十二 「悸夢」
夢を、見ている。
名を、呼ぶ声がする。
「……ーナ……レジーナ……」
囁くように、吐き捨てるように。
それは、誰にも知られてはいけなかった、本当の自分の名。
瞑っていた目蓋を、ゆっくりと押し上げる。ゆっくり、少しづつ、震える瞳を開いた。眼前には、どこまでも続く、真っ暗な闇。何も見えない。ただただ強く、「それ」の存在を全身で感じる。裸足のつま先を、髪の毛の隙間を、下げた手の指の一本一本を、じとりと湿った何かが撫でて行く。
真っ黒な蛇のひしめく、真っ暗な箱の中。そう、これはきっと、蛇だ。実際に見たり、触れたりしたことはない。本で読んで、話で聞いただけの、手脚の無い不気味な生き物。絡みつくぬめった闇と、舌を滑らせ威嚇するような音で呼ぶ声に、いつだったか、直感的にそう感じた。
(また、この夢)
レジーナは、自分でも驚くくらい落ち着いている。この息苦しい夢を見るのは、もう何度目か知れない。物心ついたばかりの頃、記憶にある最初の悪夢は、それはもう酷く恐ろしかった。狂ったように泣いて泣いて、母の胸に縋り付いた。暫くは夜に怯え、暖かで柔らかい腕に抱かれていても、まともに眠れなくなったのを鮮明に覚えている。だから、現実では滅多に呼ばれない、女としてのこの名前が、最初はどうしても好きになれなかった。今でも、すごく嫌な感じはするし、早く目覚めてしまえと願ってはいる。それでも、有り体に言うと、慣れてしまったのだ。
確かに、肌を這う不気味な感触も、剥き出しの敵意を感じる囁き声も、恐ろしいとは思う。だが、それだけなのだ。いつも、気がつくと何事もなく、この真っ黒な空間から解放されている。蛇の中には牙に強力な毒を持つものもいると聞くが、その毒牙がレジーナに突き立てられることは、一度もなかった。
「レジーナ……ああ、レジーナ……」
(私は、ここ。ここにいる)
唇が動かないのも、いつものことだ。知っていたから、頭の中で応えた。この夢の中では、目蓋と眼球しか動かせない。呼吸も、もしかしたらしていないのかもしれない。鼻の下も唇の上も、見えない蛇が這う感覚がするから、ひょっとしたら塞がれているのかも。
夢でなければ、身の毛のよだつ事だ。これが現実の出来事なら、きっと正気ではいられない。
いつも、そう思うのに。
今日初めて、レジーナは呼び声に言葉を返した。
(どうして、私を呼んでいるの?いつも、何をそんなに怒っているの?どうして……今日はこんなにも、悲しそうなの?)
声の主が、泣いていると思った。男か女かもわからない、人の声かどうかも定かではない。それなのに。
聞いているのが、とても辛かった。
「どうか、泣かないで」
動かないはずの唇が、はっきりと思いを紡いだ。
瞬間、暗闇を閉じ込めた箱が、弾けた。
音も無く、気配すらも無く。突如、視界を色とりどりの光が満たした。
白い部屋の中に立っている。つるつるとした表面が光を反射する、硬質な石の壁。椅子も、吊り証明も無いが、高い天井とだだっ広い空間が、聖堂のようだと思った。床も壁も、場所によっては天井にまで、見たことのない花が蔦を伸ばし、咲き誇っている。色も形も様々で、そのどれもが、花弁を中心にぼんやりと発光している。照明も、採光のための窓もない白い部屋を、花達が発する光が極彩色に染めていた。
(……脚も、動く)
見慣れた夢の、突然の変化。続きがあったことに戸惑いながら、周囲を見回した。出入り口も、見当たらない。多少非現実的であったとしても、不思議ではない。ここは、この部屋は、夢の中なのだから。
そう思うのだが、どういうわけか、さっきより遥かに、喉の渇きを覚える。手の平にも、じとりと汗が滲んでくる。一見すると美しく、幻想的な夢の世界。だと言うのに。
さっきまで居た暗黒の世界よりも、言葉では言い表せない程の、悍ましい気配を感じる。
「……!」
ぐるりと部屋を一周見渡し、元の位置に戻った時、その気配の正体に気付いた。いや、気付いたと言うより、現れていたと言う方が近いかもしれない。
