第16話
新緑、東南からの潮風、煌めく太陽、そして心地好く響き渡るエンジンの回転音。
背中には美香の体温を感じ、全身を初夏の匂いに包まれて、僕はアクセルスロットルを大きく開ける。
エンジンは更にうなりをあげ、僕の腰のベルトを握り締める美香の手にもギュッとに力が入り、僕らは一気に右カーブを駆け上がった。
駆け上がり、その先に開けた眼下には、まるでクールバスクリンでもぶちまけたみたいな『蒼』が広がっている。
アクセルを緩め、僕らを乗せたFZRの速度が徐々に落ち着いてくると、美香は僕の肩越しに身を乗り出すようにして叫ぶ。
「海って、こんなに蒼かったかしらっ?うち、随分前に忘れてたよっ。うちらの海がこんなに蒼かったことっ」
風を切る音に半分くらいかき消される美香の声は、それでも彼女のハイテンションが伝わって来るには充分だ。
「ははははっ、そうさ、蒼かったんだよっ。俺も今そう思ったっ。掴まれ、美香っ」
美香が再び両手で僕のベルトを握り締め、ヘルメットを僕の背中に押し当てるのを確認すると、僕はギアを二つ一気に開放し、アクセルスロットルを回した。
あの頃みたいだ。
ひょっとして、だから美香も、FZRで出掛けようって、言ったのだろうか。
戻ったのだろうか、あの頃に。
戻れるのかな・・・あの頃の・・・
薄暗い水族館の水槽を前にして、はしゃぐ美香の姿を見ていると、本当にあの頃に戻ったみたいな錯覚を起こす僕が居た。
美香との再会から四日が経ったが、そんな短い時間で埋められるような溝ではないことくらい僕にも分かっている。
「すごいね、深海にはこんな大きな蟹が居るんだね」
「ああ、ほんと、美味そうだ」
「あははっ、前にも同じこと言ってた」
「そっか?よく覚えてるな、そんなこと」
「チンアナゴって、かわいいね。ちょっと臆病者なところが、またちょっと」
「どう見てもムーミン谷のニョロニョロだけどね」
「あははっ、言われればそう見えてきちゃった。でも、あれはあんまりかわいくない」
「お刺身にするなら、美香はどの魚が良い?」
「ええっとぉ・・・って、しないからっ」
「タコってさ、英語名はoctopusじゃん?」
「うん」
「フランス語で何て言うか、知ってる?」
「?知らないけど、カズくん知ってるの?」
「ああ。アスィガハポォンって言うんだって」
「へぇ、でも何でそんなこと知ってるの?」
「なんでだろ?ところでイカは何て言うか知ってる?」
「知る訳ないじゃない」
「アスィガ、ジュポーン」
「!」
「因みに、おはぎは、なかもちぐるりあ~ん」
「やだぁもう、ちょっと信じかけちゃったじゃない」
「ね、ね、カズくん、イルカショー、午前の部、11:30だって。早く、早く」
「大丈夫だよ、慌てなくても。まだ十五分もある」
「違うの。最前列で見たいの」
「はいはい」
イルカショーではまんまと美香の希望通りの最前列に座った僕らは、美香が調教師の飼育員に指名されて、プールのステージ上に呼ばれることとなり、大きな輪っかを持たされて、その輪を、ジャンプしたイルカが
「それでは皆さん、お手伝いをしてくれたお姉さんに、温かい拍手を!」
飼育員の声に、会場から美香に向けての拍手が盛大に鳴り響き、美香は何故だか僕の方に手を振った。
僕もそれに応えて手を振り返すと、僕に気付いた飼育員が続けて言うのだった。
「あちらの彼氏のお兄さんにも、あんまり関係なかったけど、ついでに盛大な拍手を!」
巻き起こる笑いと共に、訳の分からない拍手と視線を集めてしまった僕は、穴があったら入りたいと思いつつ、その気持ちとは裏腹に右手を挙げ、左手で頭を掻きながら、それに応えていた。
「ああ、楽しかった」
「良かったね」
「うん」
「でもさ、俺は美香がこっちに手を振るから、ちょっと恥ずかしかったよ」
「そぉお?あっちから見てたら、カズくんも満更でもなさそうだったよ」
「そっか?」
「うん」
「そっかなぁ・・・」
敢て腑に落ちないフリをする僕を他所に、美香は僕の手を引く。
「ね、また館内に戻ろっ」
「さっきも言ったけど、今度こそ、慌てなくて大丈夫だよ。水族館の水槽は逃げないから」
それでも美香は僕の手を引き、「早く」と言う。
美香に引きずられるようにして歩く僕は、ふと、不思議なことを思う。
時間も逃げないのだろうか・・・
美香は何かを焦っているのか・・・
いや、僕が過ぎてしまった時間を追いかけているのか・・・
纏まらない・・・、思考が・・・
時間は一方向にしか進まない・・・前にしか・・・
戻ることは出来ない・・・
つまり・・・
ダメだ、僕の頭の中は散らかり過ぎている・・・
少し遅めのランチを水族館のレストランで済ませ、その後、水族館に隣接する海沿いの公園を二人で歩く。
美香が「あっ」と小さく言って、歩く正面先に何かを見付けた。
「カズくん、アイスクリン屋さん、発見。久しぶり食べようよ」
「あ、ホントだ。良いねぇ、俺も久々だ」
「ダメだよ、10個とか言っちゃ」
「言わないよ、そんなこと。あれ以来言ったこと無いよ」
「ホントにぃ?」
美香が笑うので、僕も釣られて笑う。
「ホントだよ。それに、多分売ってるのはおばちゃんだよ」
「おばちゃんじゃなかったら、言っちゃうんだ?」
「だから、言わねぇって」
「アイスクリン、二つください」
僕がアイスクリン売りのおばちゃんに二百円を渡すと、おばちゃんは「ありがとうございます。どうします?バラにしますか?」、そう訊いてきた。
