第5話 散歩

 今日もズザンナはエリカを連れて散歩に出る。

 いろんな場所を巡ってきたが、今日は国会議事堂を見ることにした。


 マージャは非常に長い間ウスタリヒの支配を受けてきており、独立運動も行なってきた。19世紀後半に情勢の変化をみてウスタリヒとマージャの間で「妥協」が成立し、ウスタリヒ帝国はウスタリヒ=マージャ二重帝国として成立することになった。

 ウスタリヒにとってはマージャの地位を挙げることに対する妥協、マージャにとっては独立ではなく連立するということに対する妥協である。


 これによっていくらかの権利がマージャにも与えられることになった。その一つに、マージャの議会の設立が挙げられる。紆余曲折があったものの、マージャには国会が作られて、国会議事堂も建設された。


 それは立派な建物だった。中世の建築様式を真似たもので、威容ある雰囲気を醸し出しており、なおかつ洒落ている。そして何より大きい。エウロパ州では二番目に大きな国会議事堂だと言われている。


 そんな立派な建物を、エリカはぼんやりと見ていた。その茫洋とした瞳には、しかし、どこか焦りも感じ取れた。


「休憩しようか、エリカ」

 ズザンナは言った。

「そこの公園に寄って、ベンチに座ろう」

「はい……」


 二人は芝生の中に踏み入って、花壇の前にあるベンチに腰掛けた。


「あの、ズザンナ」

「何だい?」

「ちょっと、お手洗いに行ってもよろしいですか」

「もちろん、行っておいで」


 一人になったズザンナは、密かに嘆息した。

 アネットの頼みだからこんなことに付き合っているが、果たして意味があるのかどうかズザンナには疑問だった。今のところエリカは、「大切な人がいる」「その人は病人である」ということしか思い出していない。外出中に異変が起きたことも無い。

 ふらふら出歩かないでも、家事手伝いに専念してもらって、あとはゆっくり休めばいいじゃないか、と思ってしまう。


 だがそんなことを言ってはエリカに可哀想だ。黙っておこう。


 やがてエリカが戻ってきたので、ズザンナは彼女を隣に座らせた。そして他愛もない話をして、エリカの心を和ませることに努めた。

 エリカは聞き上手だった。いつものように相槌を打って、ズザンナのお喋りを楽しそうに聞いてくれる。


 帰宅すると、アネットが出迎えてくれた。

 お茶の準備をしたズザンナは、いつものように状況を報告する。


「散歩中に何か異変はあったかしら?」

「いえ、何もなかったです」

「はい」

「記憶が飛んだりはしたかしら?」

「いいえ、しませんでした」


 アネットはにこっと笑った。


「ところで、エリカの記憶が飛んでいた時、エリカはどんなことをしていたんでしょうね」

「さあ……」

「教えてはくれないのね、エリカ?」

「え……? 知らないことはお教えできませんが……」

「おかしいわね。あなたが記憶喪失になっているのは本当だったのに」


 ズザンナは何だか変だと感じた。

 今のアネットは何だかおかしい。

「何の話ですか?」

 エリカも戸惑いがちに尋ねる。

「んー」

 アネットはまだにこにこしている。それからさらりとこう言った。


「どうやら今のエリカは記憶が飛んでいる最中みたいね」

「えっ!?」


 ズザンナは驚いてエリカを見た。


「そんな。いつものエリカと変わりませんよ?」

「ねえ、エリカ。あなたいつものエリカと違うんでしょう? 何か知っていることや、言うべきことは無いの?」

「……」

「え? え?」

 エリカは黙っている。ズザンナはひたすらに困惑していた。

「アネットさん、どうしてそんなことが分かるんです? エリカはいつも通りなのに」

「でも今日のエリカは嘘つきよ」

「嘘つき……?」


 アネットはおもむろに左手の小指を示した。


「この指輪はね。私の家に伝わる家宝で、嘘をついている人間がいる時には、ちょっとだけ光るようにできているの。だから私には嘘が分かるのよ」


 ズザンナはぽかんとした。

 そんな、魔法みたいな道具があるのか? あったとして、どうしてアネットが持っているのか?