さっきまで、花で埋め尽くされた床と壁と天井と、自分しか居なかった白い部屋。その中心に、赤黒い巨大な鳥籠のような物が鎮座していた。木の根のようにも見える台座の部分が床から盛り上がり、卵型の鳥籠がその上に乗っている。卵の上部からは細い枝のような物がいくつも伸び、それが鳥籠と天井とを繋いでいる。台座も、卵も、枝のような部分も、その全てが赤黒く、まるで人の血管のように、どくどくと脈をうっている。
そして、その鳥籠の中。
「それ」はまっすぐに、レジーナを見ていた。
どす黒い岩のような塊に腰掛けた、黒い髪の少女。
波打つ長髪は背中の後ろへ緩やかに流れ、鳥籠の床と繋がっているようにも見える。顔周りの頭髪はイバラのように棘を為し、自らの頬や額を痛々しく抉っている。本来ならば目があるはずの場所には二輪の黒い薔薇が咲き、涙のようにぼとりぼとりと花弁を落としている。鼻の下、唇の位置には、右目か左目か判別のつかない血走った眼球が口を開き、それが縦に二つに割れて、不安定な旋律を奏でていた。そしてその音に呼応するかのように、腰のあたりに蠢く物がある。
少女の下半身は、腰掛けた岩塊とほぼ同化している。その太腿であろう部分の上に、手脚のない、頭と胴体だけの人形のようなものを、大事そうに抱えていた。薄い胸が、微かに上下したように見えた。人形は口を薄らと開き、目は閉じているが、眼窩が落ち窪んでいる。目玉がないのかもしれない。人形だと思いたいが、息をしているように見えるそれから、慌てて目を逸らした。
ぼとり、ぼとり。黒い花弁が落ちる。
目の口から紡がれる歌と、落下音が重なる。
見ては、いけない。見るのが、怖い。
崩れそうになる両脚を叱咤しながら、ひたすら俯くしかなかった。
歌声が、不意に止まった。花びらの落ちる音も、しない。時の流れさえも、止まってしまったように感じる。恐る恐る、視線を上げた。
「……!!」
それと視線が交わったと思った瞬間、顔に強烈な痛みが走った。頬に、額に、抉るような痛みが。
「い、痛い——痛い!」
慌てて痛みの元へ指を伸ばそうとするが、腕はぴくりとも動かなかった。自分の身体に、視界に、強烈な違和感を感じる。
痛みに気を取られて、気付くのが一拍遅れたのだと知った。
(そんな……どうして……)
レジーナの身体は、鳥籠の内側にあった。赤黒い血管で編まれた檻の中で、岩塊に座り、外に立つ少女を眺めている。立場が、逆転していた。少女はもう、異形の姿ではない。濡羽色の美しい髪と、黒曜石のような瞳。纏う空気は違う。だが、よく似ていた。
見慣れた、自分の容姿と。
「許さない」
「!」
少女の唇が、言葉を紡いだ。
凄絶な、怨嗟の言葉を。
深い憎悪に燃えるその瞳から、涙でも花弁でもない、今度は、一粒の炎が零れ落ちた。炎は床に触れた瞬間、瞬く間に部屋中に広がった。真っ赤な筋が、縦横無尽に全てを駆け巡る。一際強い光を放った美麗な花達が、次々と燃え滓になって散る。花だけではない。急激に拍動の速まった鳥籠も、目の前に立つ黒い少女も、レジーナ自身も、炎は夢の世界全てを燃やしていく。
「この、国の、この、世界の——」
少女が、低く唸る。レジーナは必死に声をあげた。
「待って!お願い、やめて!」
少女の顔が、歪む。
「幸福を、安寧を、未来を、私は、私達は……許さない!」
「!!」
少女の全身が、炎そのものになり、燃え盛る。大量の火の粉が、檻を抜けて鳥籠の中へ降り注いだ。燃える世界が、ガラガラと音を立てて崩れていく。五感が鈍り、前後左右の感覚さえ曖昧になっていく。一際大きく震えた鳥籠が、天井から剥がれ落ち足元から崩れ始めた。そのまま、深い闇へと精神が落ちて行く。
ふと、両手の先に強い力を感じ視線を落とした。腕の中で、何かが動いた気がしたのだ。見ると、さっき鳥籠の中で異形の少女が抱えていた人形のように、膝の上に人がもたれている。うつ伏せで、顔は見えないが手足もちゃんと付いている。はっきりとは判らないが、少年のように見える。グッと腕に力を入れ、レジーナの腰に縋り付いて、その「人」は顔を上げた。
「止めて、どうか、彼女を、あなたが」
「え——?」
「危険が、迫っている。聞いて、どうか——」
少年の唇が、懸命に言葉を絞り出す。その微かな響きを最後に、レジーナの意識は完全に闇に溶けた。
三階への隠し階段を上り、上階から跳ね上げ部分を収納しながら、ジェンは考えていた。
