水月
ゆうとと
水月
「ねえ、今夜もやっぱり出るのかしら」
「そりゃあ出るでしょう、今日だけ出ないってことないわよ」
煩わしい雑音を聞き流しながら、夜の街を歩く。ここ一ヶ月以上、毎晩若い女性が一人連れ去られている。その人さらいで、街の話題は持ちきりだった。
「嫌ねえ、物騒だわ。早く逮捕されないかしら」
「ついこの間、向かいに住んでいた子が攫われたみたいで、次は私なんじゃないかって不安で眠れないのよ」
「あたしらはそんな歳じゃないでしょ」
「失礼しちゃうわ、仮にそうでも油断は禁物よ。お互い気をつけましょうね」
向かいの歩道で話していた婦人たちは、そう言って別れた。夜に出歩く人が減った分、人の会話がよく聞こえてくる。人が減ってくれるのはありがたいが、そのせいで外にいる者が目立つようになっては意味がない。はあ、と溜め息をついて、足早にその場を後にした。
大通りを抜け、すぐ近くにある橋まで歩くと、人通りはさらに減り、ようやく待ち望んでいた静寂が辺りを覆ってくれた。
橋の上には、一人の女性が立っていた。それこそ人さらいの被害に遭いかねない、大学生くらいの若い女性だった。彼女は橋から身を乗り出しながら、空に向かって手を差し伸べていた。あまりに奇妙な行動だったので、ついしばらく立ち止まって、その様子を眺めてしまった。彼女もこちらに気づいたらしく、じっとこちらを見た。その視線に耐えきれず、声をかけた。
「あの」
「死んでもいいわ」
「まだ何も言ってません……」
「でも、こんな時に言われることなんて『月が綺麗ですね』以外にある?」
彼女は臆面もなく、そう言い放った。恐らく心からそう思っているのだろう。大した自信の持ち主のようだ。
「すごいな、王様でももうちょっと謙虚ですよ……そうじゃなくて、危ないですよ」
「あら、流石に落っこちたりしないわよ。ナルキッソスじゃあるまいし」
「それはそうでしょうけど……この辺、人さらいが出るんじゃないですか?」
「……そういえば、そうね。でも、もう少しだけ月を見ていくわ。あなたもいるんだし、安全でしょう?」
「はあ……まあいいですけど。月、好きなんですか?」
「ええ。あなたは?」
彼女はそう言って、月から目を離してくるりとこちらを向いた。しかし、残念ながら彼女の希望には沿えない。
「月は嫌いですね」
「死んだ方がいいわ」
「そこまで言いますか」
返答を聞くやいなや、まるで用意していたかのようにすぐさま辛辣な言葉が返ってきた。
「そういえば、あなたの名前は?」
「普通こんなタイミングで名前聞きます? えっと……月島美月です」
「月島、美月……」
「どうかしましたか?」
「月島くん、良い名前ね。気に入ったわ」
「……何考えてたかは何となくわかりました」
「私は太田千陽。こんな名前だからか、月が好きなの。縁があったらまた会いましょう」
彼女……千陽は、それだけ言って立ち去った。
これまで見たことがない、変わった人間だ。掴みどころがないというよりは、手が届かないと言うべきだろうか。『月』という、彼女の絶対的な好みを掴んでいながらも、太田千陽という人間を全く知ることができていないように感じた。
思いがけず時間を使ってしまったおかげでひもじい夜を過ごす羽目になったが、なぜか充実したような気分だった。
それから次の日も、そのまた次の日も、夜にその橋に行くと、千陽は月を見ていた。会話を続けるうちに、彼女のことが少しずつわかってきた。彼女は同じ大学の一つ上の先輩で、好きな音楽家はベートーヴェンとドビュッシー。そして好きな作家は萩原朔太郎……彼女の好みは、やはり月で埋め尽くされていた。好きな音楽を聞き、『ラデツキー行進曲』と答えられた時は、流石に少し驚いたが。
「……もう月が入ってたら何でも良いんじゃないですか?」
