第21話

「明日はさ、俺、国病に手伝い、昼前に出掛けるけど、美香はどうする?一緒に行く?」

 夕飯の後、キッチンで片付けをする美香に、何とはなしに明日の予定を告げ、気持ちの中では、良かったら一緒に行かないか?、そんなつもりで声を掛けてみた。

「そうねぇ・・・。行きたいけどぉ・・・。でも、また今度にするよ。明日、また家に顔出してくる。それからそのままお店に出るよ」

「・・・あ、そっか・・・」

 美香が実家に顔を出すことに、それもそうかと思う反面、誘いをあっさり断られた寂しさも感じるのだが、抑々病院に行くのはボランティアであって遊びではないのだ。

 こちらはそのつもりでなくても、美香と一緒に居ることで、周囲から手伝いに身が入っていないと思われても心外だ。

 それに岸本さんの彼女も勤務している病院なのだ。

 どこでまたどう岸本さんに伝わるか分からない。

 僕はそう自分に言い聞かせ、話を切り替える。

「うん、じゃあさ、明日、俺、パンの販売手伝った時に、そこのパン買ってくるから、明後日の朝ご飯はそれにしようよ。ちょっと焼き直してさ。結構美味いんだぜ」

「うん、分かった・・・」

 そう返答する美香の表情が、心なしか沈んで見えるのは気のせいなのだろうか。

 それでも僕は特にそのことに気を止めることも無かった。



 翌日、朝のニュースで南西諸島は梅雨に入ったとみられるとの報道があり、昨日までとは打って変わって朝から酷い雨の火曜日になった。

 美香と僕は昼前に傘を差して部屋を出ると、キャリーバッグを手にした美香は国道沿いのバス停でバスを待ち、僕はそこで美香と別れて、そのまま歩いて国立病院に向かった。

 南風が真面に入っているのだろうか、梅雨の初めにしては、やけに蒸し暑い。

 それでも病院の待合室に入り、傘を差していたにも拘らず随分と濡れてしまった身体は、建物内の冷房に冷やされると、今度は急にに肌寒く感じられる。

 だから、梅雨は嫌いだ。

 それから僕は持ってきたスタッフ用のエプロンと三角巾を身に付け、いつも通りレジスタッフのサポート業務に当たった。

 サポートといっても大したことをする訳ではない。

 斜め後ろから会計手順を伺い見て、レジスタッフかどうしても作業が進まない時にだけ、少しばかり手を貸してあげるのだ。

 勿論、レジスタッフもそういった子たちなので、時々パニックになってしまうこともあるが、そんな時には僕が代わってレジを打ち、パンを買ってくれたお客に愛想を振りまく、そんな感じのことだ。

 病院内で、然も施設の人間が販売し、それを分かった上で、患者、若しくはその家族、病院関係者が購入するのだから、僕が手伝わなくてもクレームだ何だといった問題は、まず起こらない。

 それでもボランティアの手伝いを必要とするのは、施設長(僕に最初に声を掛けてくれた中年女性。ミヤギさんという)が言うには、彼ら(施設入所者)にとって、一般健常者との人的交流、仲間としての連帯感、それが彼らの自信になり、何よりサポートが付いているという安心感が、彼らの不安、そして引っ込み思案なところを前向きな気持ちに変えるのだと言う。

 初めはミヤギさんの言うことの半分も理解できずに、そんなものなのだろうか、と、半信半疑での参加だったが、いつの間にだか二年が経ち、僕も同じようなことを、新人のボランティアスタッフに言って聞かせるようになっていた。


 人は変わる、か・・・。


 岸本さんの言葉を不意に思い出し、ひとり苦笑する。



 ボランティアの手伝いは、本日も滞りなく終了し、総ての片付けが終わったのが午後一時半だった。

 僕は病院裏の搬入出口からスタッフを乗せたワゴンを見送ったあと、自らは正面入り口の戻って、帰途に就こうとしていた。

「Tomyくん」

 背後から若い女性の声に呼び止められ、振り向くと、一人のナース姿の女性が立っていた。

「あ、どうも。えっと、岸本さんの彼女の・・・、由紀恵さん」

 声を掛けられた瞬間から、多分そうなんじゃないかとは思っていた。

 お店関係以外で、僕のことを『Tomy』と呼ぶ人間は居ない。

「今日もご苦労様。毎週休まずに、偉いね」

「いえ、やることなくて、暇なだけです」

 僕の返事は明らかに照れ隠しだ。自分でも理解しているし、相手にも丸分かりだと思う。

「聞いたわよ、岸本に。良いこと有ったって?」

「え、あ、いやぁ・・・。あ、そんなことより、酷いじゃないですか、由紀恵さん。僕のこと、こっそり岸本さんに教えちゃうなんて」

「違うよ、あれは。私は最初にTomyくんのこと見掛けた時、そのことを普通に岸本に言ったの。そしたら岸本が、『俺も黙っておくから、お前も黙っとけ』って。それで、毎週火曜日と金曜日のお昼の時間は、私もTomyくんに遭わないように、結構コソコソしてたのよ。そしたら急にこないだ、『もう良いよ、声掛けても』って言い出すから、私も『何で?』って訊き返したの。そしたら、Tomyくんの最近のこと聞いちゃって」

 言葉自体は言い訳のように聴こえなくもないが、彼女の口ぶりからは、全く言い訳をしようという意思は感じられない。

 寧ろ面白がっている。

「岸本さん、お喋りだなぁ」

「あれ?知らなかった?岸本はお喋りよ、昔っから」

 由紀恵さんは笑いながら付け足す。

「あ、でも勘違いしないでね。お喋りなくせに、自分で言わないって決めたことは絶対に言わないの。そして彼、Tomyくんのことが大好きよ。女の私が嫉妬するくらい。いっつも『あんないい奴は珍しい』って、言ってるわ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 僕の何処が良い奴なんだろう?