ロイドとサフィラがドミナの元へ向かってから、既に四時間。もっと遅くなる可能性も考慮して、先に三人だけで夕食を取ることに、ミーニアと決めた。冷めてしまっても、すぐ火にかけて暖かい状態で出せるよう、メニューは鍋物にした。疲れていたのだろう、レジーナはパタリと眠りについてしまったので、夕飯の準備が出来たと声をかけに来たのだが。
(王子様に……じゃなかった。王女様に、料理を振る舞う日が来るなんて、想像もしなかったなあ。口に合うと良いんだけど)
まだ会ったばかりだが、どこまでも純朴で、邪気のない小さな王女。その心労とこれから先の不安は計り知れないが、少しでも安心して貰えるよう振る舞おうと決めて、部屋の扉をノックした。
「殿下、お休みのところすみません。夕食の準備が——」
返事がない。それに、微かに呻くような声も聞こえる。
慌てて扉を開けると、異様な光景が広がっていた。
出立前にサフィラがソファを属性術で変化させて作った、寝台の上。王宮の物を模したからなのか、単に過保護なのか、天蓋まで付いた無駄に華美で巨大なその寝台の中央に、レジーナは横たわっていた。眠る小さな身体に纏わりつくように、黒いモヤのような物が寝台の上を覆っている。天蓋から下がるカーテンを押しのけ駆け寄ると、その周辺の空気だけが、異常に熱い。
「なんだ、これ——!?」
なんだかよくわからないが、レジーナが苦しそうなことだけは分かる。すぐに着ていた上着を脱ぎ、モヤを散らすように全力で煽いだ。
「き、消えない!」
どれだけ必死に煽いでも、モヤは揺らぎさえしない。手で触れてみても、熱いということ以外、何の感触もない。それはまるで、レジーナの内側から発せられているかのようだった。
「うっ……あああ!!」
突然、悲鳴をあげながらレジーナが上半身を起こした。何かに伸ばしかけたような手で、そのまま身体を抱き蹲った。それと同時に、寝台を覆っていた黒いモヤも、霧散して消えた。
「で、殿下!大丈夫ですか!?一体、何が——」
荒い呼吸をつく唇は青褪めて震え、額には大粒の汗が浮かんでいる。怯えたように恐る恐る手を伸ばし、額や頬に確かめるように触れている。
「私……私、夢を見て。いつも、見る夢で、でも、いつもの夢じゃなくて。最後の、あの人……私、きっとあの人を知ってる!似ていたんです、誰かに!もう一人は、私に——うっ」
「殿下、落ち着いてください。ここには僕と殿下だけです。怖い人もいないし、怖いことも何もない。ここはもう夢の中じゃない、大丈夫です。ゆっくり呼吸して。ね?大丈夫、大丈夫」
「……」
ジェンが静かに声をかけ、ゆっくり背中を摩ってやると、レジーナの呼吸は次第に落ち着いていった。ジェン自身、内心では大丈夫かどうかについては甚だ疑問ではあったが、震えて縮こまっている王女があまりにも不憫で、そう励ますしかなかった。彼女が、「王女」という存在が、何者かに狙われる理由、その一端を、予期せず垣間見てしまった気がした。ロイド達が戻ったら、今見たことを伝えなければと思った。
レジーナの震えが収まるのを待って、ジェンは本来の用件を切り出した。
「お腹、空いてませんか?簡単な物ですけど、夕食が出来たので一緒にどうかなと思って。下に降りるのが怖かったら、この部屋まで持ってきます。今はカーテンも引いてるから外から見えないし、僕達は出来れば下で一緒に食べたいなって、思ってますけど。もし誰か来たら、すぐに三階に避難すれば良いですし——」
誰か来たら、というジェンの言葉に、レジーナの表情が固まった。不審に思い覗き込むと、レジーナもジェンの瞳を覗いた。黒い瞳が、大きく開かれている。
「最後に、あの人が言っていたこと——」
「え?」
「危険が、迫っている、って。私達の所へ。それから——」
崩れていく夢の中で、少年から懇願するように紡がれた、最後に聞き取れた言葉。唯ならぬレジーナの様子に、ジェンが身構えた。
「『扉を、開けてはいけない』って……」
「扉?って……まさか——ミーニア!?」
その言葉の意味を理解したジェンが脱兎の如く駆け出した瞬間、階下から轟音が響いた。
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