「あら、それは違うわよ。私、『花鳥風月』って言葉が嫌いなの」
「それは意外ですね。どうしてですか?」
「あんなの嘘っぱちだからよ。あの中で美しいのは月だけだわ。『月月月月』なら話は別だけど」
「……千陽さんが生まれた時、既に日本語が確立されてて本当に良かったと今思ってます」
「わかってないわね、月島くん。言葉は時代に合わせて変化する、生き物なのよ」
「だとしてもしますかね、そんな突然変異」
諦めなければ何とかなるわよ、と千陽は大雑把に会話を打ち切り、深刻な話をするように改まってこちらを向き直して話題を切り替えた。
「……そういえば、あなたは月が嫌いだって言ってたけれど、何か理由があるの?」
「……まあ」
彼女の問いかけは、ある種予想通りのものではあった。
……月が、嫌いだ。これ以上ないほど、自分の中で抱えているものと似ているから。
「……月って、自分で輝いてはいないじゃないですか」
「それがいいんじゃない、自ら主張せず、謙虚なのが」
「太陽の光がないと、輝くこともできない。そんな様子を自分に重ねてしまうんです。長いものに巻かれている……そんな感じですかね」
これまで、ずっと長いものに巻かれて生きてきた。今だって、同級生と遊んで夜を明かすことも、本来やるべきこともしないで、変わり者の上級生との会話に興じている。それが人間の社会では最も楽だからだ。楽だからこそ、それで本当に輝く生き方はできない。稚拙な表現だが、本当は太陽のように輝きたい。だが実際には、俺は太陽の光の下を歩くことすらできない。どうせ長い命なんだからと楽な方へ逃げる、そんな自分を月に重ねてしまうのだ。
「……」
俺の考えを聞いた千陽は、憐れむような微笑みを浮かべて、こちらを見ながら返事をした。
「安心して、あなたはそこまで輝いていないわ」
「最悪だ、最悪だよこの人」
「あなたが月と同じだなんて勘違いも甚だしいわ、少しは弁えなさい」
「人の心を胎内に忘れてきたんですか?」
「それに……」
「……それに?」
「……他のものの光から生まれていたとしても、その輝きは月のものよ」
「……千陽さん」
先ほどとは一転して優しい言葉をかけられ、少し困惑した。直後、千陽はこちらにびしっと指をさして大きな声を出した。
「いい? よく聞きなさい! 月という字は!」
「!」
「三日月の形を象っているのよ!」
「これで何の関係もない正しい由来を教えてくれるパターンあるんだ……」
「嘘つきは嫌いではないけれど、月に嘘はつけないわ。もうお供え物を貰える歳でもないから、嘘をつく理由もないし」
一瞬何のことだか分からなかったが、『嘘つき』という言葉を頭の中で繰り返してはっとした。こうも目ざとく月を探し続けて、疲れないのだろうか。
「……でも、ありがとうございます。何となく、救われた気がします」
「そう、それなら良かったわ」
「……あの、逆に千陽さんはどうしてそんなに月が好きなんですか?」
「そうね……」
千陽は考えたこともなかった、といった様子で腕を組み、しばらくじっと考え込んだ。その後すくりと顔を起こして答えた。
「……月島くんは、無人島に憧れたことはない?」
「無人島、ですか? 覚えてないですけど……他人のそういう話はよく聞きますね」
「私が月を好きな理由は、きっとそれと同じよ」
千陽はそれだけ言い残し、去っていった。相変わらず、彼女のことがわからない。しかし、何となく自分も彼女に似たものを持っているような気がした。
それから、千陽は突然姿を消した。ついさっきまで燦然と輝いていた太陽が夕立の雲に隠れてしまうように、彼女は何の前触れもなく橋の上に現れなくなった。次の日も、またその次の日も。おかげで時間に余裕ができて食いっぱぐれることもなくなったが、こうも続くと流石に違和感を覚えた。
