九 「女神の欠片」


 ひそひそと、こちらを伺っては交わされる不躾な声は来た時と変わらない。

 違うのは、二人が四人になったことくらいか。外まで送りな、との主人の言いつけに従い、ルプスとノクスがロイド達の帰路に同行していた。不満気に数歩前を歩くノクスが舌打ちをする度、人波が綺麗に分かれロイドたちに道を開ける。

 もう、夜も深い。宵の口の時分より明らかに増えた人手に、ドミナの側近たちは目を光らせながら歩く。地下街では名の知れた大男兄弟と、フードを被った身なりの良い来客らしき二人。目を引く四人組は、ドミナの館を出てから無言のまま、地上への出口へ向かい歩を進めていた。

 

 不意に、喧騒の中でもよく通る声が、ロイドへ向かって響いた。

 

「最初はガラス製だったんだ。金属のに変えて、正解だったろ?」

 

 沈黙を破ったのは、ロイド達の少し前を歩くルプスだった。歩調を遅らせロイドの隣に並ぶと、ニヤリと人好きのしそうな顔で笑みを見せる。なんとなく、今朝会ったばかりの旧友のそれと重なる。覗き込んでくる瞳が、雨除け布越しに「何のことかわかるだろ」と問うているようだった。

 少し考え、ついさっきまで持主の応接間の床に転がっていた、金色の塊に思い至る。部屋を出る際、それを慣れた手つきで拾い上げテーブルに戻したのも、たしかこの男だったはずだ。

 

「……ゴブレット?」

 

 ルプスの口角が上がる。どうやら正解だったようだ。

 

「ああ。感情的になるとぶん投げる。癖なんだよ。たまに中身だけ顔面にお見舞いされる奴もいるんだが——顔のいい奴には絶対かけねえな。それも癖だ」

「よく見てるんだな」

「そりゃあ、俺らのボスだからな。支えるためならなんでもするさ」

「……そうか。ドミナは良い部下を持ったな」

「ハハ、だと良いがね。もう五年になるが、俺らなんてドミナんとこへ来てまだ日が浅いからな。あの人の代えはきかねえ。拾って貰った俺達兄弟もそうだが、特に東区の女達にとってドミナは救世主みたいなもんだ」

「慕われてるのは俺が世話になってた頃から変わらないな、あの人」

「当然だ。それより、驚いたぜ。昔馴染みなら話ぐらいは聞いたことあるだろうと思ったが、まさかなあ……噂で聞いてたドミナにとっての『救世主』の息子と、こうして顔合わせることになるとは」

「……」

 

 ルプスがちらりと視線を兄から弟に移すと、一瞬交わったもののすぐに逸らされる。館を出てから、サフィラの表情は険しくなる一方だった。

 

 娼婦という仕事柄か、はたまた本人の男好きする気質からか、ドミナには長らく同性の友人がいなかった。必要だと思ったこともなかったし、それで何一つ不自由もなく生きてこられた。

 だが、ある日突然現れた変わり者の娘と親しくなった事で、彼女は人生の岐路に立ち、紆余曲折を経て今の地位に納まる事になる。

 ここまでは、東地下街の女主人を知る者なら誰しもが耳にしたことのある噂話だ。そして、ここから先を知るのは彼女とより親しい一部の者だけである。

 ドミナが一念発起して掃き溜めの様な街の改革に乗り出し、色商売の在り方を根本的に変えようと思い立ったきっかけ。それを贈ったのが、件の娘だったのだという。

 ルプスとノクスの兄弟が、就任祝いの酒を主人と酌み交わしながら聞いた話では、ドミナは彼女を「自分にとっての救世主」と呼んだ。

 二人が最後に会った日、別れ際、彼女はドミナにもう一度と握手を求めた。彼女が自分の置かれている状況と、時空海を渡る唯一の方法を携えてドミナの元を訪れた、あの夜のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 寝台に腰掛けたドミナの正面、鏡台に備え付けられた収納を兼ねた小さな椅子に、今は客人が掛けている。

 

「女神の——欠片?」

「ええ。私が持っている物を含めて、全部で七つ。旧王国から分断されて、新たに出来た小国の数も七つ。各国に一つずつ欠片は存在しているというのが、私達の国の見解よ」


 どこにでもあるような茶色の髪と瞳で素性を隠したクレイスは、「今後の話がしたい」と切り出すと神妙な顔でそう告げた。ともすれば自らの子の話をする時よりも、重々しい表情で左手の指輪を幾度となく撫でる。


