第6話
アパートに戻ってシャワーを浴びていると、玄関のチャイムが鳴ったような気がしたが、気のせいか、若しくは新聞の勧誘なんかだろうから放っておけばいいと思い、返事もしなかった。
シャワー室から出て、バスタオルを首に掛けて、下着のボクサーパンツ一枚で1DKの寝室兼居間の扉を開けると、
「え?お前、なにやってんの?学校は?」
美香がベッドに腰掛けてこちらを見ていた。
美香の表情は、泣きそうなのか、嬉しそうなのか、それとも怒っているのか、何だかよく分からない表情だったが、目が合った瞬間、美香は子供みたいに「うわーん」と声を上げて泣き出してしまった。
「おいおい、どうしたんだよ」
一体何なんだ。
「だって、だって、心配したんだよ。・・・ヒック・・・全然、ヒック・・・連絡くれないし・・・」
僕も心配はしていたさ。昨夜も昼前のLINEを見た時も。
呆気にとられるとか、茫然とするとかではなく、何をどう言ったら良いのか、どういう動きをすればいいのか分からずに、僕も、笑うでもなく、怒るでもなく、ただ立ち尽くして美香を見詰める。
「初めは、ヒック・・・ミィカが勘違いして・・・待ち合わせに行っちゃったんじゃないかって、ヒック、思って・・・でも、ヒック、連絡ないし・・・何度も連絡したけど、ヒック、事故にでも遭ったんじゃないかって・・・」
そうだった!
確かに昨日は美香のアルバイト先の喫茶店で午後八時に待ち合わせていた。昨日は早上がりだと言って、映画のレイトショーを見に行こうと約束していた。
すっかり忘れていた。いや、何かあったなぁ、と朧げに思ってはいたが、それが何だったのかを思い出す努力はせず、黒田達のパトロールの帰りを待っていたのだ。
直ぐに『ごめん』と言えば済むことだった。
しかし、それが出来ない。三日前からのことを説明するのが非常に億劫な気がしたからだろうか、それとも別に何か理由があったからなのか、自分でもよく分からない。
「俺、これから午後の講義なんだ。お前も学校戻れよ。俺は全然心配ない」
何言ってんだ?ダメだろ、そんなこと言っちゃ・・・。講義があるなんて噓を吐いて、更に出て行けと言わんばかりの冷めた物言い・・・。でも言ってしまった。
美香は一瞬、瞳を見開いて、戸惑いを隠せない様子を見せたが、黙ってベッドから立ち上がり、両手の甲で涙を拭き、小さく「ごめんなさい」と言って僕の脇をすり抜けるように玄関に向かう。
ここで「待てよ」と言って腕を掴んで手繰り寄せ、「ありがとう、ごめんな」と言えば、TVドラマのようなのだろうけれど、そんなクサイ台詞も行動も出来る訳もなく、僕は今まで美香が座っていたベッドに視線を向けたままだった。
な・ん・な・ん・だ。
自分にも腹が立つし、関係ないはずの美香にも腹が立つ。美香が何一つ悪くないことは分かっているのだ。
良い悪いは別にして(僕が悪いに決まっている。でもそれは随分あとになって理解することになるのだが)、どうにも美香に対する苛立ちを覚えてしまうことに歯止めが利かない。
どういった心情なのだろうか。
お前が勝手に心配しただけだろう。
彼女面が嫌なんだ。
俺は俺、君は君。
縛られたくない。
美香だけが女じゃない。
マンネリは飽きたんだ。
一々構われるのが面倒くさい。
でも、それより、僕は、怖いのだ・・・。このまま・・・流されるまま・・・おざなりに・・・。それが恐怖であり、不安を煽るのだ。
どれも当てはまらない。
言葉にすることが出来ない、モヤモヤとした胸の中に巣食う遣る瀬無さ。
それでも苛立ちだけは、いつまで経っても治まらない。
一週間が経ち、二週間が過ぎ、僕は「専門の課題が多い」と言い訳をして、美香を避けるようになった。
それでもLINEは毎晩入る。
僕は既読スルーと「おやすみ」を繰り返すだけだった。