「……今日も、いない」
月を見る場所を変えたのだろうか。しかし、この辺りで月が一番よく見えるのはこの橋だ。であれば、考えられる可能性は一つだ。もし彼女が人さらいの被害に遭っていたとしたら? できれば考えたくなかった、最悪の場合が脳裏をよぎる。そうだとすれば、彼女が無事である保証さえない。
「……時間がない」
こうなってしまった以上、なりふり構ってはいられない。たとえ後で面倒なことになったとしても、千陽を見つけ出すことが先決だ。
ゆっくりと右手を真っ直ぐ伸ばしながら真横に差し出すと、その真ん中の辺りに数匹のコウモリが止まってきた。
「チハル……あの人間のことは見ていたな? 探せ。俺は人さらいの根城を突き止める」
指示を聞いて、コウモリは散り散りになって飛んでいった。あんな人間だ、人さらいの存在などさっぱり頭になく、単に他の角度や高さから月を見たかったというだけで移動している可能性もある。街全体を巡視するぐらいの手間はかけておいて良いはずだ。
人目のないところを探して飛び立ち、辺りを見回してみると、人通りは以前よりさらに減っていた。冬の夜中に独り空を駆ける怪物を、しんと冷えた空気が微かな風に乗って全身を鋭く突き刺してくる。いくらか頑丈とはいえ、この寒さにはこたえるものがある。しかし、これだけ静かならば、探し物もすぐに見つかってくれるというものだ。見つけたところで、何の腹の足しにもできないのが辛いところだが。
毎晩若い女性を一人ずつ連れ去っている、人さらい。もう何日も事件が起こり続けている以上、その後を追うのは簡単だ。自分たちが多くの獲物を喰らい、生きるためにと備えられたはずの力を、今は他者を救うために使っている。まったく奇妙な巡り合わせだ。そんなことを考えながら、獲物の気配を辿っているうちに、大きな鞄を車から出して抱えながら、もう使われていないであろう古びた建物の中に入ってゆく一人の男の姿を見つけた。地上に降りて後をつけると、男の入っていった部屋の中から必死に助けを求めるような女性の声が複数聞こえてきた。口を塞がれているのか、言葉にはなっていない。直後、そうした声をかき消すように、男が大声をあげた。
「命司るガミジンよ! 仰せの通り、生贄の少女を五十人用意した! 今再びその姿を現したまえ!」
「……!」
ガミジン。男が呼んだのは、生命を司る悪魔の名だ。直後、部屋の外にまで強い風が吹きつけ、悪魔が姿を現した。
「……確かに、生贄を集めたようだな」
「それで、霧子は!」
「まあ待て。先に生贄を半分殺せ。抵抗できぬよう、眠らせておいてやる」
「な……!」
「できぬと申すのならばよい。契約は解消だ」
「……」
男は悪魔に言われるがまま、いつの間にか眠らされ、声を発しなくなっていた少女に近づいた。
「……許してくれ……!」
「待て!」
今にもナイフを振り下ろそうとしていた男に声をかけて止めた。男は振り向きざまに俺の姿を見て、ひどくうろたえていた。
「な、何だお前は! いつの間に……!」
「名乗るほどのもんでもないさ、そこで偉そうにしている悪魔に比べたらな」
「……吸血鬼、か」
しわがれた声で、ガミジンは呟いた。犠牲が出そうだったので思わず飛び出してしまったものの、さてどうしたものかと悩まざるを得なかった。男を止めるのはともかく、ガミジンを退ける手段がない。悪魔の力は強大で、吸血鬼風情の攻撃がそれほど通じるとも思えず、ましてや悪魔祓いの力に頼ることも当然できない。そんなことをすれば、世紀の自滅として語り継がれること請け合いだ。やはり、目の前で息を荒げている男をうまく利用する他になさそうだ。
「それにしても、よくこんな数の女性を攫って来られたもんだな。しかも一日一人ずつ……一体何のために?」
