六 「守りたかったもの」


 「暮れの大空襲」。遡ること、およそ十年前。マグナスがアストルムの座についてすぐの、蒸し暑い夏の夕刻。それは起きた。

 

 時空海の果てからやって来る魔物達は、侵攻時の特徴によって大きく二つに分類される。水中を泳ぎ、若しくは海底を進み、波打ち際から這い出して来る「潜行型」。そして、翼を持ち、水平線の彼方より飛来する「飛行型」。個体数で言えば潜行型の方が多いものの、海鳴りが響いてから襲撃が始まるまでの時間は飛行型の方が圧倒的に速く、防衛は時間との戦いとなる。

 冠雨歴二十一年、夜明けとともに発生した大規模な戦闘を「明けの大海襲」と呼ぶ。当時の記録によれば、数体のみの飛行型による侵攻に対処している中、二度目の海鳴りが響き、潜行型の大軍勢による襲撃が始まったとされる。止まぬ侵攻は、二日に及んだ。最初の海鳴りから二度目の夜が明けた時、生き残った者達が目にしたのは、屍の山と、淀んだ灰の吹き溜まりだったという。

 

 そして、この襲撃と対を成す名で呼ばれ、疲弊した雨の国に大打撃を与えたのが、未曾有の被害を出すこととなった「暮れの大空襲」である。

 その日、雨雲の向こうの太陽が水平線に沈む、ほんの数刻前、飛行型の魔物の群れが空を覆い尽くした。最初の犠牲者にその牙が突き立てられたのは、海鳴りの警報が空を割いた、僅か数分後の出来事であった。

 無情にも、この日海が鳴いたのは雨の国北西部——王城の位置する場所だった。城の防衛に全勢力を回してなお余力があるほどの戦力を、この国は有していなかった。獲物を求め街へと降っていく異形の群れを、成すすべなく見送る近衛達。その中に、アストルムとして最初の戦場に立つことになった、マグナスの姿もあった。

 異例づくしと言われた御前試合を経て、武人達の頂点に立ったばかりの、若き長。国中が憎悪と悲嘆に染まったこの大空襲の中、マグナスもまた、ひとつのある悲しい決断をすることとなる。

 

 

 

 

 

 緩く弧を描き、暗闇へと延びる下り階段。螺旋状に続く回廊は狭く、人二人がすれ違うのがぎりぎりの幅しかない。左右の石壁には、等間隔に照明が並ぶ。地下へと潜っていく回廊階段は、空気の通り道に乏しい。それを慮ってか、設置されているのは松明ではなく、術式を組み込んだ魔石のランタンだった。生産した魔石の卸先は粗方把握しているはずのサフィラも、この地下回廊の存在は耳にしていなかった。

 先頭で階段を下っていたマグナスが不意に歩みを止め、身構えた先。二人の旧知の友である次期執政が、暗がりに一人、立ちはだかるように待っていた。

 

「よお、ザイン。ちょうど話したいと思ってたところだ」

 

 淀んだ空気が霞む薄闇の中、マグナスが口火を切る。相対する、薄らと笑みの形を取った口唇が、機械的な声を発した。

 

「驚かないのですね。私がここにいることに」

「隠す気なかっただろ。あんなわかりやすい真似して。事情、話せよ」

 

 あくまでも友好的に、砕けた調子で語りかけたマグナス。その問いには答えず、また表情一つ変えず、ザインは一段下段へと身を引いた。

 

「こちらは少し、驚いています。なぜ、真っ直ぐここへ?存在すら、知られていない場所です。それに……」

 

 曇空のような瞳が、マグナスが背負う斧剣を流し見る。有事に備え調整が要るという口実で、祖父が持主から引き離すよう仕向けていたはずだ。持主も快諾したと報告を受けている。見張を置いた武器庫の中で眠っているはずのそれは、出番を心待ちにするかのように、主人の背に身を預けていた。

 

「武器は、お預かりした筈ですが」

「ん?こいつがないとどうにも落ち着かなくてな。回収させてもらった」

「どうやって?あなた方が戻られるだろうことは、各部隊へ通達してありました。発見した場合の対応も。大した騒ぎにならずここまで辿り着けるとは——想定外です」

「……その言い方、やっぱりお前は『そっち側』なんだな」

 

 ザインは、答えない。

 

 数段上から様子を伺っていたサフィラの目に、戦友の拳が、ゆっくりと固く握られたのが見えた。更に一段上、サフィラの背後で息を詰めていたルーナの方へ、ザインが目をやる。視界には入らない位置だが、第三者の存在を察したのか、ああ、と小さく呟くと、対峙する男へと再び視線を戻した。

 握った拳をゆっくりと解くと、滅多に聞くことのない、酷く乾いた声音で、マグナスが語り始めた。

 

「俺達が見つからずに城内を動けたのは、運良く眼を持つ味方に会えたからだ。他の術士達は一箇所に集められた上、次席派の連中と魔物で周りを囲まれていた。何人かはそっち側についてる奴もいたみたいだがな。敵味方の判断も難しいこの状況で、俺達二人だけじゃ身動き取れなかっただろうよ」

