第二章 陰謀
第6話 正体
エリカ・クライン──もといキアラ・テニエスは、車に乗せられてスターツィのプシュト支部に運ばれていた。
「思い出したか」
同僚兼恋人のハインツが尋ねる。
「はい」
「全く。ソヴェティアからの薬は値が張るんだ。慎重に行動せよと言ったはずだぞ」
「……だとしたらどうして私を記憶喪失になんかしたのです」
「何だ。まだ記憶が混濁しているのか」
ハインツは車を運転しながら言った。
「記憶喪失になったのは頭を打ったからだろうが。俺たちは記憶を取り戻す薬を使っているんだよ」
「あれ……」
キアラは額を押さえた。
「それに丁度良かった。ジグモンディは怪しかったが、お前のお陰で懐に入りこめた。怪我の功名というやつだな」
「……まあ、あなたがいいならそれでいいですけれど」
キアラはハインツに心酔していた。東ジェルマにいる病気の兄を助ける代わりにスターツィに入ってマージャに行けと言われて、一も二もなく従った。愛する兄と恩人のハインツのためなら何でもする。マージャ語だってあっという間に習得したし、こうしてこき使われることだってちっとも苦ではない。
「それで、何か情報は掴んできたんだろうな」
「はい。盗聴器は今しがた仕掛けたばかりです。それと、アネットさんは『ピクニック計画』に関与しています」
「……そうか……どの程度?」
「詳細は教えてくれませんでしたが、七月二十二日にバラント湖に難民の取材に行くと言っていました。何かやるつもりだと思います」
「そうか! そいつはでかした」
ハインツが笑顔を向けたので、キアラは嬉しくて天にも昇る気持ちになった。
「マージャに派遣されているスターツィも多くはないからな。常に東ジェルマ人を見張っている訳にはいかんし……日にちが分かったのは大手柄だ」
「ありがとうございます」
キアラはにこにこして言った。
「そうしたら、兄への医療費も……」
「ああ、引き続き援助しよう。安心するといい」
「ああ、よかった! 本当にありがとうございます」
キアラはハインツの腕に飛びついた。
「おい、何を考えている! 運転中だぞ」
「だって嬉しくて……」
「いいから離れなさい」
「はい」
キアラは居住まいを正した。だが笑みを抑えることはできなかった。
そうしているうちに車は目的地に着いた。
「キアラ、お前はこれまでの潜入で得た情報を報告書にまとめろとの指示が出ている。俺は巡回に行ってくる」
「分かりました」
キアラは敬礼をして、事務室に入った。
アネットについて知り得た情報を事細かに書き記そうとする。
「……」
手が止まった。
キアラの中にはエリカが生きている。
エリカはアネットに恩義を感じている。
アネットは不審人物だったエリカを拾ってくれた。家に上げてくれて、寝床も食事も提供してくれた。記憶を取り戻す手伝いもしてくれた。
そんな優しいアネットを裏切る……?