「……娘を、生き返らせるんだ。病気で死んだ霧子を……!」
男は拳をぐっと握り、振り絞るようにしてそう言った。その願望はもっともなものだ。先立った娘が返ってくるなら、何でもするという親は少なくないだろう。しかし、俺は何故かそれを聞いて無性に腹が立った。
「……」
「……生贄を一人ずつ集めたのは、怪しまれないようにするためだ。生贄の命を保てるかが心配だったが、それも生命を司るガミジンが保ってくださった。五十人一気に攫ってさっさと捧げることも可能だが、それだけ人を集めれば私はすぐに怪しまれ、娘と引き離されてしまうだろう。だから一日に一人ずつ、少しずつ集めていった……!」
「……えらく苦労したらしいが、それでも相手は悪魔だ。その願いを素直に叶えてくれると思ったら……」
「そんなことは百も承知だ! できることなら私は妻と娘と、もう一度幸せに暮らしたい……しかし、私がどうなろうと、娘が無事に生き返ってくれれば少なくともそれで十分だ! お前のような不老不死の吸血鬼にはわからないだろうがな!」
そう言って、男は持っていたナイフをこちらに向け、必死に叫びながら突進した。咄嗟に腕で腹部を庇い、その半ばほどまで刃が突き刺さった。傷口から血が溢れ、刃を伝って滴り落ちる。
「……わかるよ」
「何……!?」
「吸血鬼は、不老不死ではないからな」
腕に力を込めて男の手からナイフを引き抜き、勢いよく後ろに振り払ってナイフを落とす。腕を押さえて止血しながら男の方へ一歩ずつ歩み寄ると、男は一歩ずつ後退りし、ほどなくして壁に背が当たってその場にへたり込んだ。
「だからこそ……お前を許せない。手の届かない、届かせてはならない、失われた命というものに手をかけるお前を」
「……!」
武器を失った男はこちらを睨みつけることしかできない。俺の方もガミジンを退ける術を考えるための時間を稼ぎたかったので、その場にじっと立ち尽くしていた。しかし、すぐにガミジンが痺れを切らしてしまった。
「……うむ、飽きたな」
未だにどこにいるとも分からないその悪魔が声を発すると、男が突如血を吐き出して倒れた。
「がはっ! ぐ、う……霧子……霞……!」
「……!」
しかし、死んだはずの男は何事もなかったかのようにむくりと身体を起こし、立ち上がった。その表情は先ほどまでとは異なり、不敵に微笑んでいた。男は手を握ったり、何度か足踏みをしたりして、身体の調子を確かめているようだった。
「ふむ、なるほど、なるほど……これが人間の身体か」
「……ガミジンか」
「いかにも。我らのごとき上級の悪魔は、人間界に姿を現すのに手間がかかるものでな。しかし、こうしてめでたくご対面というわけだ」
何らかの手段で男に乗り移ったらしいガミジンは、やや高慢な口ぶりでそう話した。
「そいつはご苦労なことだ。一体どんな手間がかかることやら」
「……時間稼ぎか? まあ良い。時間が経てば不利になるのは貴様の方だからな、吸血鬼。そうだ、我々は忌まわしき神によって人間界での受肉を妨げられているのだ。しかし、神とて全ての上級悪魔を完全に抑えきれるわけではない。多くの生贄を喰らい、神が悪魔一柱に費やせる力を上回ることができれば現界は可能となる」
「……なるほどな。それが手間ってわけか」
しかし、それでは奇妙だ。男の命を奪えば良いのであれば、わざわざ生贄を集めさせる必要がない。人間の姿を得てからも、より強い力を獲得するためだろうか。
「だが、これはいわゆる正攻法というやつだ。そんな手順をわざわざ踏む悪魔がいたら、そいつはよっぽどの物好きだな」
「……」
「神はなぜ悪魔の現界を妨げていると思う? 簡単だ、人間を守るためだな。ではその人間を、守るに値しないものと神が断じたとすれば?」
