第20話
まるで予想も想像もしていなかった美香と僕との期限付き(その期限がいつまでなのかも明確ではないのだが)同棲生活は、文字通り『唐突』に始まった。
初日(その日の晩)、美香が奮発して購入したローストビーフとちょっと高めの赤ワイン(フランス産のピノノワール)、ブルーチーズドレッシングのサラダ、バケットに冷製パンプキンスープ、それからデザートにブルーシールのラムレーズンアイスクリームと、今日は一体何のお祝いなのだろうというくらい、不思議な空間になった僕の部屋で、美香とテーブルを挟んで向かい合った僕は、改めて緊張していた。
突然の再開の時とはまた違ったこの緊張感は、一体どこに原因があるのだろうか。
確かにこの五日間、ある意味なし崩し的にこういった状況まで進んでしまい、然も僕にとって想像、予想の遥か斜め上を行く出来事の連続は、完全に所謂『日常』の感覚を麻痺させていた。
美香との同棲生活が始まる(始まった?)期待感と、それとは裏腹に果たしてこの選択は間違っていないか、これから本当に上手くやっていけるかという不安な気持ちが入り乱れているような気がする。
拙速すぎはしないか。今度こそ、確りと時間を掛けて、美香とのこと、彼女の家族を含め周りの人達のことも考えながら行動すべきではないのか。
美香の家族、友人に僕が嫌われていることは間違いない。
そんな彼女にとって大事な人達を裏切り、嘘まで吐かせている原因が僕であると思うと、今からでも美香に向かって『やっぱり帰った方が良い』、そう口にしてしまいそうだ。
果たして美香は、実のところどういうつもりでいるのだろうか。
そういえば、この五日間で、美香から僕のことを『好きだった』とは聞いたが、今現在僕のことを『好き』『愛してる』とは聞いていない。
いや、それは僕も同じか。『美香が居てくれることが嬉しい』とは言ったが、『好きだ』とか『愛している』とは言葉にしていないではないか。
言葉は気持ちを伝えない・・・
またあの言葉を思い出してしまった。
誰が言ったんだろう・・・そんな無責任なことを・・・
「ねぇ、美香訊いて良い?」
夕飯を済ませ、残ったワインをオレンジジュースで割った即席サングリアをチビリチビリやりながら、キッチンで洗い物をする美香に尋ねてみる。
「どうかした?」
「いや、どうかしたって訳じゃないけど・・・」
「ん?難しいこと?だったら、もうすぐ洗い終わるから、すぐそっち行くよ。待ってて」
僕が言い澱んだせいで、ちょっと僕としては困ったことになった。
敢て軽い感じで訊きたかったのだけれど、改まって質問をすること、それに対して美香が酷く真面目に答えてくれた時、その答えを聞くのが怖いような気がしていた。
どういう風な質問をしたら良いのだろうか、そういうことを考えて決定する間もなく、本当に直ぐに、美香は部屋に戻って来た。
「どうしたの?訊きたいことって?」
美香は僕の腰掛けるベッドの隣に自分も腰掛け、僕のことを覗き込むようにして微笑んでいる。
「あ、うん、大したことじゃないんだけど・・・。あのさ、今日、家出るとき、家の人に何か言われたりしなかった?・・・何か疑われたとか・・・」
「大丈夫だよ。ミィネのところに行くって言ってて、疑われてないから。それに、本当に昨日までそのつもりで、前から言ってあったから。ひょっとして、心配してくれてる?」
「あ、ああ。心配っていうか、ホントに大丈夫なのかなって・・・。後でバレたりすると、何ていうか・・・」
「うん、心配してくれてありがとう。でも、大丈夫。・・・それに、もし・・・ううん、何でもない」
本当は、美香の『それに、もし・・・』に続く言葉を聞きたかったが、それをこちらから更に訊くことが出来なかった。訊いてはいけない気がした。
「きゃっ、どうしたの?急に」
僕が美香の肩を抱きかかえて、そのまま覆いかぶさるようにベッドに押し倒すと、美香は目を見開いたまま少し驚いた表情で、僕のことをジッと見詰め返す。
僕は痛いくらいのその視線に、思わず目を逸らしそうになった。
本当に訊きたいことを訊いちゃいない。
本当に言うべきことを言ってもいない。
言わなくちゃ。
何を?
言わなくちゃ。
分かっているだろう?
言わなくちゃ。
でも・・・
言わなくちゃ。
そんな・・・ひと言じゃ・・・
言わなくちゃ。
その一言が大事なんじゃないのか・・・
だけど・・・
「美香、明日なんだけど、必要なもの、足りないもの、何かあったら、午前中に買いに行こうよ。だから、今日はもう寝よう。明日の夕方から、俺も美香も仕事だし」
美香は少しだけ間をおいて、それから「うん」と微笑むと、覆いかぶさる僕に首を少し持ち上げて唇にキスをしてくれた。
僕は照れ隠しに慌てて言う。
「あ、じゃあ、俺、先にシャワー浴びるよ。すぐ上がるから、美香あとで良い?」
「うん、いいよ」
僕が宣言通り直ぐにシャワーから上がると、美香もその後バスルームに向かった。
僕はベッドに横になり、流れるシャワーの音を聴きながら、自問自答を繰り返す。
これで良かったのか?
俺は冷静か?
美香が本当に望んでいるのは?
何故言えなかった?