「それがあれば、あの黒い海——時空海を渡って、他の国と行き来できるってこと?」

「行き来ができる、なんて単純な代物じゃないわ。かつて大国を物理的に分断し、その上次元の狭間に閉じ込める、なんて桁外れな魔力を行使した術者が作った物よ。私達の国は属性術を持って繁栄した国だから、それがいかにとんでもない所業なのかわかるの。文字通り、神と呼んでも差し支えないほどの力だわ」

「神話の女神は本当は人間で、属性術使いだったってこと?そいつが国を割って、条件付きじゃないと行き来できないようにした……その条件である『女神の欠片』には、時空海を渡れるだけじゃなく、他にも何か秘密があるってこと?」

「その通りよ。その神話とやら自体、祖国では聞いたことがないから、恐らくこの国の上層部が創り上げた物。女神の欠片という名称が共通なのは、過去に各国間で共有されたからだというのが通説よ。少なくとも一度は、どの国の間にも交流が持たれたという証拠ね。私達の国や雨の国だけじゃない、他の国々にとっても、欠片はただの通行証なんかじゃない。だから私はこの国へ来た……ねえドミナ、あなたには本当に、今まで散々迷惑をかけたわ。こうして付き合ってくれていることを、心から感謝してる」

「何よ、今更」

「……ここから先を聞くかどうかは、慎重に考えてほしいの。私はきっと、何事もなく国へ帰れはしないでしょうけれど、知ってしまえば、あなたの所へも術士が来るかもしれない。あなたはとても頭が良いし機転も効くけれど、無事では済まないかもしれない。巻き込んでしまって、こんな事を言うのはお門違いかもしれないけれど……」

 

 珍しく殊勝な言葉に驚いて見れば、本当に、心の底から申し訳ないという表情かおで、クレイスが下唇を噛んでいる。それがあまりにも衝撃的で、咥えていた煙草のパイプを取り落としそうになった。

 

「……ねえ、クレイス。あんたってやっぱりバカ?」

「——ええ、そう言われても仕方のない事だわ」

「違うわよバカ。さっきも言ったけど、え、今更よほんと?アンタみたいな物騒なのと関わり合いたくないと思ったら、あの日とっくにオルニトに記憶消してもらってたわよ。巻き込まないでちょうだい、ってね。アタシが勝手に、アンタを好ましく思ったから今もこうしてるだけ。大体、アンタ自身のことも子供のことも、他に頼れる人間が居なかったから、わざわざ出向いてきたんでしょ?なのにここまで来てそんな似合わないこと言うなんて、ほんと今更。今更すぎよこのバカ」

 

 今度は、クレイスの目が丸くなる。反射的に言い返そうとしたのか開いた唇が、ふっと笑みの形に閉じられる。二人の視線が絡むと、どちらからともなく笑い声が漏れた。ドミナにとっては間借りしているだけの、クレイスに至っては初めて訪れた、寝台と鏡台と僅かな収納しかない、狭くて暗い部屋。それが今はこんなにも、居心地が良い。それでも、こんな時間ももうあまり長くは残っていないのだろうと、頭の片隅で思った。

 似合わないは余計よ、と、一つ咳払いをしたクレイスが苦言を呈する。噛み締めるように味わうように、パイプを一度深く吸って、ドミナは先を促した。

 

「それで?そんな変装してまでアタシの所へ来て、何を頼みたかったわけ?アンタの頼みなら出来るだけ叶えてやりたいけど——生憎アタシは、そんなヤバイもの探してまで他の国へ行きたいとは思わないし、アンタの子供引き取るのも無理よ?今は父親んとこに居るって言ってたけど、城の連中に居場所把握されてんでしょ?居なくなったら、アタシんとこにも近衛が探り入れてくるだろうしね」

「勿論、それは私もわかっているわ。どの選択肢を取ったって、あの子には辛い思いをさせてしまうことも——それ以前に、現状私には選択する権利すら無いに等しいわ。彼らが下した判断に、従うしかないから……だからこそ、この先私に何が起きたとしても、欠片も、あの子のことも守りたいの。それが、私達の国を救う事にも繋がると信じて……」

 

 一つだけ相槌を打ち、ドミナは静かに続きを待った。

 やがて、閉じられた目蓋をゆっくりと持ち上げてドミナを見つめたクレイスの瞳に、あの、ライラックの花のような薄紫を見た気がした。

 