「——めぼしい天眼使いは皆制圧したと思っていましたが。随分と優秀な鼠が残っていたようで」

 

 ルーナが息を飲む。牽制するように、サフィラがザインを睨む。ひりついた空気の中、再びマグナスが声を発した。じっと旧友を見つめ、問いかけるように、語りかるように。

 

「もう一つ。なぜここへ来たか、だったよな。どうしてだと思う」

「……謁見宮を避けたのは、単純に頭数の問題でしょう。警戒は厳重、人質も多数。今手を出さなかったのは懸命な判断かと」

「そうだな。向かうなら先に味方を増やしてからが妥当だ。三席隊然り、お前達の側についていない近衛は地下牢にいるんだろ?囚われてる俺の部下達や術士の連中を解放に向かうのが普通だろうな。だが、そうしなかった。ここにいる。なぜだと思う」

「……情報を引き出そうとしても、無駄です。この先に何があるのか、教えるつもりはない」

「そんな駆け引きするつもりはねえよ。もっとずっと、単純な話だ。ザイン、お前のアニマを追ってきた」

 

 薄白い瞳が、微かに揺らいだ。

 

 政務区に聳える鐘楼塔から地下へと繋がった扉を潜り、蟻の巣のように複雑に分岐した地下道から、更に下へ。ただ一つのアニマを目印に、三人はここへ辿り着いていた。

 

 追い立てるように、マグナスが続ける。

 

「なあ、何があったんだよ。俺達を避けるようになってからもう何年経つ?その間、お前はずっとこの日のために暗躍してたのか?一体、何のために?お前達セクトールは……この国をどうしたいんだ?」

「貴方達に話すことなど何もありません」

 

 かつての友の切実な問いかけにも、ザインは毅然とした態度を崩さない。見かね、マグナスの半歩後ろに並ぶと、サフィラも旧友へと言葉を投げかける。昨夜封書を受け取ってから、常に頭の片隅にあった疑問を。それは時が経ち、少しずつ状況が明らかになってくる中で、次第に確信に近づいてきている疑問だった。

 

「ザイン、きみはなぜ、ミラ様や私に危機を知らせた?何もしなければ、殿下の暗殺は容易に遂げられたはずだ。助けてくれたとしか思えない」

「都合のいい解釈です。その暗殺のきっかけを作ったのも、私だということをお忘れで?封書に記した通り、殿下が王女であることを密告したのは、私です。それでもまだ『助けられた』とお思いになりますか?」

「それは……」

 

 言葉に詰まったサフィラの横から、再びマグナスが問う。

 

「矛盾。矛盾だらけなんだよ、今回の一件。お前の封書も、その後の『敵側』の対応も、全部。ルーナ嬢が無事だったのだって、おかしな話だ。数人とはいえ、術士もお前達の側にいるだろ?眼を使わせれば、鼠の一匹や二匹探し出すのは造作もないはずだ。それなのに、隠れてた彼女は元より、忍び込んだ俺とサフィラを感知もしなかった。これまで二百年近く、国家の秘密を隠し続けてた連中の手際とは思えない。今回の、この騒動……『何かを隠し通そうとする者と、それを白日の元に晒そうとする者』がいるんじゃないか」

「……」

「なあ、ザイン……お前は——敵じゃないんじゃないのか」

 

 片手で目元を覆ったザインが、ゆらり、蹌踉よろける。

 もう一段下へと片脚を下ろした次期執政は、俯き……そして頭を上げた。天を仰ぐように上向いたその顔は、歪に微笑んでいた。

 

「ハハ……まさかまだ私を『友』だと、信ずるに値する者だと、そう思っているんですか?なんておめでたい——おかげで探す手間が省けて助かりました」

「……どういう意味だ」

「言ったはずです、何も話すことはない、と。わざわざ私の元へ出向いてくれたこと、感謝しますよ。このまま、一緒に来てもらいましょうか。これで、もうすぐ……役者が全て揃う」

 

 緩慢な動作で、ゆっくりと短剣を構えるザイン。言葉虚しく交戦の姿勢を見せた旧友の姿に、二人も武器へ手を掛ける。ザインが目を閉じ、歌うように言葉を紡いだ。

 

「『刺痕しこんよ、彼に耐え難い苦痛を』」

 

 その瞬間、マグナスが突然その場に蹲った。剣から手を離し首元を押さえる長身を、ザインの瞳が静かに射抜いてる。

 

「っ——」

「おい、どうしたんだ!」

 

 サフィラが膝を折り覗き込むと、マグナスの額には脂汗が浮き、首の付根辺りに押しつけた右手は、指が白くなるほど力が籠っている。その指の下、首元を覆う雨衣と軍装の内側で、何かが拍動していた。

 

「な、なんだこれは」

 

 伸ばされたサフィラの手を、マグナスの左手が払った。襟の下で、じわじわと赤黒い何かが皮膚を浸食してきている。首の後ろ、肩にかけてのその部位は、近衛が任命の儀の後に入れる、王家の墨紋が彫られている場所だった。