「ああ……」
キアラは頭を抱えた。
東ジェルマの難民が西に亡命してしまったら東ジェルマにとっては大打撃だ。それは何としても防がねばならない。だから亡命に関わる人物のことは事細かに調べて知っておく必要がある。
それなのに。
──エリカは優しい人なのね。
記憶の中のアネットが言う。
──本当に……優しい。
違う。優しいのはアネットだ。そのアネットを危険に晒すわけには……。
心の中でキアラとエリカが戦っている。
――だが結局、キアラが勝った。
キアラには守らねばならない人がいる。愛する人がいる。そのためなら何でもするのがキアラだ。一時の情に流されて任務に支障を来すようなことがあってはならない。
キアラは報告書を書き進めて言った。
ところが最後の最後で手が止まった。
「指輪――」
嘘を見分ける魔法の指輪。あれは本物なのだろうか。
魔法の道具の存在は都市伝説のようにして語り継がれている。この世のどこかに本物があってもおかしくはない。噂では遥か昔に貴族のハルベルク家が各地から蒐集していたとかなんとか……。
いや、不確かな情報は書かない方が良い。キアラは報告書に「以上」と書いてファイルに仕舞い、荷物を回収して事務室を去った。
久しぶりに、寮の部屋に帰る。
「……」
部屋は、めちゃくちゃだった。
本や服が散乱しており、割れたガラスが飛び散っている。敷物には大きなシミができている。
キアラは自分がそんなことをした覚えはなかった。
そういえば記憶喪失に関しては他にもまだ謎がある。何故自分は頭を打ったのか、とか。
……とにかく、片付けなければ。
キアラは机の引き出しに大切に仕舞い込んでいる箱を取り出した。そこには兄からの手紙がたくさん入っている。
手紙が無事だったことにほっと一息ついて、キアラは箱を仕舞うと、散乱した服を拾い上げ始めた。
***
キアラはその後は通常の業務に移った。
怪しい人物の後をつけたり、盗聴をしたり、東ジェルマから逃げてきた裏切り者がいないかどうか探したり。
兄への手紙には、記憶喪失のことは書かなかった。心配させたくなかったからだ。
いつもなら兄はすぐに返事をくれる。これまでには一週間に一度はやり取りをしていたはずだ。だが今度は何故かなかなか返事が来ない。
何かあったのかと上官に問い合わせてみたが、知らないの一点張り。
不安を抱えながら毎日ポストを覗き込む日々が続いた。
そうこうしているうちに七月二十三日になった。
そう。二十二日ではなく、二十三日。
アネットがバラント湖ゆきの計画を一日遅らせると、ズザンナに話していたのを、キアラは盗聴器で聞いた。おそらくキアラを警戒してのことだろう。だがこちらの方が一手先を行っている。
民主フォーラムを張っていたスターツィからの情報とも一致する。彼らは今日この日に、ピクニック計画を知らせるパンフレットを配布する予定なのだ。
パンフレットを配ることはこの国では違法ではないし、それを理由にスターツィが配布者を捕縛する権利はない。もしそんなことをしたらマージャとの国際関係が悪くなる。
だから任務は、全てのパンフレットを没収することだ。
キアラは作戦の指揮を取ることになっていた。赤毛のウィッグと黒縁の眼鏡、それにキリッとした化粧で完璧に変装してから、複数のスターツィを連れてバラント湖に向かう。
難民キャンプがあるのはプシュトから車で一時間半ほど走った所にある。
各員がバラント湖に繋がる道路に散らばって、怪しい人物がいないかどうかを見張る。
パンフレットを配るとなれば、それなりの労力がいるはずだ。大々的に動かざるを得ない。見つけるのは容易いことだ。
何となく、自分が見つけたくはないな、と思った。
他のメンバーが見つけてくれたらいいのに。
そうしたら罪悪感が少しは薄れるのに──。
キアラは頭を振った。
任務を放棄してはいけない。兄のためにも、ハインツのためにも。
──そして、キアラは見つけた。
アネットの車を。
キアラは呻いて、つかつかと車に歩み寄った。
「そこの車、止まりなさい!」
アネットは素直に道脇に停車した。
「何ですか?」
「スターツィだ。そこの荷物を検めさせてもらう」
「困ります」
無視して、後部座席にあるなにものかにかけられた布を取り払った。
「国境を越えた楽しいピクニックを開催!」
と大きく書いてある。そして日時と場所と、バラント湖からバスが出ることなどなど……。
「没収する」
「あらー……」
「他にも同じものを載せた車はあるのか」
「ありませんよ。私一人です」
ピカーッと、アネットの小指の指輪が僅かに金色の光を発した。
キアラはそれを凝視し、それから言った。
「う……嘘をつくな!」
「嘘ではありませんよ」
「他の車はどこにいる。場所を言え!」
「いないものは言えませんよ」
指輪はピカピカと光ったままだ。
だが、どうしようもない。
「とにかく、これは没収する」
キアラは車からパンフレットを残らず運び出した。
「もういい。行け!」
「はい」
アネットは悲しそうに笑って、車を発進させた。
キアラは仲間にその後を車で追わせたが、アネットが他の仲間の元に向かうことはなかった。
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