「あ、ええ、じゃあ、お願いします」
「あいよ、ちょっと待っててね」
するとおばちゃんは、カップスタンドにコーンカップを二つ並べ、ヘラで掬ったアイスクリンを器用に、それでいて手際よく盛り付けていき、あっという間に薔薇の形のアイスクリンを二つ作ってくれた。
「はい、お待ちどうさま」
アイスクリンをそれぞれ手渡された美香と僕は、お互い顔を見合わせてから、おばちゃんに丁寧にお礼を言った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございました。また宜しくお願いします」
アイスクリンのパーラーを離れ、もう一度二人顔を見合わせると、美香が口を開く。
「すごいね、ホントに薔薇の花みたい。食べるの勿体ないよ」
「そうだね。昔、美香が作ってくれたのとは大違いだ。美香が作ってくれたのは、丸いのがポコッて乗ってるだけだった」
「それは仕方ないじゃない。うち、まだ高校生だったんだよ」
「そっか。それは仕方ないか」
「溶けちゃう前に写真撮ろうよ」
「ああ、それ、いい考えだね」
僕は携帯電話を取り出し、お互いのそれぞれの薔薇のアイスクリンを二つくっつけるようにして接写する。
「あとで、うちの携帯にも送っといて」
「あ、うん、今送るよ」
「たまに食べると、美味しいね、冷たくって」
「ああ、そうだね」
砂の上に腰掛け、二人、アイスクリンを舐めながら、海を眺めていた。
日暮れまでにはまだ随分と時間があるが、少し傾きかけた太陽の陽射しは柔らかく、海面を滑るように吹く風は心地好かった。
「美香、渡したいものがあるんだ・・・」
「・・・なに?」
僕はデニムのジャケットの胸ポケットからそれを取り出す。
「これ、本当は、あの時、渡すつもりだったんだけど・・・、あんなことになっちまって、出来なくって・・・。随分遅くなって、今更なんだけど・・・」
取り出したそのピンクの小さな巾着袋の紐を解き、中からシルバーのリングを摘まんだ僕の指先は、間違いなく震えていたし、僕は無理に笑おうとするのだけれど、頬の筋肉は突っ張り口角はヒクつくしで、どう考えても上手く笑えない。
「カズくん・・・」
一瞬、美香の表情が強ばったように見えたのは、僕の気のせいだったのだろうか。
美香の反応がどういったもので在って欲しい、などと考えていた訳ではない。
それでも、その瞬間、僕はリングを渡そうとしたことを後悔にも似た『失敗だったかも知れない』、そんな気分になったし、過去に囚われ、やはり美香に許しを請おうと言い訳をしているような自分が、心底恥ずかしい気持ちになるのだった。
「・・・ありがとう」
リングを受け取ることを一瞬躊躇ったかのように見えた美香だったが、直ぐに笑顔を見せ、そのリングをギュッと右の掌に握り締めた彼女は「大事にするね」、そう言って、視線を海の向こう側に移し、遠い目をする。
リングを受け取った美香にどうして欲しい、そんなことは本当に考えていなかった。
なのに今、美香がそれを指に嵌めてくれないことに寂しさを感じているし、ペアのもう片方である自分のリングも、ポケットから取り出すことが出来ない。
暫く黙ったまま、二人で海を眺めていたが、何か言わなくちゃと思えば思うほど、僕はどうしても次の言葉が出てこない。
すると美香の方が先に口を開いた。少し大袈裟に、何かをリセットするかのように。
「今日はホント、楽しかったよ。カズくん、相変わらず可笑しなことばっか言うから笑っちゃったし・・・。指輪も貰っちゃって・・・。嬉しかったよ」
何となく、美香の言葉が「さよなら」と言っているように聴こえて、辛すぎてどうにかなりそうな自分を必死に抑え込む僕は、次の美香の言葉に、更に混乱してしまう。
「これから、どうする?もし迷惑じゃなかったら、このまま、カズくんの部屋に行きたいな・・・。うち、夕飯作るよ。スーパーに寄って帰ろ?」
何がどうなっている?
ことごとく、予想(予感)と違う方向に向かっていないか?良い悪いは別にして・・・。
いや、僕にとっては望みようもないくらい、良い方向なのかも知れない・・・。
良いのだろうか?本当に、こんなんで・・・。
「あ、ああ。俺は構わないけど・・・。でも、大丈夫なのか?」
美香は即座に僕の言葉の意味を理解して答える。
「うん、家の方は大丈夫。今日はミィネと一緒って言ってあるし、『多分ミィネの家に泊まる』ってことになってるから・・・」
「それって・・・、峰さんも、知ってるの?ええっと、本当は俺と・・・ってことを・・・」
「うん、ミィネには言ってある。『好きにすれば』って、少し呆れてたけど・・・」
「そっか・・・」
ふと、美香の右手が目に入り、僕は咄嗟にあることに気付いた。
美香がリングを握り締めた小さな拳は、先ほどよりもずっと強く、震えるくらい強く握りしめられている。そして、美香の肩は小刻みに震えているじゃないか。
美香は壊れるくらい勇気を振り絞って僕に話し掛けていた。
僕には言えない『何か』を振り払い、悲壮な決意が在るに違いなかった。
本当にバカだ、僕は。
言えない『何か』なんて、どうでも良い。
考えるな、俺。
「美香が、来てくれるなら、俺は、嬉しい」
言ってしまった・・・。本当のことを・・・。
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