一ヶ月が経とうとした頃、美香からの連絡は三日に一度くらいになり、その年の十二月に入る頃には、週末に「どうしてる?元気?」と素っ気ないLINEだけが入るようになっていた。
僕もそれに対して、「元気だよ。そっちも高校卒業まであと少し、頑張って」、それくらいの返信はするようになった。
僕の中では、もう既に美香との間に、お互いに恋愛感情といったものは無くなっているのだと思っていたし、特に感傷的になることも無かったと思う。
其れより何より、夏に撮った智恵美先輩の映画が、地元コのンペで入賞したことによって、何故だか僕迄、次回作の企画会議に参加することになって、大学の講義と映研のミーティングで、そこそこに忙しい毎日を送っていて、美香のことを考えることが殆ど無くなっていたというのが正解だ。
智恵美先輩は、確か夏の作品で「学生時代最後の作品にする」と言っていたはずなのに、賞を獲得したことで少し欲張りになったようで、年明け直ぐに卒業記念の作品を作ると言い出していた。
智恵美先輩と同期の仲間達は皆、卒論の最後の追い込みで既に映画作成からは距離を置いていた為、僕とあと二人の後輩計三人が、企画段階から参加することになった。
週に三~四回行われる企画会議のあと、智恵美先輩は決まって僕を誘って、彼女の行きつけのバーに顔を出した。
殆どの場合、バーに誘われるのは僕だけなのだが、それは恐らく、お酒をそこそこ飲めるのが僕だけだったからというのと、もう一つは、僕は単なる噛ませ犬に利用されていたということは、実は随分後になってから理解した。
そう、その当時の僕は、智恵美先輩に対して、過度の期待と勘違いを混同させた、唯のお目出度い馬鹿者だった。
但し、噛ませ犬だった件に関しては、それは僕の想像であって、彼女が本当に初めからそのつもりで僕を誘っていたかどうかは、実際には本人以外は知り得ない。 しかし、結果は正にそうなった。そういう事実が在るだけだ。
結局彼女は、年明けの映画製作は放っぽりだし、卒業と同時に姿を消した。
彼女には地元テレビ局のプロデューサーとのそういった仲が在り、僕が連れて行かれたバーは、元々彼女とその彼氏のデートスポットだったということだ。
彼らの間に何があったかは知らないけれど、間抜けにも僕は、本当に彼女が消えてしまうまで、何も気が付かなかった。
消えかけていた彼氏の心の残り火に、僕が盛大に燃料投下して、再び燃え上がらせてしまった。そんなところだと思う。
間抜けもここまで来ると、それはそれで清々しい。
しかし、こっちの話は『清々しいまでの間抜けな俺』、それで済む話かもしれないが、もう一方の美香と僕との間には、二度と元には戻れない溝が出来てしまった。
恐らくその溝は、決して深くはないのだろうけど、多分、恐ろしく幅が広い。
それでも美香は何度も橋を懸けようとして、何度も僕に引き返すように促してくれていたはずだ。それなのに僕は、それに気付かないフリをして、然も更には折角美香が懸けてくれた橋を、自ら蹴り壊すようなことをして、振り返った時、対岸の美香の姿は、もう芥子粒ほどに小さくなっていた。
自業自得だ。
決定的な出来事が起こったのは、クリスマスイブのことだった。いや正確には、起こったのではなくて、僕が起こしてしまった、と言った方が正しい。
その日、僕はやはりいつものように智恵美先輩とバーに居た。クリスマスイブということもあり、智恵美先輩は僕だけではなく、その他のボッチ映研メンバーも誘って、賑やかなクリスマスパーティーを催していたのだ。
男女合わせて九名のパーティーは、そこそこの盛り上がりを見せ、午後七時にスタートして、二時間後の午後九時には皆かなりの勢いで酔っぱらっていた。
さて、そろそろ一次会はお開きというところで、僕の携帯電話に着信があった。
美香だろうか?
