第9話 喪失


「久しぶりね、エリカ」

 アネットは言った。

「記憶が戻ったようで良かったわ。スターツィの仕事は順調?」


 明るい調子で問われたが、キアラはかなり気まずかった。

 正直、冷たい言葉を吐かれるかと思っていた。


「どうして……私のこと、警戒しないんですか」

「どうして? スターツィに捕まるようなことは何もしていないわよ。私たちは善良な市民だから」

 ぬけぬけと言う。

「でも! お家にまんまと上がりこまれて、不快だったでしょう」

「気にしていないわよ。あれは私が決めてやったことだもの。ズザンナには申し訳ないことをしたけれど……」

「別に、構いやしませんよ」

 ズザンナはちょっと不機嫌そうだった。

「……ともかく、困っている人を助けるのは当然だわ」

 アネットは言った。

「さあ、エリカ。立ち話も何だし、駅前のカフェに入りましょう。私たちの用事も、急ぎではないし」


 そこで三人は場所を変え、向かい合って座ってカプチーノを注文した。

 後からハインツが入店してくるのをキアラは確認した。


「正直なところ」

 と、アネットが切り出す。

「家の中にスターツィを招き入れていたことにはびっくりしたわ。ちょっと怖かったかも。でもそれはエリカのせいじゃないものね」

「アネットさん……」

「言っただろう、アネットさんはお人好しすぎるんだって」

 ズザンナも付け加える。

「危ない目に遭っても気にしやしないんだから。アネットさんの温情に感謝しなよ」

「それはもう、感謝してもしきれません」

「あらまあ、どういたしまして。……それにしても、本物のスターツィと面と向かって話す機会なんてなかなかないわよ」


 アネットはキアラをまじまじと眺めた。

 それから左手をテーブルの上に置いた。


「仕事は順調?」

「はい」

 指輪が光る。

「それは良かったわ」

 指輪の輝きが消える。

 ズザンナはふっと吹き出した。


「ピクニック計画を邪魔しようとしているんですってねえ。平和な祭典を止めようだなんて、ひどいことをするのね、スターツィって」

「そうでしょうか」

「あなたもピクニック計画を邪魔するつもりなの?」

「はい」


 指輪が光った。


「ピクニック計画には協力できません。私はスターツィの任務を全うしなければなりませんから。兄が生きている以上は」


 光り続けている。


「そう。別に協力はいらないわよ」

 光が消えた。

「え?」

 キアラは瞬きをした。


「私はエリカを助けたけれど、信用してはいないもの。協力だなんてとんでもないわ」

「……」


 アネットはにっこり笑った。


「話したかったのはそれだけ?」

「……はい……」

「じゃ、これでお別れにしましょう。あなたの無事を祈っているわ」


 アネットは立ち上がって、お会計を済ませて出て行ってしまった。


 キアラはぼーっと座っていたが、のろのろと店を後にした。


「キアラ」


 ハインツが後を追ってくる。


「家まで送ろう」

「大丈夫です」


 この裏切り者と一緒にいるだなんて一秒たりとも耐えられなかった。


「駄目だ。お前の監視も俺の仕事のうちだからな」

「監視なんていらないでしょう」

「いや、一度は記憶喪失になった同僚を放っておくわけには……」

「その件について考えたいことがあるの。一人にさせて」


 キアラはいくらか強い語調で言った。


「……分かった」


 それが嘘なことは指輪がなくても分かった。


「じゃあ、私は帰ります」

「ああ。気をつけて」


 キアラは駆け出した。

 家までなりふりかまわず走って帰った。

 部屋に駆け込んでバタンとドアを閉めてから、声を出さずに泣いた。


 お兄ちゃんが死んだ。お兄ちゃんが死んだ。お兄ちゃんが死んじゃった!

 あの人のためなら何だってできたのに。ああ、どうしてこんなことに。


 ──キアラ。


 兄の声が脳裏によみがえる。


 ──いつも世話を焼いてくれてありがとう。お兄ちゃん、寝てばかりで、何もできなくてごめんな。


 何もしなくてよかった。生きていてくれるだけでよかったのに。


 涙は後から後から溢れ出してきて止まらなかった。


 キアラはベッドに突っ伏して、声を押し殺して泣いた。枕がぐしょぐしょになるまで泣いて、泣いて、泣いて、……泣き止んだ頃には夜が明けていた。


 ──キアラには誰もいなくなっていた。


 恋人も兄ももういない。エリカを拾ってくれた親切なアネットも信頼してはくれない。


 キアラはぼーっと、兄との思い出を回想した。


 病弱だった兄はよく学校を休んで家で寝ていた。そしてキアラとよく遊んでくれた。外で駆け回ったりする遊びはできなかったけれど、おままごとをしたり、お人形で遊んだりした。キアラが本を読んであげることもあった。今思えばそれはみな、兄がキアラに合わせて遊んでくれていたのだったが、その優しさが嬉しかった。

 キアラが成長してスターツィに入ることを、兄は嫌がっていた。自分のために危ない仕事に就いて欲しくないと言った。それにスターツィは市民のことを弾圧する組織じゃないか。

 キアラがマージャ支部に行くことが決まった時も、良い顔をしなかった。

「……そばにいてはくれないのか」

 珍しくそんな我儘を言った。

 兄はキアラとの時間を大切にしてくれていたのだろう。だがキアラは兄にもっと良い施設で治療を受けて生き延びてほしかった。東ジェルマという感じの厳しい社会に兄を置いていくことだけが気がかりだったが、病気でろくに動けない兄を連れていくことなどできなかった。

 兄の眼差しを見ないふりをして、キアラはマージャに発った。

 それからいろんな仕事をした。ひどいこともした。人を見張ったり、人を捕まえて尋問したり、時には拷問にかけたり……。


 そこまでしたのに、駄目だった。


 兄の死に目にも会えず、兄の葬儀にも参加できず、墓参りをすることもできず、こうしてスターツィに身を置くしかない……。

 そうでないと、また記憶操作薬を打たれてしまう。そしてまた兄のことを忘れてしまう。それだけは絶対に嫌だった。

 忘れないでいることだけが、唯一の弔いなのだから。


 キアラは洟をすすった。


 ──ピクニック計画には協力するなとアネットは言ったけれど、勝手に協力してしまおうか。そしてどさくさにまぎれて西側に逃げれば良い。そうしたら薬を打たれる危険はなくなる。

 ひょっとしたらうまいこと逃げおおせて、東ジェルマにも戻れるかも。


 キアラは肚を決めた。


 ──ピクニックは成功させてやる。スターツィを邪魔してやる。そして会場に行ってフェンスを超えて──自由になる。


 そうしよう。


 それ以外にキアラの生きる道はない。


 キアラは顔を洗って、出勤の支度をした。


 会議室に入ると、スターツィたちは、どうやって東ジェルマ難民を西側に流出させないかの議論で、早くも盛り上がっていた。


「やはり難民を乗せたバスの通行を止めるほかあるまい。東ジェルマ人シロンに連れて行かないことが肝要なのだ」

「そうだ。ピクニックが終わるまで奴らを足止めしなければならない」

「どうやって止める? バスの車掌は無理矢理にでも通行するかも知れんぞ」

「物理的に妨害するんだ。爆薬を仕込んで──」

「馬鹿、死人を出してどうする。テロのふりをして通行止めを作り出せ」

「最後にゃ車を出して道を塞いでしまおう」

「あの」


 キアラは言った。


「その計画、私が指揮を取ってもよろしいですか?」


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