「そういうのって、自分じゃ分からないものよ、多分ね」

「はぁ・・・」

 何とも答えようが無く、ワザとらしく首を傾げるしかない僕。

「あ、ごめんね。もう帰るとこだったのよね?私、やっとコソコソしなくて良くなったと思ったら嬉しくなっちゃって、つい声掛けて呼び止めちゃった。それじゃ、私も行くね。あ、それと、彼女さんにも宜しくね。今度、私にも紹介してね。一緒に飲みましょ」

 由紀恵さんはそう言うと、軽く片手を挙げて「じゃあね」と、去って行ってしまった。


 何だったんだ?


 僕は傘を差し、雨の中に歩き出した。




 部屋に戻ると、久しぶりに一人きりの部屋は、なんだか寂しい。

 買ってきたパンを電子レンジの上に置いて、僕はベッドに横になり仮眠をとる。

 午後四時に目覚ましが鳴り、僕は再び起き上がり、シャワーを浴びて、店に向かった。

 雨はまだ上がる気配すらない。


 降り続く雨の影響は覿面てきめんで、オープンからずっと開店休業、暇を絵に描いたような状態が続いた。

 今日は岸本さんを始めとする常連客連中も訪れることは無く、僕は午後十時には早々と前掛けを外し、カウンターに腰掛けてジンジャーエールを飲みながら携帯電話でSNSの話題を漁り始めていた。

「マスター、今日、もう上がっちゃってくださいよ。後片付けはやっておきますから」

 十一時を過ぎた頃、北島が僕にそう声を掛ける。

 僕は改めて腕時計を確かめ、「ああ、じゃあ、そうさせて貰うよ」、そう言って席を立った。

「雨、こんな調子じゃ、美香さんも早く帰って来てるんじゃないっスか?」

 カウンター後ろの窓越しに雨の様子を伺いながらそう言った北島に、「かもな」と答える。

「それじゃ、あと、頼むよ。十二時にお客が居なけりゃ、お前らも、そのまま店閉めて上がってくれ」

「お疲れ様でした」

 僕は北島の声を背中に聞きながら、店を後にした。



 店を出て十五分後には部屋に着いた。

 傘を畳み、鍵を開けてドアノブを回し、真っ暗な部屋に一歩入って玄関壁際の照明スイッチを押す。

 パッとLED照明に照らされた室内は、僕が夕方に出掛けた時と同じ空気感のままだ。

 美香はまだ帰宅していない。

 僕は携帯電話を取り出して、電話帳画面を開いたが、直ぐに思い直して、それをテーブルに置く。

 美香に連絡を入れてみようかと思ったのだけれど、ひょっとしたらまだ仕事中かも知れない。

 うちの店は暇だったが、同じ水商売でも、業態、立地の違いによっては、雨の日の方が忙しい店だって有りはする。

 美香の言っていた通り、峰のスナックが居酒屋風な店であれば、連休明けの近所のお客で賑わっていることだって有り得る。

 取り敢えず、シャワーでも浴びよう。

 ほんの少し歩いて帰って来ただけで、雨の滴と汗で、身体はジトッとして気持ち悪かった。


 シャワーを浴びている最中、頭のシャンプーを流す為に目を閉じる。

 頭からシャワーのお湯を被っている間、勿論何も見えない。

 目を閉じて感覚が鋭くなっているのか、それとも何も見えないから要らぬ想像をするのか、嫌な予感がする。

 目を開けると、そこには『本当』の現実が在って、僕がバスルームに入るまでの世界が消えているのではないか、そんな可笑しなことを考えてしまい、目を開けたくない。

 そんなオカルトチックで荒唐無稽なことは起こる筈がないとは分かっていても、僕は長いこと目を開けるのを躊躇っていた。

 どれくらいの時間、そうしていただろうか。

 それでも僕は目を開け、シャワーの蛇口に手を伸ばし、シャワーを止めた。

 室内換気扇の音がやけに大きく感じたが、それ以外、世界は何一つ変わっていない。


 バカバカしい・・・。


 頭と身体をバスタオルで丁寧に拭き、パジャマ替りのジャージとTシャツを着ようとして、ふと考え直してジーンズと外行きのTシャツを着ることにする。

 何となくだ。

 何となく、美香の帰宅を待つのに、ジャージで待つのが嫌だった。


 美香との同棲生活が始まる前、僕はお店でそこそこに飲んで帰るか、足りなければ帰ってシャワーを浴びた後に必ず缶ビールを1~2本開けていた。

 僕は冷蔵庫からトマトジュースの缶を取り出し、グラスに注いだ。

 何となくだ。

 何となく・・・。


 美香は午前一時を回っても帰宅しない。

 今は美香を信じるしかない。

 何となく、そう思った。


 そして、美香が帰宅したのは、それから一時間経った、午前二時過ぎだった。


 帰宅した美香は、特に酔っていることも無く、勿論、着衣の乱れもない。

 変なことに巻き込まれたということではないのだ。


 ただ、彼女は、傘も差さずに歩いたのだろう・・・。全身ずぶ濡れの姿で玄関に立ち尽くし、出迎えた僕を見詰め、微笑みながら涙を流していた。

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