傷口を押さえるが、無情にも血は溢れ出るばかりだった。もう助からないということを受け止められずに、シズネは泣きながら思いつく限りの希望にすがった。

「報いだな。実は俺、ここに来るまでの間に人を殺してしまったんだ。だから……」

「なんで。なんでそんなことで報いを受けなきゃならないの。ユウキは私を助けてくれたのに。そんなことの報いで死なないでよ」

「ごめん。一緒にいようって約束したのに」

 弱ったユウキは、諦めたように謝罪した。

「だめ。私、ユウキがいなかったら生きていけないよ。なんでもいいから死なないでよ」

 なす術もないシズネは、今にでもどこかに行ってしまいそうなユウキを抱きしめた。

「ごめん。もっとシズネの血を飲んで、もっと一緒に居たかった……」

 シズネはユウキを抱きしめる手に力を籠めた。そして、近くに落ちていた包丁に手を伸ばすと、迷いなく包丁で自分の首元を勢いよく切りつけた。うまく頸動脈が切れたのか、シズネの首からは大量の血が溢れ出した。

「いいよ。好きなだけ飲んで……。これならユウキと一緒にいられる」

 シズネの行動に驚いたユウキであったが、シズネの覚悟に嬉しそうな表情を浮かべた。

「あぁ、そうだね。一緒に逝こう」

 ユウキは弱弱しい笑顔とかすれた声で返事をした。

 シズネはユウキが飲みやすいようにユウキの体勢を変えて支えた。

「いた……きます」

 ユウキは呟くと、シズネの首から溢れ出る血を飲み始めた。そして、ユウキは腕を震わせながら、シズネを両手で抱き寄せ、そのまま血を休みなく飲み続けた。

 ユウキの抱き寄せる力も弱くなり、血を失ったシズネももたれるユウキを支えきれずにユウキと一緒に仰向けに倒れこんだ。体勢を崩しながらも、全てのシズネの血を飲もうと、ユウキは再び血を飲み始めた。

「私、ユウキに会えて幸せだったよ。ユウキとこんな関係になったことに後悔なんてない。何もかもありがとう」

 ユウキは小さく頷くと、生が続く限りシズネの血を飲み続けた。

 時間が経つにつれユウキの血を飲む動きは小さくなり、そのまま首元から息遣いは聞こえなくなった。意識の朦朧としてきたシズネは泣き声をあげることもできず、ただ目尻から熱い涙がこぼれ落ちた。

 二人の血液が混ざり合った血の上で、段々と温もりが失われていくユウキの体温を感じながら、シズネは暗闇に落ちていった。

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