その言葉で、ガミジンの手口に大方の見当はついた。悪魔に関わり、その力を利用しようとした人間……彼らに対して、神は加護を与えないのだろう。非情だが、危険な敵に与する者を守る道理もない。神とて、愛せる敵は自分の勝てる敵に限るのだろう。
「……もう結構だ。娘の命でその男を釣って悪事を働かせ、頃合いを見て殺した。そういうことだろう?」
「察しが良いな。想定以上に時間を稼いでしまったか?」
ガミジンは高笑いして、俺の推察を肯定した。しかし、その表情からは安堵が微かに見え、強い違和感を覚えた。それは恐らく、何かを隠し切れた、という安堵なのだろう。
「……いや、少し違うな」
「ほう?」
「あんた、物好きなんだな」
「……はっ、よく頭の回る奴だ」
ガミジンはその言葉を最後に、こちらに急接近して拳を振りかぶった。そのまま突き出した拳は、明らかに常人の出せるそれを逸した勢いで風を切る。横に身体を逸らして何とか躱し、退がり際に腕を振るう。爪がガミジンの頬を掠め、血が流れ出した。そのまま後退し、体勢を立て直す。
「……」
「これが、人間の肉体……我が悪魔として、この世に存在する器……なかなか悪くないではないか」
ガミジンは得意げだが、ここまでは想定内だ。むしろ策略は成功に向けて突き進んでいると言えよう。さらに、奴は決定的な勘違いをしている。後は俺がしくじらなければ問題ない。
しかし、ガミジンはそんな状況でも一切の油断はできない相手だ。一見、強大であるものの傲慢で、そこにつけ入る隙があるように思われるが、大量の生贄を用いた現界と悪魔に関わった者を乗っ取ることによる現界の両方の準備を進めていたことからもわかるように、その実まったく狡猾だ。ガミジンの攻撃を躱し続け、それと同時に傷をつける。ガミジンを撃退するために俺ができることは、それを確実に繰り返すことだけだ。
「ははっ! 逃げてばかりではつまらぬ! 今の我は弱き人間の身体だ、ぶつかり合えば勝てるかもしれぬぞ?」
「見え透いた嘘をついてくれるな、身体は人間でもあんたは悪魔だ。ぶつかり合いなんて仕掛けるものか」
その傲慢な気性故か、あるいは肉体を得て間もない故か、ガミジンは自らの負っている傷に対して非常に鈍感だった。血が流れていてもお構いなしといった様子で、ひっきりなしに拳を振るい、蹴りを放ってくる。傷が増え、動きが明らかに鈍くなっていたが、それを悟られないために敢えてゆっくりと躱し、爪で手首の辺りの傷をさらに抉った。
「……小賢しいな、吸血鬼。かかって来いと言っておろうが。それとも陽が昇るまでこうして逃げ続け、死にたいのか」
「……いや、悪いな。そろそろ終わりだよ」
「そうか、では今のうちに傷を治すとしよう」
ガミジンは平然とそう言いのけて、その場に静止し、深く呼吸した。
「……!」
「驚くこともあるまい。我は生命を司る悪魔、傷を治すことも容易い」
「……終わりだな。あんたは死なないだろうが、その肉体とはお別れだ」
「何……!」
直後、ガミジンはよろめき、その場に倒れ伏した。この様子では、もう立ち上がって一歩動くことすらままならないだろう。いくら中身が悪魔とはいえ、意識があるのが不思議なほどだ。それほど、男の身体からは大量の血が失われていた。
「どういうことだ……! なぜ、傷が治らぬ!」
「簡単だ、今のあんたは人間だからな。一瞬で傷を治せる訳がない」
「我が、人間……!?」
「ああ。人間より上手く身体を使えても、人間にとって不可能なことが可能にはならない」
「ふざけるな……そんなことが、そんなことがぁ……!」
ガミジンはもうほとんど尽きた力を振り絞るようにして怒りを露わにした。しかし、当然それによって何かが起こるわけでもなかった。