何を戸惑っている?
前に進むんじゃなかったか?
正直になるんじゃなかったか?
嘘は吐いていない・・・
でも・・・
シャワーの音が段々と遠退いていく気がする。
疲れているのだろうな、俺。
美香はもうすぐ上がって来るのだろうけど・・・。
意識が・・・。
何となく、隣に潜り込んでくる美香の気配を感じながら、そして頬に美香の唇が触れるのも分かったけれど、僕はそのまま堕ちていった。
翌朝、何かの、どこかで見たことがあるような、まるでデジャブみたいな光景で目が覚める。
カーテンから零れる朝の陽射し、キッチンから聴こえるまな板を包丁でトントンと叩く音、沸き立ての味噌の香り・・・。
僕は心地好い目覚めに、一度薄く開けた目を再び閉じて、暫くの間、その幸せな空気に包まれていた。
カチャカチャと食器を取り出す音、それからガスコンロをカチッと止める音、目を閉じたまま、何となくキッチンの美香の後ろ姿を脳裏に思い浮かべ、ニヤついてしまう。
静かに部屋の引き戸が開き、僕が目を開けると、美香がそこから顔を出し「起きた?」と微笑みかける。
「ああ、うん」
「じゃ、起きて顔、洗ってきて。朝ご飯、出来たから」
「ああ、うん」
僕は起き上がり、ベッドの掛け布団を畳もうとすると、美香は「いいよ、うちがやっておくよ」、そう言って僕をバスルームの洗面台に促してくれた。
「ああ、うん」
テーブルにはご飯、味噌汁、卵焼きに焼き海苔が並ぶ。
高校を卒業して以来、感じたことの無かった、幸せな朝だ。
「冷蔵庫のもの、勝手に使っちゃったよ」
「ああ、全然問題ない」
「昨夜はよく眠れた?」
「ああ、うん。まぁ」
「ってか、カズくん、よく寝てたよね。うちが戻った時にはもう爆睡してたし」
「ごめん、途中まで意識あったんだけど・・・ごめん」
「ううん、いいの。うちもすぐ寝ちゃったから。多分、お互い疲れてたんだよ」
何が可笑しいのか、クスクス笑う美香に釣られて、僕も笑ってしまったものの爆睡している寝顔を見られたことが、少し気恥ずかしい。
そんな僕の様子を見て取って、美香は意地悪を言う。
「照れてるカズくんも、かわいい」
「やめろよ、そういうの・・・」
でも、悪い気はしないのだ・・・。
朝食を済ませ、近くのドラッグストアに行き、帰りに鍵屋に寄った。部屋の合鍵を作りに。
僕は夕方四時半頃に部屋を出る。美香は午後七時の店のオープンに合わせて、六時頃出掛けるという。
帰りは二人とも水商売ということもあり、どちらが先に帰宅するか分からない。
その辺りは臨機応変に、お互いの帰宅を無理に待つことはしないで、お互い勝手に床に就くようにしようと確認して、美香に合鍵を渡した。
「なんかさ、新婚さんみたいだね」
「そっか?」
僕は嘯く。
本当は、それも悪くない、そう思っている。
美香も本気でそんなことを思っているのだろうか?そう思ってくれていれば、僕は・・・
それから週末までの五日間、世間が長期連休中ということもあり、美香も僕もお店の仕事が忙しくなることも無く、深夜二時頃には帰宅し、シャワーを浴び、一緒にベッドに入った。
朝は大体九時頃に目覚め、朝食、洗濯を済ませ、二人で散歩がてらに近所の公園を歩き、帰りにスーパーに寄って、買い物をした。
午後三時頃に喫茶店で、お昼とも夕飯とも言えない食事を摂り、それから僕は部屋に帰ってシャワーを浴びて出勤する。
美香は僕を見送った後、洗濯物を取り込み、部屋の掃除、キッチンの片付けをしてから出掛けると言った。
僕は通常通り五連勤だったが、美香は木曜日に休みがあると言って、その日は実家に顔を出し、そのまま泊まることにしていた筈だったが、結局、夕方僕と一緒に部屋を出た美香は、僕が仕事から帰ると、簡単な食事の用意をして僕の帰りを待っていた。
「あれ?どうした?今日は家でそのまま泊まるんじゃなかった?」
「うん、そのつもりだったけど、何となく、戻って来ちゃった。あ、でも、ちゃんと家族で夕飯は食べて来たんだよ。だから大丈夫・・・」
美香が言う『大丈夫』を信じる他ないのだが、もうこの頃には僕の感覚も麻痺していて、そのことについてあまり考えないようになっていたのかも知れない。
翌週も僕はいつも通り日曜、月曜の連休で、美香もそれに合わせて日曜、月曜、それに木曜日に休みを貰って、日曜日は映画を観に出掛け、月曜日は特にすることも無く、再びFZRで海岸沿いを流し、黄昏時の海辺を散策した。
砂浜で履いていたサンダルを脱ぎ、裸足になって僕の数歩前を歩く美香の後ろ姿をボンヤリと眺めながら、僕はこのままずっとこの
不意に振り向いた美香が僕に向かって言う。
「ねぇ、このまま、どこかに、行っちゃおっか?」
「え?」
「冗談よ」
本気とも冗談とも取れないその口ぶりが、何だか妙に寂しさを含んでいるように感じたのだけれど・・・僕は・・・。
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