 一方、エリカはぎょっとしたように後ずさった。


「ねえ、エリカ」


 アネットは穏やかにエリカの方に歩み寄る。


「あなたの名前はクライン・エリカよね?」

「……」

「答えられないということは別の名前があるのね?」

「……」

「その名前は何? あなたは何者?」

「……」

「あなたはどうして記憶喪失になったの? どうして私に拾われるような場所にいたの? どうして記憶が戻ったのに嘘をつくの?」

「……」

「まあ、答えてくれないのかしら?」

「……ごめんなさい」


 エリカは言って、小走りで部屋を出た。


「待ちなさい、エリカ」


 止める間もなく、外まで走り出てしまう。


「ズザンナ。ここに待機して。私がエリカを探してくる」

「は、はい……」


 ズザンナはまだ状況が飲み込めなかった。小さな手をぎゅっと握ってアネットを見送る。アネットはロングスカートをなびかせて走って行った。


「……そんな、エリカ。どうして何も言ってくれなかったんだ」


 ズザンナは呆然と呟いた。

 エリカはいつから「別のエリカ」になっていたのだろう。あんなに楽しそうにお喋りしていてくれたのに……。


 数十分もたたないうちに、アネットはエリカを連れて戻ってきた。

 開口一番、ズザンナに報告する。


「元のエリカに戻ったわ」

「えっ」

「急に記憶が飛んだんですって。あなたと公園にいたはずなのに、気づいたら夜の道端に立ちつくしていたと言っているわ。一度家に帰ったことは覚えていないみたい」

「そんな……」

「それで」


 アネットが意を決したように言う。


「これ以上エリカをうちには置いておけません」

「アネットさん……」

「『別のエリカ』は正直に話をしてくれなかった。信用が置けないわ。悪いけれどこのまま、警察に引き渡す」

「……警察に」

「分かっています」

 エリカはか細い声で言った。

「今までここにおいてくださったのが奇跡みたいなものだったんです。アネットさんとズザンナの厚情に感謝します。私は大人しく警察に行こうと思います」

「エリカ、でも」

「身元の分からない私なんかを引き取ってくださって、面倒まで見て下さって、本当にありがとうございました。でももう、これ以上、ご迷惑をおかけするわけにはいきません」

「……」

「これでいいんです。最初からこうなるべきだったんです」

「……そうね、エリカ」

 アネットは静かに言った。

「可哀そうだけれど、そうしましょう」


 まずアネットは、エリカにこれまでの給料を手渡した。

 それからアネットとズザンナは、エリカを連れて警察まで行った。

 警官に、これまでの事情をかいつまんで説明する。

 記憶喪失だというから面倒を見ていたが、手に負えなくなった。警察に預けたい、と。


「……今までお世話になりました。本当にありがとうございました」


 エリカは言って、どこかへと連れて行かれた。


「警察のお方」


 アネットは話しかけた。


「彼女はどうなるのでしょうか」

「……審査に通れば、新しい戸籍を与えられます。そうしたらどこかの集団農場に雇わせることになるでしょう。難民であれば、本国に強制送還しますが、記憶が戻らない以上、そこでも似たような待遇を受けるでしょうね」

「そうね……他にどうしようもないものね……」


 集団農場の労働形態は過酷だと聞く。ほとんど強制労働に近いところもあるとか。身元の分からないエリカは、おそらくいい環境のところには割り振られないだろう。


 ズザンナは俯いた。


 「別のエリカ」は、家を走り出る前に、「ごめんなさい」と言った。

 その言葉は、嘘では無かった。アネットの指輪が、光ってはいなかったから。

 「別のエリカ」は——怪しい人物かも知れないが、恩を忘れるような人物でもないのだろう。

 そう思っていた。


 アネットに警察から電話がかかってきたのは翌日のことだった。

 受話器を取ったアネットは、やや顔色を変えた。


「……エリカの身元が分かったそうよ」


 そう、ズザンナに告げる。


「本当ですか! 良かったですね。で、どこの誰だったんです?」

「スターツィ」

「……え?」

「東ジェルマから送られてきたスターツィが、私たちのあとをつけていて、エリカを警察に預けた直後にエリカを回収していったそうよ。引き取り人が自らスターツィだと名乗っていたというから、多分間違いないわ。……あの子は東ジェルマからのスパイだったのよ」

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