「あんたは傲慢だが狡猾……逆に言えば、狡猾だが傲慢だ。だから人間にはできない事を、できると思って戦いに組み込んでしまった」
「だが……我は悪魔だと貴様は確かに言った!」
「そんなの嘘に決まってるだろ。悪魔……とは違うが、異形の身として俺はあんたより長く人間の世界にいる。その利点を活かしただけだ。あんたにここぞという時に傷を治させるためにな」
「……」
ガミジンは心底失望した、という様子で眼を閉じた。そのまま悪魔は実体を持たない存在に戻り、傷だらけの肉体は安らかに眠る抜け殻となった。
「……全く、興醒めだ。よもや、我がこれほどの苦労をして追い求めた人間の身体が、こうも虚弱であるとはな」
「……」
「失敗してももう一度機会を待てばよいと思っていたが、こうも弱くてはそもそも肉体を得て現界する気も失せたわ。下手に機会を得てしまったばかりにな……」
「……そうだな。人間の世界はあんたには合わない。身の丈に合わせて生きるってのは大変だからな」
「はっ、そのようだな。さて、これからどうするか……」
徐々に薄れていたガミジンの声は、その言葉を最後に聞こえなくなってしまった。そういえば、と振り返って人質の方を見ると、命を奪われてはいないようだった。目的のない殺生は要らぬ神の怒りを買ってしまうという判断で、生かしておいたのだろう。陽が昇って目を覚ませば、彼女たちはそれぞれの家に帰ってゆくはずだ。
「後は……」
後は、一人だけ目を覚まし、固まっているチハルをどうするか、ということだけだ。
「……月島くん……」
「あー……えっと、いつ頃から起きてたんですか?」
「その……月島くんが腕に刺さったナイフを振り落とした時、飛び散った血がかかって……」
見ると、確かに頬の辺りに血が付いていた。その時から起きていたということは、もう正体の隠しようがないということだ。
「だいぶ前だな、よくそんなに長いことその場に平気でいられましたね」
「あの状況で騒いだら真っ先に殺されるでしょ。って、そうじゃなくて……あなた、吸血鬼?」
「……はい」
「案外、普段それらしい様子はないのね。結構一緒にいたけれど、全く気付かなかったわ」
「冷静だなあ……」
彼女は命を守るために冷静に振る舞っているのか、それとも本当にどこまでも動じていないのか、それすらも分からなかった。数日ぶりに会うが、掴みどころの無さは健在だ。
「それにしても、ちょっとまずいな」
「ああ、これ?」
チハルは首にかかった小さな十字架のネックレスを掲げて見せた。悪気はないのだろうが、もし十字架が効いていたのなら俺は今ので間違いなく地獄行きだ。そこの所に彼女は気付いているのだろうか。
「いや……というかそういうのは大抵効かないです」
「え?」
「にんにくとか十字架とか、その手のものは人間が未知の恐怖を和らげるために勝手に作り出した弱点です。あるいはたまたま吸血鬼の気が変わって帰ったのを撃退したと勘違いした、とか。よっぽど神聖な力を持ったものなら話は別ですが、そんなものはそうそう現代にはない」
「じゃあ銀の武器は? あれも有効だってたまに聞くわ」
「……まあ有効ですけどね、チハルさんは銀の剣で斬られたらどうなりますか?」
「そりゃあ死ぬわよ」
「吸血鬼も同じですよ」
「そうなの……勝手なイメージを持っているのは私の方なんだけど、何かがっかりするわね」
「まあ、仕方ないことですね」
チハルはやや残念そうだった。あまり夢を壊すのも良くないと思ったが、下手に嘘をついてもこちらが虚しいだけだ。
「現代の吸血鬼は血がだいぶ薄れていて、日光も多少は平気です。でも、致命的な弱点を一つ抱えている」
「……それは?」
「自分が吸血鬼だと、知られてしまうことです。人間は、未知のものにはとにかく恐怖心と当たりが強い。吸血鬼であることを知られれば、そこで生きていくのが一気に難しくなってしまう」
