結章

lampsprout

結章

 突然、心が虚ろになった。

 ――そして私は、何も書けなくなってしまった。



 ◇◇◇◇



「お姉ちゃん、ちょっと来てー」


 年の近い妹の呼び声に、机に突っ伏していた身体を起こして目を擦る。ちょうど、課題の難しさにうんざりして一旦諦めたところだった。目にかかる前髪をかきあげて、軽い寝癖のついたショートヘアを雑に撫で付ける。

 そのまま、課題をするために開いていたノートパソコンの電源を切った。画面が暗くなる直前にふと目に入った、1週間以上開いていないファイルに溜息が漏れる。



 私は昔から文章を書くことが趣味だった。最初は延々と頭の中だけで喋っていたけれど、ある時から小説に練り上げ始めた。日頃の空想を適当に物語として書き散らすのだ。


 それが暫く前から、何も書けなくなった。携帯でも、パソコンでも、原稿用紙でも。あらゆる形態を試しても駄目だった。マウスを持っても、ペンを握っても手が動かない。

 元々、本業でやっていることじゃない。気紛れに書くのが常だった。しがない学生なのだから、当然余裕の無いときもある。

 それでも、書きたくて仕方がなくなることはよくあった。何なら、ネタを書き留めるだけならほぼ毎日やってきた。


 それくらい当たり前に書き続けてきたはずが、私は突然書けなくなった。

 今書いている物語の最終章。その一節が、どうにも決まらない。


 ――あと、もう少しなのに。

 あと少しで、書き上がるのに。


 誰が待っているわけでもない小説でも、なぜか完結させなければならないという強迫観念がある。物語に対する責任は果たさなければいけない。

 でもそういう風に考えると、無駄な焦燥感で余計に何を書きたいのか分からなくなる。いつもなら、そこそこ筋の通ったシナリオが浮かび上がるのに。



 本当のところ、理由は何となく分かっていた。明確にこれとは言えなくても、取り敢えず有り得ないほどの虚無感のせいだと思った。

 特に原因は何も無いのに、急に活力が無くなった気がする。日に一度は、地に足が着かないような感覚がした。

 かと思えば、突然思考の底に堕ちて戻れなくなる。そんなことの繰り返しだ。


 自分に目立った才能は何も無いけれど、文章で食べていけたらという夢は昔から朧げに抱いていた。

 ……そうはいっても、本気で表現や構成の研究をしたことはまだ無い。当然、作文を褒められたことだって幼い頃から1回も無い。

 だけど、勘が鈍らないよう書くことだけは止めなかった。


 大抵の文章は、私の想いと嘘の結晶だ。現実味も無ければ幻想的にもなりきれない。

 吐き出したいこと、美しく描きたいこと、何もかもを綯い交ぜにして出来上がる。どこまでが真実で本心かなんて、私にだって分からない。

 そんなものに練度も何も無いかもしれないけど、書き続けたなら少しは洗練されると信じてきた。

 それが、今や何も浮かばない。……安直に言えばネタ切れだろうか。


 ――私に何が、足りなくなったのだろう。



 ◇◇◇◇



「えー、試してみなよー」

「ああーうるさいなあ、気が向けばね」


 休日のリビングで、妹があーだこーだと化粧品を勧めてくるのを天邪鬼に受け流しながらチョコレートを口に放り込む。

 ……何なんだろう、大人しく受け入れるのはちょっと癪に障るんだよな。



 そのまま自室に戻って携帯を触りながら、相変わらず何も思い付かないことに軽く肩を落とす。

 結局、半月以上経ってしまった。ここ数日は深く考え込むのも止めている。少し濃く淹れすぎた紅茶の苦味が恨めしい。


 時々、全部消してしまおうかと考えた。考えるのすら面倒臭くなった。

 ……もう何だか、どうでもいい。

 投げやりな気分になりながらも、私は定期的にファイルを開くのを止められずにいる。

 それくらい、私には書くという行為が染み付いてしまっていた。



 ◇◇◇◇



 ある日、大学から帰ったあとの私は部屋でSNSを眺めていた。芸能人とかには興味がないけど、たまに綺麗な雑貨が見つかるので久々に覗いてみた。

 ……が、どうにも面白くない。飽きてしまったので携帯の電源を切り、貯め込んでいたお菓子からクッキーを選んで頬張った。何だか、とてつもなく自堕落な感じだ。

 ぼんやりしながら、砂糖で甘くしたミルクティーをゆっくり飲み干す。

 そして、ふうっと温かい息を吐き出したとき。



 ――何かが、変わった気がした。

 はっとして、クッションを抱き深呼吸をする。いつしか、異様な焦燥はかなり薄れていた。久々の余裕を、じっくりと噛み締める。


 休息を逃さないよう深く息を吐く度、心地よい甘さや暖かさに、凍りついていた時間が融かされる。急速に言葉が溢れ出した。

 もう少し。その足りなかった何かが、ようやく満たされていた。


 ――ああ、これだ。

 久しぶりの感覚に、知らず私の頬が緩む。

 ノートパソコンを開き、小説を溜め込んだファイルを開いた。キーを叩き、最終章の一節を一気に書き上げる。

 自然と、納得がいく文章が紡がれる。物を書いていて最も充実感を感じるのは、この瞬間じゃないだろうか。

 私は最高に穏やかな気分で、保存したファイルを見つめていた。



 誰にも、何物にも侵させやしない。

 私だけの世界、私だけの充実。

 きっと私はいつまでも、筆を折れないことだろう。

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