「女神の欠片は、一つに戻ることを望んでいる。割れた身体、割れた世界。元の姿、在るべき姿に」

「——!まさか……」

「欠片が七つ集まる時、分かたれた世界もまた、在るべき姿に戻る。そして欠片が集まるべき場所、『女神』の思念が眠る場所こそが、ここ——雨の国の、王宮にあるの」


 ドミナは絶句した。なんだ、なんなのだそれは。その話が本当なら、さっさとこの国にある欠片を確保し、他国とも連携を取れば、たった七つの宝飾品などあっという間に見つかるだろう。その方が国そのものにとっても明らかに有益だったはずだ。だというのに、実際に国が取った行動は、欠片の存在をひた隠しにし、嘘の神話をでっち上げてまで他国との交流を絶つことだった。逆を言えば、そうまでして隠さなければならない何かが、世界分断の経緯に含まれていた事になる。

 全身に鳥肌が立ち、背中を冷や汗が伝う感覚がする。確かにこれは、聞いてしまえば後戻りできない内容だと、ドミナは乾く喉で一つ唾を飲んだ。

 

「なるほどね……確かに、聞かなかった事にしたいほどの話だわ。雨と魔物に一体どれだけの命が奪われてきたのか、正確な数字出して城の連中に突きつけてやりたいぐらい」

「勿論、この国が何か事情を抱えていることは分かるわ。けれど、私達の国だけじゃない、もうどこの国々も、それぞれが抱えた問題で押し潰されそうになっている。なんとかしなければ、いずれ七つの国は全て滅びてしまう。既に一つ、北東の列島国は魔物の巣と化したわ。祖国を、そんな姿にするわけにはいかない」

 

 一筋、クレイスの頬を涙が伝った。

 

「私は——恐らく都合のいい記憶を与えられて、送り返される。乗ってきた船は城で厳重に見張られているし、この国は通常の海に面していないから、それ以外の船もない。他に、逃げる方法も無い。指輪を取り上げられなかったことが不思議なくらい」

「……そうね」

「ええ。ここからが、あなたへのお願い。もし、記憶をなくした私がまたこの国を訪れたら——可能性は高いと思うの。祖国を守りたい気持ちは変わらないもの。その時は、どうか私に警告を。きっと、私はまた同じように無鉄砲に振る舞うでしょうから、見つけたらでいいわ、この国が抱える闇を、私に示して」

「……わかった」

「もう一方は、可能性は低いと思うのだけど……もし私が国へ帰されず、指輪も子供も記憶も何もかも奪われて、処分されるようなら——」

「消されるかもしれないって言いたいの?」

「……いいえ。あなたと初めて会った時のように——いえ、あの時は自分から飛び込んだのだけど。あんな風に売り物になるようなら、その時はどうか、私を連れ出してほしい。それも、見つけたらで構わないわ。こんなこと、あなたにしか頼めないもの」

「……約束する」

「ありがとう。最後に……多分あの子も、私と一緒に帰る事になるだろうから、ほとんど可能性はないと思うけれど——」

「いいから、早く言いなさいよ」

「もし——もしも、私によく似た子がこの国で生きていて、そのせいで何か面倒ごとに巻き込まれていたら。その時は、私のこと、外の国のこと、欠片のこと全て、伝えてあげて欲しいの。欠片を探して、時空海を越えなさい、と。私と同じように国を救おうとなんて、しなくてもいい。その時は、私が欠片を預かりに行くわ。あの子が自由でいられる場所が、外の世界にはあるかもしれないから。もし気が向いたら会いにきてほしいところだけれど——それまで祖国が無事な保証はないもの」

「弱気なこと言ってんじゃないわよ。無事でいなさいよ——アンタも、国も」

「……ええ。善処する」

「……アンタが、消されたかもしれないと判断したら?」

 

 聞きたくなどないのに、口を衝いて出ていた。国へ帰るにしても、地下街の闇に消えるにしても、殺されるにしても。居なくなるという点で、変わりはしない。どの場合を取っても、彼女の身に何が起きたのかを、ドミナが知る術は無いのだ。

 彼女が生きていて、もう一度、再会を果たす以外には。

 意図を察したのか、その問いにクレイスは答えなかった。涙を拭うと、淀みのない所作で椅子から立ち上がる。

 時間が、きたようだ。

 

「ありがとう、ドミナ。この国は私にとても冷たかったけれど、あなたに出会えただけでも来た価値があったわ」

「何バカなこと言ってんのよ。アタシのことより、アンタもう母親になったんだからちゃんとしなさいよ」

 

