第10話
乱闘騒ぎから一週間後(退院から三日後)、シーズンオフで誰も居ないビーチ
右のポケットの中で握り締めた手の中には、1月5日の午後に買ったシルバーのリングがふたつ。
泣きたい訳ではない。
それでも、涙は頬を伝う。
バカみたいだ。
自業自得なくせに、何で涙なんか流れるんだろう・・・。
もう携帯電話で美香の番号を開くのも止めにした。
勿論彼女からの連絡はない。
僕はポケットの手を抜きだし、握り締めたリングを、大きく振りかぶって投げようとしたのだけれど、投げることが出来ず、その二つのリングを指で摘まみ、桟橋の先の海にそっと落とした。
そして、そのリングがユラユラと
このビーチで美香に出会った。
あの日、美香は夏のアルバイトで、桟橋の袂でアイスクリン売りをしていた。
アイスクリン売りっていうのは、地元のおばちゃんと相場が決まっていると思っていたのに、どう考えてもサイズが大き過ぎる麦わら帽子を被り、半袖のセーラー服に前掛けをしてビーチパラソルと佇む美香に、僕は一目惚れをした。
そして、こう言った。
「アイスクリン、10個ください」
「はい、ありがとうございます。・・・でも・・・、三人・・・ですよね・・・?」
半分笑顔、残り半分は不思議そうな表情の彼女に、僕は連れの男友達二人を振り返りながらワザとお道化たように答える。
「うん、あいつらが2つずつ、、僕が6つ食べるから、何も問題はないよ。但し、いっぺんに3つも4つも持てないから、あいつ等には2個ずつ渡して、僕にはわんこそば形式で、『食べると渡す、食べると渡す』って感じで。あ、でも、途中で眉間が『キーンっ』ってなったら、ちょっと待ってって、言うかも知んないけど」
クスクス笑う彼女の笑顔はまるで、夏の陽射しに照り返す波の煌めきのようだったし、僕はどう仕様もなく彼女に惹かれたし、もっと言えば、運命だとも思ったし・・・。
そして、その晩、次の日も彼女のアイスクリンを買いに行こうと思いながら、夕飯がてらに気まぐれで入った喫茶店『ルビー』(大学近くには数多くの喫茶店があり、学生それぞれが行きつけのお店があって、僕は基本『キャンパス』派で、時々『ブルーアイズ』に顔を出していたが、『ルビー』には大学入学以来、入ったことが無かった)で、再び美香に出会った。
「いらっしゃいませぇ」
「あっ」
「えっ」
本当に、運命だと、勝手に納得したんだ、その時。
そして聞かされたのは、あのビーチの桟橋で、彼女があの場所に立っていたのは、ほんの二時間くらいだけだった、ということ。
何でも、従姉弟のおばさんが、どうしても行かなくちゃならない役所への用事の、ほんの二時間の間のピンチヒッターだったらしい。
完全に、運命だと、確信した、そんな瞬間。
真冬の冷たい海風に吹かれながら、僕は、あの夏の日を思い出していた。
それから、誰に言うでもなく「さよなら」と呟いて、ビーチを後にしたのだった・・・。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
「ごめん、俺ばっかり喋ってしまって・・・」
傍らで正面のフロントガラスの先を見詰めながら涙を流す美香の肩を抱き寄せたい衝動と、これきりで終わりにしなければならない、それがせめてもの懺悔だという思いが交錯する。
こちらに目を向けることも無く、正面を見据えたままの美香が、ポツリと口を開いた。
「知ってた・・・」
「えっ?」
「知ってたよ・・・色んなこと、有ったって・・・」
「何で・・・?」
「ううん、違うの。本当は、最近知ったの・・・。だから・・・もう遅いかも知れないけど・・・、だから、会いたくなって、来たの・・・。本当に、好きだったから・・・」
僕は美香の言葉の意味が分からずに口籠ってしまう。
僕は頭の中で美香の言葉をバラバラにして、そして繰り返す。
『知ってたよ』
『もう遅いかも知れないけど』
『だから、会いたくなって』
『好きだったから』
今度は僕が黙り込んでしまったのに対して、自らの頬の涙を人差し指で拭いながら、美香は話し始めた。
「ちょうど半年くらい前に、ミィネから聞いたんだ、カズくんのこと・・・」
話が読めない。『ミィネ』というのは、四年半前に、あの『峰』と名乗ったあの時の女の子、なのだろう。
だけど何故、彼女が僕のことを・・・。
「でもね、ホントはミィネには言われたの、会うのは止めろって。だけど、出来なかったよ、そんなこと・・・。会わないでいるなんて・・・、出来なかったよ・・・」
本当は『どうして、峰さんが・・・?』、その言葉が喉まで出掛かった。
しかし僕は、その言葉を無理矢理に飲み込み、そして気付く。
今は『峰』のことなんてどうでも良く、何よりも、美香の話を聞くべきだ、と。
そして、ハッとしたのだ。
これまで、僕は美香の言葉に、真摯に向き合ったことがあるだろうか?