僕はポケットから取り出した携帯電話の着信画面を確認したが、相手の電話番号表示のみだった。電話に出るか出ないか迷いながら、僕はただ画面を見詰める。
十回のコールで呼び出しは切れ、携帯電話は大人しくなった。
間違い電話か・・・。
そう思って携帯電話をポケットに戻そうとした時、再び携帯電話は鳴りだした。
今しがたと同じ番号だ。取り敢えず出てみるか。
僕は「ちょっと、電話」と言いながら席を立ち、通話ボタンをタップした。
「はい、もしもし」
電話の向こう側で何やら『あ、出た出たっ。良い?良いの?』と、若い女の子の、はしゃぎ気味のコソコソ話のような声がする。
「あのぉ、もしもし?」
再度こちらから問い掛ける。すると今度は少し慌てた様子で、返事が帰って来た。
「あ、あの、すみません。えっと、富永さん、富永カズヒロさんの携帯電話で良いですか?」
おや、どうやら間違い電話では無さそうだ。
「ええ、そうですけど、富永ですけど、ええっと・・・」
「あ、すみません。私、美香、いえ、松川美香の友達の者なんですけど、富永さんって、今何処にいますか?」
ああ、そういうことか。
「ん、今ですか?今、ちょっと出先なんだけど、何か?」
「ああ、そうですか。実はですね、美香が富永さんにプレゼント渡したくって、アパートの近くまで来てるんですけど、帰るのって、何時くらいになります?」
電話の向こう側で『いいよ、いいってば』と、美香の声がする。
「いや、そうだねぇ、ちょっと分からないなぁ。多分、もう少し掛かると思うんだけど・・・」
「そ、そうですか・・・・。ちょっと待ってください・・・・」
・・・・・・・・『もういいってば』『ダメだよ』『いいよもう』『よくないって、私も付き合ってあげるからさ』『でも・・・』・・・・・。
あちら側のやり取りが、途切れ途切れに聞こえてくる。
電話の向こうから漏れ聞こえてくる会話を聴いているのは、何とも変てこな気分だ。『良い』とか『ダメ』とか、何だか僕自身が肯定されたり否定されたりしているみたいで、ちょっとだけエゴサーチみたいな感覚になる。
そして、待つこと一分くらいか、美香の友達と名乗る女の子が電話口に戻って来た。
「あ、すみません、お待たせしました。でも、帰って来ないことって、無いですよね?」
それには少し躊躇い気味に返答をする僕。
「あ、うん。恐らく・・・・」
「分かりました。じゃあ、近くで待ってますから。あ、心配しないで下さい。私も一緒ですから。じゃあ、待ってますね」
僕はそれ以上話す言葉も無かったのだが、僕が「あ、いや・・・・」と言っている間に、電話は勝手に切られていた。
「富永くん、どうしたの?ひょっとして、彼女?良いの?こんなとこで油売ってて」
携帯電話片手に、どうしたものかと思案しているところに声を掛けてきたのは、同学年の映研所属、次期部長の橘季実子だった。
酔っぱらってる・・・よね。
明らかに絡み酒だな、この子は・・・・。
しかし、そんな酔っぱらいほど、ピンポイントで他人の心を大きき揺さぶる。
「ほんとに良いのぉ?最近の富永くんってさ、智恵美さんとよく
何なんだ、一体。
「でもさ、ここだけの話、あんまり智恵美さんには、深入りしない方が良いかもよ。ま、そんなこと、富永くんの勝手なんだろうけどさ」
余計なお世話だ。でも、その『深入りしない方が良い』という言葉だけは、何故だか酷く気になった。
しかし、そのことを気取られるのも癪に障る。
僕は季実子の言葉にはあまり興味が無さそうな、どちらかというと笑い飛ばすような声の調子で「なんだよ、その『深入りしない方が良い』って?そんな風に見える?俺」、そう嘯いて見せた。
「さっきも言ったけど、富永くんの勝手だからさ、良いんだけどね」
くそっ、そういう言い方をされると、気になって仕方なくなる。
気になり過ぎて、何をどう言って良いか分からず口籠ってしまう僕に、季実子は溜息交じりに言うのだった。
「はぁ。いいわ。ここじゃ、あれだから、お店出てから、智恵美さんのこと、教えてあげる」
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