サーチングレイ

shomin shinkai

第1話 プロローグ ①

 涙があふれだすような暗雲ではなかった。しかし、雲の切れ間から光が差すような生半可に優しい薄雲でもなかった。この先胸の中に淡々と残る痛みが生じた日のことを、私は今でもよく覚えている。

 私は玄関の前で頭を深々と下げた。しばらくそのまま頭を下げ続けた。皆の表情がわかっていたために、顔を上げるのを躊躇っていたのかもしれない。しばらくは自分のしわだらけの手を見つめていた。

 顔を上げると、予想通りの顔をした、老若男女、数十人の姿があった。悲しみで満ちた肌に、怒りと衝撃でできたしわが刻まれた顔。その怒りと悲しみは、今私が彼らに与えたものだ。

 集団の一番前にいたがに股の老人が、声を震わせながら尋ねた。

「今……なんて言った?」

 そのときの私は、冷静なふりをしようとしすぎて、冷徹になっていたと思う。

 私が男をまっすぐ見ると、一瞬その場にいた全員がひるんだ。

 私は静かに、先ほど言った言葉を一言一句変えずに言った。

「大悟さんは癌です。それに最近は、記憶の方もさだかではなくなっています。昔の彼はいません。なので、家にはもうこないでください」

 がに股男の隣にいた、背筋が伸びた老人がなだめるような口調で言う。

「いやいや、そんなこと関係ないよ。俺たちは皆、一緒に大悟さんを応援したいんだ。今までさんざんよくしてもらって、病気になったから縁を切りますなんて最低なことはしないよ」

「それに、会話したり、笑ったりすることで病気の症状がよくなるってことも聞いたことがあります」

 後ろの方で誰かが言い、賛同するような声があがった。

 がに股の男が言う。

「前みたいに騒ぎすぎたりしねぇ。もちろんタバコなんて絶対に吸わない。やめる。だから、ここにいる皆で協力させてくれないか? 大悟を手伝いたいんだ」

 彼らの言葉を聞いて、胸が締め付けられる感覚に陥った。ありがたい言葉だった。私にとっても、ここにいる皆は家族のような人たちだ。大悟さんのことを心配して当然だ。

 だが、私の覚悟は硬かった。

「ありがとう」

 私が心の底から言うと、皆の顔が幾分か和らいだ。しかし、私が「でも」と続けると、彼らは低くため息をついた。

「私たちは、二人で静かに暮らしたいんです。誰かが介入しない場所で、二人で。だから、今日のように皆でくることは二度としないでください。くるなら少人数で。わずかな時間で」

 子どもたちが、親の制止を押し切って私のところにやってきた。

「もう大悟じいちゃんとゲームできないの?」

「次は俺が勝つって約束したんだよ」

 私は首を振った。

「ごめんね」

 子どもたちの頭に手を置き、彼らに背を向ける。

 玄関の戸に手を掛けた私の後ろ姿に、皆が一斉に声をかけた。

「深沼さん!」

「おばあちゃん!」

「今日だけ大悟さんに皆で合わせてくれませんか?」

「今日だけでいいんだ!」

 私は戸を開けた。男の大声が響いた。

「大悟はそれを望んでいるのか!」

 私はその言葉に一瞬手を止めた。

 その言葉があったから、私は今でもこの日を鮮明に覚えているのかもしれない。

 それでも私は後ろを見ることなく家の中に入り、少し強めに戸を閉めた。

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