 動けないマグナスを庇うように二人の間に入ったサフィラを、一瞬で距離を詰めたザインが回廊の壁へと叩き付けた。右肘で喉笛を抑え、逆手に握った短剣のきっさきをこめかみに当てる。咄嗟に得物に伸ばされた右手を左手で捻り上げ、痛みで意識が逸れた瞬間を狙い、ホルダーごとグリモアを膝で蹴り上げた。主人の下を離れた鈍器のような本は、重く鈍い音を立ててルーナの足元の段へと着地した。怯えた少女が、段上でへたり込む。

 

「ぐ——」

「油断、でしょうか。それとも、慢心?ここには火種も、多量の水もない。己の魔力を過信せず、護身術の一つでも身に付けておくべきでしたね、士長」

 

 体格で勝るはずの自分をあっさりと制圧して見せた、その身のこなし。よく知るはずのかつての友の、知り得なかった一つの暗部。奥歯を噛んだサフィラは、しかし次の瞬間口角を上げた。

 

「そう、だな……油断は、よくない——!」

「?」

 

 喉を抑えるザインの腕を掴んだサフィラの左手に、力が籠る。異変に気付いたザインが身構えるより先に、掴まれていた腕のローブが、崩れた。肘の少し上、二の腕付近までの布地が、細かい繊維となり舞い散る。露わになった生白く華奢な腕には、刃物を滑らせたような線や引き攣った火傷のような傷跡が、数えきれないほど刻まれていた。古くなったそれらに混じり、真新しい打撲痕も複数見てとれる。大きく目を見開き、右手を隠すような仕草で左手を添えたザイン。酷く狼狽えたその姿に一瞬眉を顰めたサフィラだったが、好機を逃さず、拘束の解かれた右手で短剣の刃を掴んだ。手のひらに刃が食い込み、血が滴る。武器を捕捉されたことに舌打ちし、すぐに攻勢に転じようとしたザインの肩に、ずしりと重みがかかった。同時に、首の側面に分厚い刃が当たる感触。背後から、斧剣の刃先が伸びていた。

 

「まだ、動けるなんて」

 

 忌々しげに呟き首だけで振り返ると、歯を食いしばり肩で息をするマグナスが、それでも不敵に微笑みザインを見ていた。剣先に、ほとんど力は入っていない。肩にかかる刀身の重みが、それを物語っている。二人分の荒い呼吸と、固唾を飲んで見守るルーナの、浅い呼吸の音。それだけが回廊に響き、張り詰めた空気を震わせる。

 

 そして数秒の後、ルーナは悲鳴を上げることとなる。

 

「小鼠。あなた、戦えはせずとも術は使えるのでしょう?なら、あなたが癒しなさい。でないと——死にますよ、二人とも」

 

 そう告げるや否や、ザインが斧剣を蹴り飛ばした。下段へ弾き落とされた大剣に引っ張られ、体勢を崩したマグナスが呻く。間髪入れず、短剣から手を離し体を横に捻るように跳んだザインの回し蹴りが、サフィラの側頭部を捉える。倒れ、階段に頭を強く打ったサフィラは、そのまま動かなくなった。じわりと、頭の下に血溜まりが出来ていく。視界に広がっていく真っ赤なアニマに、ルーナが叫ぶ。

 

「士長!」

「サフィラ!」

 

 一歩段上へ踏み出したマグナスへ、再度、呪いのような言葉が飛んだ。

 

「『もっと、苦痛を』」

「ぐっ、ああ!」

 

 今度こそ完全に地に伏したマグナスが、苦悶の声を上げる。さっきまでのものとは比べ物にならない程の激痛に、迫り上がってきた胃の中の物を吐き出した。次第に全身の感覚が鈍り、目の前が霞んでいく。視界の隅で、それまで縮こまっていたルーナがサフィラに駆け寄っていた。足はもつれ手は震えているが、それでもしっかりと損傷部を見つめ、治癒を試みている。

 

「『元の状態に、戻りなさい』」

 

 至近距離から響いた声に視線を戻すと、正面で向かい合うように、しゃがみ込みマグナスを見つめるザインと目が合った。ふっと、首元から全身に波及していた疼きが消える。どくどくと脈を打ち、苦痛の元となっていた異物の感覚も、なくなっている。それでも痛みの残滓が鋭く後を引き、頭を上げているのがやっとだった。多くの魔物を屠り戦い続けてきたマグナスにとっても、他のどんな負傷でも経験した事のない、言葉では言い表せないような苦しみだった。

 

 自身の膝に肘を置き頬杖をついたザインが、無感情な瞳でマグナスを覗き込む。

 

「気分は、どうですか」

「……」

「ああ、声も出せないですか。無理もない。でも——違います。そんなことは見れば分かる。私が聞きたいのは……」

 

 ザインが、深く息を吸う。

 

「『あの日』、家族と引き換えに守り抜いた私に、裏切られた気分はどうですか?」

 

 気を失ったままのサフィラと、生命術の行使に全力を注いでいたルーナは、気付かなかった。この時、旧友を見据えるマグナスの金眼が、いまだかつて宿した事のない、強い憤怒の色に染まったことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

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女神の追憶片 楸むく @urajirotanuki

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