「……」
チハルは、黙ったまま俺の話を聞いていた。俺が何を言いたいかは、大方察しているらしい。
「だからね、もしもチハルさんが色々言いふらしたら非常に困るんですよ」
「……口封じでもする?」
「先祖はそうやってバンバン殺してたみたいなんですけどね、罪のない人を殺すのはどうにも夢見が悪くなりそうで良くない。今や血を吸うのだって、死んでいる人間から少しもらっているだけなのに」
「じゃあ、どうするの?」
「手はありますよ。例えば……秘密を共有する、とか」
そう言ってチハルに迫り、肩を掴む。しかしチハルは驚くことすらせず、ただ俺の顔をじっと見つめていた。その様子を見て、彼女が俺と出会って最初に言った言葉が脳裏をよぎった。
「吸血鬼……きゅうけ、つき……ふふ、それも悪くないわね」
「この状況で何しょうもないこと考えてるんですか?」
「というか私、吸血鬼に人の心がないとか言われてたの?」
「それ今思い出すことかなあ……」
死ぬわけではないが、命の危機が迫っているこの状況においても、チハルの調子は全く変わらなかった。まさしく太陽のように、一切の揺れも見せない彼女を見て、俺のしようとしていることは多分間違っているのだと感じた。今、彼女を俺と同類にするのは簡単だ。でも、それと同時に、きっと俺にとっての太陽は、無人島は、消えてなくなってしまうのだろう。そうなっては、俺は人さらいの男やガミジンと何も変わらない。そう思って翼をしまい、千陽の肩から手を離した。
「……やっぱり、やめておきます。気が変わりました。別に千陽さんが黙ってれば良いだけの話ですし」
「……そう、残念だわ」
「それに、言いふらすあてもそんなになさそうですし」
「手当たり次第に叫び散らすわよ?」
「ちょっと見てみたいけど勘弁してください」
「まあ、そうね。到底話して信じられるようなことでもないし、黙っているわ」
千陽はそう言って、建物の外へと歩いて行った。そしてすぐに晴れやかな表情でこちらに帰ってきた。
「ここ、月がとてもよく見えるわね」
そう言われて外を見ると、大きな満月が天頂に輝いていた。橋と比べると周りに他の建物が多いが、高さがある分月がより近く感じられた。この建物に来てから随分時間が経ったつもりでいたが、日が昇るまではもうしばらくかかりそうだ。
「ああ、本当ですね」
「あの橋も良いけれど、ここも悪くないわね。今度からたまにはここにも行くようにしようかしら」
「多分無理ですよ、もう誰も使ってないみたいですし、こんな事件が起こってしまった以上取り壊されるか、良くて立ち入り禁止でしょうから」
「……それもそうね。最初で最後の眺め……目に焼き付けておくわ」
千陽は五秒ほどじっと月を見つめると、満足したのか視線を落とし、こちらを振り返った。
「それじゃあ事件も解決したことだし、月見うどんでも食べに行こうかしら」
「月見うどん? もうシーズン過ぎてますよね?」
「知ってるのよ、年中月見うどん一本でやってる店」
「イカれてる……」
相変わらず、彼女のことはわからない。けれど何となく、根底の部分では自分と同じものを持っているように感じる。今はそれで十分だと思った。決して自分の手では届かないからこそ、人は無人島に、太陽に、そして月に憧れる。そして、もし届いてしまえば、無人島は過酷な孤島に、太陽は身を焼き尽くす死の星に、月は傷だらけの醜い衛星に変わってしまう。きっと、そういうものなのだ。
その後食べた月見うどんの卵も、結局最後まで潰せなかった。千陽も同じようだった。
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