第1話

秋陰の凍てつくような寒さが空を覆う。夜の帳は既に落ち、乱雑な人々の鳴き声は消え、優麗な楽器のような虫のさざめきだけが寂し気に聞こえる。短く切りそろえた髪は、風に流され微かに揺れた。眼鏡をかけた大人しそうな少年が、アパートの屋上に立っていた。そのアパートというのは、ここだけ古代からある名所であるかのように古び、外壁が崩れていた。組み上げるために設置された鉄筋コンクリートは、無残に露出しており、その銀色の肌は深夜訪れたもの恐怖させるには十分だろう。時代に取り残された三階建ての建物は、抱きかかえるような優しさで物思いに耽る少年を見ているようだった。

 最上階、雨宮仁は欠けた月を見上げていた。三分の一が巨大な獣にぱっくりと食べられたように光を失っている。三日月とも、半月とも言えない不完全な、時によって完全な姿を取り戻すものは、憂いを込めた瞳を持った少年とは似ても似つかない。月は、いずれ完成した姿を人に晒すだろう。しかし少年に完全な姿は存在しない。羽化して夜空を駆ける蝶のような美しさも、獣のような力強さも彼は持ち合わせない。ただ、ただ、不完全などこにでもいる人間が彼だった。雨宮は、道を塞ぐ柵に肘を置き、眼下に広がる灰色の大地を見ていた。どれだけ、じっと見つめても微細な変化しか生じないその大地は、とって非常に心地が良かった。見入るように大地を見ていた少年は、一つ、大きなため息をつくと自らを縛る障壁を飛び越え、飛び降りた。

 急速な抵抗を体に受けながら、逆さになって空を見た。どこか、遠い場所。一人の力を持った幼き子供が、人を殴りつけた。殴られた人間は泣き叫び、怒る。結果だけ見れば、殴った人間は正しかったのだ。子どもは嘘をつき、人の物を奪っていた。しかし未来、少年になるものはそれでも不完全だった。僅かに年を取った少年の視界は、悪意に満ちていていた。子どもの純真さは、落ち葉のように散り、風に乗って消えた。少年は、灯りに集まった蛾の中の美しい蝶のように歪に輝いた。雨宮の走馬灯に描かれたのは、助けてた人間の笑顔などではなく、ただただ、人形のように正義を行使し、子どものように「正しさ」を語る愚かな己の姿だった。その無意味な想像の間を、繋ぎとめる糸。刻、月坂真理愛という存在だった。人間離れした白く薄い肌と、黒漆の瞳。モノクロの世界の住人のような服装をした天真爛漫な少女の姿。まっ黒な沼のような雨宮の世界に落とされた一点の白。誰よりも、純粋で、誰よりも間違った世界で生まれた彼女の願いだけが雨宮仁の唯一の心残りだった。

「まあ、忘れてるだろうけど……」

 少年は穏やかな顔一つ浮かべず記憶を手放した。人間は、地面に打ち付けられ弾けた。強固な頭蓋骨は、半壊し機能を停止する。砕けた腕はひしゃげて、血を絞り出し大地にまき散らす。

ウマクイッタ

 漆色の眼球は、光を急激に失い何も示さなくなる。全ての生物と同じのように、雨宮仁は最後に辿り着くべき場所に意志とは関係なく動き始めた。

 鈴の音のような元気のよい足音が聞こえる。何も見ていないようなボーとした瞳と相反するように足取りは軽やかだ。右手には、懐中電灯を携帯。服装は、白のパーカーに黄色の目立つラインの入った安全性に考慮したデザインだ。わずかに膨らんだ胸が、彼女、柴田綾乃が女性であると伝える。短く切りそろえた青みががかった黒髪を自ら興した風でたなびかせ、三階建てのアパートに向かっていた。


「ねえ、恋ちゃん」

「ん? なーに」

 いつも通りの教室で、白水恋は、友人である柴田の少し語尾の上がった楽しそうな声を聞くと振り向く。楽しそうな声とは言っても、大抵の人間には、棒読みに聞こえるほどの無感情で、白水が彼女の声色から感情を理解できるのは、三年間友人だったことの賜物だろう。白水の目の前には、「奇談、空を駆ける少女」と書かれた新聞の一面が開かれていた。白水は、別に購読していないのだが、あまりにも柴田に見せられるために雑誌の名称と書いている雰囲気から「Dukh」と呼ばれる地域のミステリー雑誌の物だと分かる。ページの中央にでかでかと貼られた画像には、月光で煌めく糸を使いながら空を踊るように動く、人型の影が描かれていた。白水の感想としては、「人型小さすぎないか」という一言に尽きる。小さすぎて性別は愚か、そもそも人間ではなく、投げ飛ばした人形だったとしても判断できないほどだ。ただ、その奥に映っている。人型が向かっている場所に白水は見覚えがあった。

「ここって、あのぼろアパート?」

「おーー、さすが。恋ちゃん、目の付け所が違うね」

「小学校の頃、お化けが出るって有名だったよねー」

 白水は、腰まで伸ばした美麗なパーマのかかった茶髪を撫でながら返答する。

「ということで、行こうと思うのですが。今夜、早速」

 喋る前に予想できた急展開に、白水はお腹を抱える。

「う、お腹が、お腹が痛い。昨日、羊羹さんを二個食べたのが不味かった」

「恋ちゃんが、羊羹二個ごときでお腹が痛くなるわけがない。というか甘い物食べてお腹はそんなに痛くならない。太るだけ」

「それは気にしてるんだから云わないで」

 恋も太ってはいない。ちゃんと少女としての美しいプロモーションを保っているのだが、比較対象である柴田は、スレンダーの権化のような存在で、出るとこさえ出ておらず、美しい曲線を描く肉体の細さを見せつけている。健康体型である恋には、羨ましい限りである。

「マジレスすると、今日の夜は親戚が来るので無理です」

「じゃあ、仕方ない。残念、世紀の大発見を一緒に見ようと思ったのに」


 三階建てのアパートは、柴田が小学校の頃に何度か訪れた心霊スポットだ。もはや、何度も通った彼女にとってここはただの廃アパートでしか無かったのだが、今回はDukhのおかげで立派な心霊スポットに変わっている。

「えっ」

少女は走っていた足を入口の前で、急激に止め、眼の前の光景に眼を見開く。屋上から飛び降りたであろう、人間の崩れた死体が横たわっていた。柴谷は、背格好からその人物を知っていることに気づいた。だから柴田は即座に取るべき行動を決めた。普段特に困ったことは存在しなかったのだが、今だけは機械音痴の自分が憎らしいと柴田は思った。もと来た道ではなく、そのまま先に進む。電話に関連する心霊現象の解明のために、海来市の大量にある公衆電話の位置はある程度は把握しているからだ。

 救急車を呼んでから、5分後。少女が全速力でアパートに戻った時には、雨宮仁の肉体は忽然と血の後さえ見せずに消え去っていた。残ったのは、救急車のけたたましいサイレン音だけだ。

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