自らの自己主張ばかりで、美香の気持ち、想い、心情を慮ったことが、果たしてあっただろうか?
今日もここまで、自分が一方的に喋り、自分の気持ちを美香に押し付けるばかりで、美香のことを何一つ思いやっていない自分ではないか?
後悔も、謝罪も、懺悔も、それは僕自身の問題でしかなく、唯自分の気持ちを慰めるだけの、都合の良い言い訳を並べ立てているに過ぎない・・・。
僕は美香のことを、何一つ分かっちゃいないし、分かろうとしていなかった。
聞かなくちゃ。
ちゃんと、向かい合わなくちゃ。
美香が言った『もう遅いかも知れないけど』という言葉が、やけに重たく、頭の中で木霊する。
喧嘩をしてトラブルを起こしたこと、智恵美先輩とは結果、何もなかったこと、そして、あの日の病院に担ぎ込まれたこと、美香は峰から聞かされたという。
「カズくんが来なかったあの日ね、ミィカ、どうしても信じられなくって、カズくんの友達とかに連絡して、カズくんのこと聞こうと思ったんだけど・・・、それも怖くて・・・。ごめんなさい・・・。ちゃんと、誰かに電話して、カズくんのこと、訊けばよかった・・・。本当に・・・、ごめんなさい・・・。
でも・・・、怖かったんだ・・・、どんな答えが返って来るのか・・・、怖くて・・・。
ごめんなさい・・・」
先ほど拭ったばかりの涙が、再び美香の頬を伝うのだが、今度はそれを拭うこともせず、掠れる声で、何度も『ごめんなさい』を繰り返す彼女に、僕は一刻、一秒でも早く、その『ごめんなさい』を否定しなければ、そう思うのだが、喉に詰まった言葉がそれ以上あがって来ない。
悪いのは勿論美香ではなく、僕の方だし、美香に想われるような価値なんて僕には無い。
謝るのは僕の方であって、決して美香ではない。
なのに、どうして、美香は『ごめんなさい』なんて言うのだろう?
不意に目頭がじわっと熱くなるのを感じ、生暖かいそれは僕の頬を伝い、そして、顎からぽとりと膝に落ちる。
あれ?僕は泣いているのか?
そうなのだろう。恐らく、僕は泣いている。
涙を止めることも出来なければ、それを拭う為に手を動かすことさえ出来なないし、そうすることが無意味にさえ思えた。
少しだけ、何かに近付いている感覚があるのだが、それが何なのか、何に近付いているのかは分からない。
それは容の在るものではない。
でも、確かに何処か、身体の中、胸のずっと奥の辺りにそれは在って、触れたくても触れることは出来ず、これ迄も何かの拍子に眺めることがあっても、必ずいつもそれが何なのか確かめることを諦め、その内忘れてしまう何か・・・。
今もまだそれが何なのか、分かっている訳ではない。
それでも、もう少しで理解出来そうなところに近付いている気がする。
何なんだ。
もう少し、あと少し、近付きたい。そして知りたい。今度は、諦めたくない。
次の瞬間、懐かしいシトラスの香りに包まれ、僕の唇に、柔らかい美香の唇が重なる。
僕の首に巻き付けるように回された美香の腕は、小刻みに震えているのか。
一瞬、躊躇った。
だけど、ほんの一瞬だった。
すぐそこまで近付いていた『それ』が、胸の奥の方でスパークして、その衝撃で、意識はハレーションを起こし、世界は真っ白になる・・・。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
美香と僕のどちらが言い出したのか、それは覚えていない。
いや、どちらも、何も言わなかったかも知れない。
少なくとも、僕は言い出した記憶は無いし、美香の言葉を覚えている訳ではない。
ひょっとしたら僕の記憶が無いだけで、実際は僕が望み、僕が言い出したことかも知れない。その可能性の方が、美香が言うよりも遥かに可能性としては高いと思う。
車は、ホテルの駐車場で停まった。
ホテルの一室、ベッドの上、互いに膝立ちで、一糸纏わぬ裸の二人・・・。
見詰め合い、ゆっくりとその瞳は近付き、それから、美香は自らの瞳をぎゅっと閉じる。
僕はその閉じられた瞼を、愛おしさに目を細めて眺めながら、唇を奪い、左腕で美香の肩を抱き寄せ、右の掌と指は、もう既に自分の意識なく、勝手に美香の胸を包み込むように
美香の小さく、か細い喘ぎ声が、僕の左の鼓膜にまとわり付き、僕の総ての思考は停止した・・・。
何も考えられない。
唯そこには、『快楽』という名の『欲望』と、『希望』という名の『悦び』が在るだけだった。
美香が浴びるシャワーの流れる音をボンヤリと聴きながら、ベッドに仰向けのままで煙草の煙を目で追いながら思う。
本能(欲望)が先を行ったのか、理性が追い付かなかったのか・・・、いや、それはどちらでも良い。
真実は、どちらに在るのだろう?
いや、それもどうでも良い。
今、現実が、ここに在るだけだ・・・。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
しかし、その現実は、ほんの一部でしかなかった。
前編 「再会」・・・・了
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