 わざとらしくため息を吐き、肩をすくめて見せる。声が震えてはいなかったかと内心自分を叱咤しながら、ドミナも寝台から立ち上がった。

 ホントにしょうがない子ね、と続けようとしたが、叶わなかった。喉に言葉がつかえたのもある。だがそれよりも一足先に、ドミナの胸元に柔らかな衝撃が走ったのだ。

 クレイスが飛び込んできて抱き締められたのだと、少し遅れて気付いた。自分の顎の辺りに、クレイスの頭頂部が見える。ぽんぽん、と、あやす様に肩を抱き返しながら、どうせなら今目の前にあるのが、あの目の覚めるような青だったら良かったのにと、きつく瞳を閉じた。

 

 ほんの一時だった気もするし、随分長いことそうしていたようにも感じる。

 そっと身体を離したクレイスの目元に、もう涙の跡は無かった。代わりに、いつもの気の強そうな瞳でしっかりとドミナを見つめる。

 少し無理をしているように感じて、からかってやる事にした。

 

「ちょっとクレイス。アタシの一張羅に鼻水つけてないでしょうね」

 

 途端、慌てたようにクレイスの視線が下がる。ドミナの胸元を凝視するも、それらしき汚れは無かったようで、恨めしそうに友人のしたり顔を睨む。

 

「おかしなことを言わないでドミナ。大体、あなたのそれはただの夜着でしょう?」

「ただのってのは聞き捨てならないわね。まあ、貰い物だからいくらしたかなんて知らないけど」

 

 適当なことを言って、とむくれるクレイスの背中を押して、部屋のドアへと誘導する。このままでは、離れ難くなる。

 

「はいはい、約束はちゃんと守るから、早く自分の部屋に戻りな。アタシのとこへ来たのがバレたら、お互い困るでしょ?」

 

 少し、寂しそうな表情が見えた気がしたが、構ってはやれない。ドアの前で振り返ったクレイスは、最後にもう一度、と、ドミナの前に片手を差し出した。女神の欠片の指輪が人差し指に嵌った、左の手を。

 その白い手を包むように、ドミナも左手を差し出す。最後の握手を交わしながら、少し前のドミナの問いに対する答えを、クレイスは口にした。

 

「もし、私が死んだとあなたが判断した時は……その時は、あなたが私の分も生きて」

「そんな頼みは聞けないわね。却下」

「違うのドミナ、聞いて。初めて会った時、あの地下牢であなたを見た時、なんて言ったらいいのか……そうね……とても——かっこよかったのよ」

「…………ハア?」

 

 恐らく、それまでのドミナの人生で一番、間抜けな声が出た。

 かっこよかった?誰が?アタシが?何が?男三人一気に相手しようとしてたことが?

 

「……アンタさ、何言ってんの」

「……ごめんなさい、私もよくわからない。ただ、あなたは暴力に頼ることも、私や私の国のように魔力に物を言わせるでもなく、あの場を言葉だけで収めた。何度も言うけれど、機転が効くだけじゃなくとても美しくて、それでいて堂々としていて……かっこいいと、思ったのよ」

「……変すぎよアンタ」

「ええ、自覚はあるわ。でも、本当にそう思ったの。きっと、私だけじゃない。あなたには人を惹きつける力がある。こんな風に、客を取る仕事だけしているなんて勿体無いと感じるくらいには。だから、最後にそれだけは伝えたくて」

「……」

 

 何だかよく分からない、暖かな温度を持ったものが、じわりと胸の奥に広がる感覚がする。「最後に」なんて聞きたくもない言葉も、右から左へ流れていくくらいには、鮮やかすぎる言葉だった。

 

「本当に、お世話になりました。どうか、お元気で。親愛なる私の友人、ドミナ」

 

 クレイスが綺麗に膝を折り、ドミナへ頭を下げる。見たことのない動作だったが、ドミナもドレスの裾を引き、最大限の敬意を込めて礼を返した。

 

「こちらこそ、かけがえのない時間をありがとう。ちょっと変だけど、大事なアタシの友人、賢者の国のクレイス」

 

 もう一度、二人どちらともなく笑い合うと、深くフードを被ったクレイスはローブの裾を翻し、ドミナの部屋を出て行った。階段を降りて行く足音が聞こえなくなった後、窓に寄り外の通りを見下ろしたが、不思議なことに彼女の去っていく姿が見えることは無かった。店からの出入り口は二つ。裏口は施錠されているから、表からしか出入りはできないはずだ。

 そこまで考えて、ドミナは一人口元を歪める。

 

(ああ、あの子にはそんなの関係無かったわね)

 

 クレイスにそっくりだという、この国の男との間に生まれた子。その子供にも、彼女の血が受け継がれているのだろうかと、ベッドに背中から倒れ込みながら思った。

 

「……真っ青のドレス、新調しようかしら」

 

 煙草の煙で黄ばんだ天井に、呟いた言葉が吸い込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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